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第6号、2011年10月2日発行

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商業の町・上海の最新風景(印刷用pdf)

童 適平(経済学博士)

アジア近代化研究所研究員、明治大学教授

金融の引締めにもかかわらず、上海の消費ブームは衰えていない。2010年、上海は万博の風に乗り、空前の消費ブームを迎えました。小売額は前年より17.5%も増加して,6036.86亿元を実現しました。これに続き、今年の1~6月の半年間に3256.14億元に達し、去年同期より11.5%増加しました。
 上海の消費ブームが衰えない原因はさまざまです。たとえば、所得の上昇のほかに、不動産価格の抑制政策により、不動産投資資金が消費市場へと回り、不動産ブームによる耐久消費財ブームが持続し、交通やショッピング施設などのインフラが整備され、物価が上昇したこと、などが挙げられます。
 商業の町としての上海の特徴は繁栄の歴史と時代の移り変わりに合わせて、それぞれよき古き時代の特色をいまに止めており、それらと共生していることです。現在、それらは中国の伝統文化を反映し、主に豫園、准海中路、および徐家匯の3つの地域に顕著に現れています。これら3つの地域は下の写真にその一部が現れていますように、上海の伝統や歴史的経緯を知れば、さらに興味が湧くことでしょう。そこで、消費ブームに沸く上海の典型的な3つの地域を中心に、これら3つの繁華街の最新風景をいくつかお目にかけましょう。

1.豫園および豫園商城

まず上げられるのは豫園でしょう。豫園とその周辺地域は庶民の娯楽と買い物の場として繁栄してきた、上海のもっとも有名な観光スポットです。狭い意味で豫園とは江南にある有名な庭園のことで、1559年に建てられました。豫は愉に通じており、「楽しい園」を意味します。豫園はもともと上海人の藩允瑞という四川省長(四川布政使と呼ばれた)を努めた役人がかつて法務大臣を勤めた父親のために造った庭園ですが、建設が完了したときには父親はすでに代を去っていました。 近年、「豫園」と呼ぶとき、庭園どころか、豫園地域全体を意味することもあります。豫園はアヘン戦争で一部が破壊されましたが、1956年から改修が始ましました。1949年の中国革命以後、庭園の半分は「豫園商城」に改造され、その後さらに拡大されました。この庭園を中心に多くの商店が並び、いつしか豫園商城と呼ばれる地域が生まれたのです。
 ここにはなんでも取り揃えており、何かほしいものがあれば、ここに行けば何でも安く、手軽に手に入れることができるとして、多くの人が訪れるようになりました。今日では中国各地ばかりか、外国から訪れる人も多く、骨董、おみやげ、食べ物、電気製品、さまざまな日用品など豊富にあり、終日ごった返しています。何も買い物をするだけが観光客の目的ではなく、豫園を見るのもいいし、豫園商城内はもとより、その周辺地域を散策するのも面白いでしょう。最近では豫園の周辺にもどんどん拡大しつつあります。以下に示す写真はその一部です。

       

上の2枚の写真は豫園商城の中の様子。これらの写真から、毎日、
多くの観光客でにぎわう様子が伺われます。 

2)准海中路  

1930年代“東方魔都”としての上海を偲ぶ旧フランス租界の大通りで、准海中路と呼ばれます。フランス租界はイギリス租界のバンド地域と並んで有名です。バンド地域は外灘と書き、上海の中心地の黄浦区にあり、上海でもトップの観光スポットとして世界に知られています。租界と言うのは19世紀後半から革命前の開港場で外国人が行政権と警察権を行使していた地域です。それには共同租界と各国による専管租界の2つがありました。フランス租界はフランスの専管租界です。租界は1842年のアヘン戦争で中国がイギリスに敗北した後、南京条約に基づいて上海を開港させ、英仏が租界を設置しましたが、その後南の方からフランス、イギリス、日本、アメリカが租界を設置しました。
 フランス租界は、1845年のイギリス、1847年のアメリカに続いて、1849年にフランス領事のシャルル・モンティーニがフランス人居住地域を租界と宣言したことに始まるといわれています。その後拡張され、独自にインフラを整備するなど、上海でも最高級の美しい住宅街として有名になりました。1943223日、フランス政府は当時の汪兆銘政権に対し、治外法権を撤廃し、租界を返還しました。今でも当時の質の高い建物の多くが残っています。それらには多様な建築物がありますが、中には現在ホテルに改装されているものもあります。また記念館として宋慶齢旧居、旧蒋介石邸なども公開されています。
                      
   

 左上の写真は中国革命前、欧米の最新映画を上映する映画館であった。今日も、数年前に昔の外観を取り戻し、同様に映画館として人気を博しています。ローマ字のCATHAYは昔の名前です。右、右上、下のいずれの写真も、准海中路の最新の風景を表しています。

  


              

 3)徐家匯

また改革開放以後、急速に脚光を浴びてきた地域に「徐家匯」(日本式には「じょかかい」と読む)地区があります。この地域は、北は広元路、南は斜土路周辺までの地域を指し、上海の天主教の発生地としても知られています。この地域は主として服飾とかパソコンなど電化製品で知られているため、近年は上海の渋谷とも言われ、また
徐家匯公園なども建設されていて、デートスポットともなっているため、休日となれば、多くの若者が集まり、若者の町として知られています。
 この地区の歴史は明朝にまでさかのぼります。当初は「徐家庫」と言われていましたが、その後この名になりました。1897年に盛宣懐が「徐家匯」の北方に南洋公学(現在は上海交通大学)を開きました。こうした歴史的経緯を持つこの地域も、いまや上海市の南西部にある徐匯区の商業の中心として、発展しています。

         

この地域には90年代以後多くのデパートや量販店が作られ、この写真にはそれらの多くの建物が写っています。この地域は写真からも分かるように、連日車と人間でごった返しており、最も人気のある地区となっています。特に、写真の真ん中の建物は著名な建築物の1つであす。

            

ここに示す上の2枚の写真もこの地域の建造物を表しています。左上の写真は東方商厦(香港資本と合弁でスタートした百貨店)、左は港恒匯隆プラザ(香港系のショピングモール)です。日本企業の広告も多数みられます。

                

太平洋百貨店(台湾系の百貨店)   上海市第六百貨店(昔の国                         営百貨店)

 下の写真の中の丸いボールのような建物と隣接の建物は上海の秋葉原と呼ばれるものです。ここは日本と同様、若い人に特に人気が高いところ。

        
      


         
 写真の左側は百貨店や高層ビルに囲まれる徐家匯地区の最後の空き地で、まもなくビルが建設される予定。右側はこの地域の有名大学の1つ、上海交通大学の構内にある自動販売機です。中国でも、土地代や人件費を計算するようになったのでしょうか?


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