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第1号、2010年07月10日発行
無断転載禁止。著作権は各著者にあります。

河西回廊旅日記 (印刷用pdf)

西加 正一
アジア近代化研究所正会員

(1) はじめに
 5月の連休前に1週間ほど中国に行ってきた。「もうひとつのシルクロード8日間」というタイトルのツアーに参加。何が「もうひとつ」なのかいまひとつよく分からないが、かねてから一度は行ってみたいと思っていた「敦煌」に二泊できるので案内ハガキを見て即決。中国への渡航は9回目。ただ、二、三の大都市を除けば一度きりの訪問ばかりなので、毎回違う国に行くような気がする。中華人民共和国(面積約960平方キロ)は、ユーラシア大陸の半島部分ともいえるヨーロッパ諸国(EU加盟27カ国合計面積約453平方キロ)の二倍以上の広さになる。ひとつの国というよりも、本当のところは別々の連邦のようなものかもしれない。人民元紙幣の顔写真の裏面には、漢語・満州語・モンゴル語・ウイグル語・チベット語の5種類の文字が小さく書かれている。少なくとも五カ国の連邦国家と理解した方が実情に近いのではないだろうか。今回は、その中の西北エリアが目的地。何はともあれ、行ってみよう。

(2) 1日目(2010年4月25日)
 成田発午後5時。上海浦東(プートン)空港に着くのは夜。飛行機は、暗い大陸に着陸する。揚子江(長江)が黄色い帯状の縞模様になって東シナ海に這い出る光景は今回、見ることができない。窓からの景色に期待できないので、隣のシートの中国人青年と話し込む。北京理工大学を今年卒業して、上海の合弁企業に勤務しているとのこと。茨城の日立製作所で1週間研修した帰りという。旅行用会話以外、私には中国語が音楽にしか聞こえない。その青年、唐君にとっては、日本語がそうだという。そこで、共通語として英語を使う。ピジンイングリッシュ。ピジンは、「ビジネス」の中国語訛りとも「鳩」が歩くようにたどたどしい英語とも。つまりはブロークンな英語だが、コミュニケートできれば十分。それに「一衣帯水」、「同文同種」のお隣り同士、漢字の筆談という手もあるじゃないか・・・。
 IT(インフォメーション・テクノロジー)関連の技術者。エリートらしい。半日だけ東京観光して、橋の二つある入れないところ(皇居)と提灯の下がった門のある混雑した町(浅草)に行ったとのこと。お互い意思が通じ出すと、話が盛り上がってくる。初任給は日本円にすると、5万円ほどだという。そうか、東京の大卒初任給は20万円前後だから、上海の4倍もあるのか。お金の数字だけで錯覚し、東京は上海の4倍の生活水準だとつい早とちり。胸を張って威張りそうになる。今年中に日本を抜いて、中国がGDP世界第2位になるといわれているというのに・・・。上海は中国の中では高い方だが、それでも物価は、日本とは比較にならないほど安くて、月給5万円でも十分生活できるという。新卒者は大体、月給を全部生活に使い切ってしまう。衣食住の満足度が同じ程度なら、生活費としては、日本円の値打ちは中国元の4分の1しかないということもできる。購買力で比べるとそうなる。為替レート、つまり円と元の交換割合の問題。元が切り上げされて、今の1元15円が60円と4倍になれば、数字と生活実態とがバランスがとれるようになる。今すぐにはあり得ない話だが、明日はどうなるか誰にも分からない。
 今、円は1ドルおよそ90円。しかし、過去、戦後長い間、その4倍の360円だった。今や、4ドル出さないと360円には換えてくれない。円の値打ちが4倍になったわけで、かつて高かったアメリカの物価の方が、食事するにも泊るにも日本の物価より割安感がある。
 福建省などからコンテナ船に隠れて命がけで密航してくる中国人が絶えないと騒がれていたのは十年ほど前まで。つい、この間のことなのだ。それが今や銀座のデパートや秋葉原の電気街の上得意は中国人観光客。アッという間だ。だから、1元が今の4倍、およそ60円になるのも、長い時間の幅でみれば、経済力学から外れた夢物語とまではいえないのかもしれない。日米がそうだったように、日中関係も遅かれ早かれ、いずれ変化するのだ。・・・。
 考えたり感じたりすることの基準が揺らぎ始める。日本と中国とは、モノの値段を手始めに、価値基準がそれぞれかなり違うらしい。世界はダブルスタンダード、マルチスタンダードの混合体。曖昧さと混沌の坩堝。何でもありなのだ。価値も意味も人によって、国によって違う。だから、逆に、ちょっと基準をずらして自由になれば、今まで知らなかった新しい世界が開けてくるのかもしれない。目の前の現実が全てだとは限らない。違う現実がたくさんあるのだ・・・。しかし、一回しか生きられないのに自分は一人。自分の国も残念ながら大抵ひとつ。一人でひとつの国にしがみついてきた長い年月。偏見とともに生きた数十年。これでは、なかなか自由ではいられない。
 私は日本人ツアー客。トランジット(乗り継ぎ)でそのまま中国内陸部陝西省の西安に向かう。浦東空港の通路で総勢29名一時集合して点呼。唐君は二、三度振り返って目顔で挨拶を繰り返してから、人なみに消えた。戦火も内戦も文化大革命の嵐も過ぎ去った上海。戸籍人口1,400万人近く、常住人口は2,000万人に迫るという。時速400キロを超す世界最速の上海リニアモーターカー。それに乗れば、唐君は、空港から10分足らずで市街地に着く。魔界とも呼ばれた巨大都市。今週末から万国博覧会が始まる。

(3) 2日目(2010年4月26日)
 午前零時過ぎ、西安空港到着。早速、ホテル(西安賓館)に向かう。砂嵐が、三日三晩吹き荒れたという。どこか殺伐とした空港からのバス移動。ガラス窓には人っ子一人いない街路が埃りまみれになって映っていた。並木にもタクシーの屋根にもたっぷりと黄砂が降り積もっている。埃りに埋もれた巨大な廃墟?町全体が不吉なセピア色をしていて、どこにも音がない。ハリウッド映画で見た人類壊滅後のゴーストタウンのようだ。これが永遠の都、長安の成れの果てなのか?でも、真夜中なんだから暗く静かなのは当たり前なのかもしれない・・・。
 部屋に落ち着いて4、5時間後にモーニングコール。睡眠不足のままロビーに集合したが、朝の渋滞でバスが遅刻。そのうえ、1日2便の敦煌便が1便に減ったので当初予定より2時間早く繰り上げ出発になるという。そのせいで、西安市内は、それこそ駆け足観光。サア、急げ!・・・。朝になって、蛍光色も鮮やかな、黄色や朱色の制服の清掃人が人海戦術駆使して大活躍だ。おかげで街はすっかり清潔な印象に変わっている。退職した公務員が多いとの説明。そういわれてももう違和感はない。この国では、働く「人民」全員が公務員のはずなんだがと変に思ったのは、もうずいぶん昔のことになる・・・。
 空も晴れ、視界くっきり。でも、ゆっくりはできない。西安限定の現地ガイドの周さん、説明そっちのけで走る、走る。「悠久の歴史よりも今日の米・明日のパン」なのだ。土産物屋に連行し、買い物させ、コミッション(周旋料)を稼がなきゃ・・・。何度も急がせるので、添乗員と現地ガイドがお客そっちのけで言い争い。すったもんだして、結局、絨毯工場のショッピングをカットして時間をひねり出す。それはそれでいいのだけれど、シルクロードの出発点、西の城門秦の始皇帝陵も写真を撮っただけだった。
 兵馬俑坑博物館前で、見学前のトイレ休憩。ここはアミューズメントセンターの中の広場のようだ。広大な整備された敷地の中に博物館がいくつも。ファザード(建物の正面)に篆書で「兵馬俑坑博物館」と彫られている。浦安の東京ディズニーランドの中にできた中国街区で歩き疲れたような気持ちになって一休み・・・。
 ツアー仲間の斉藤さんが「人民解放軍陰謀説って知ってます?」とにこやかな顔で話しかけてくる。人の良さそうな表情をして、「兵も馬もみんな、彼らの手作りだそうですよ」。エッ!「農民が発見してから、何年か立入禁止にして整備している間にいろいろやったというハナシですよ」と、信じてはいないけど、なんとなくあり得そうでしょうという口ぶり。
 「そうですかー・・・!でも、アポロ十一号の月面着陸も捏造。アリゾナの砂漠やハリウッドのスタジオ撮影だって言ってるアメリカ人もいますよねー」ショックを隠して辛うじて応酬。何々?・・・と他の仲間が集まってくる。
 第一号坑。サッカーコートより大きそう。ドーム型の屋根に覆われた、兵馬で埋まった発掘現場。灰色の大きな塑像=俑(人形)の下に蹲って何人もが作業を続けている。刷毛や鏝は握っているが、手作りしているようには見えない。

ここには第一号坑の写真が表示されています。
第一号坑 (生きた兵士風の警備員)

 欄干の外側の通路を駆け足で一周。生きた兵士風の警備員が許すと頷くので直立不動の写真を撮った。十数年前には、坑内のどこでも、シャッター1回につき200元のワイロを要求され、領収書も出してくれたらしい。しかし、日本のバブル経済崩壊の翌年1991年から年率10%前後の高度経済成長が続く現在、公然と汚職をする様子は見られない。モデルになっても、さすがに小銭を要求したりはしない。だが、これも観光ビジネスがらみのサービスなのかも・・・。何につけ、疑い出すときりがない。あー、陰謀説なんか、せめて見学が終わるまで聞きたくなかった・・・!

ここには空の雲(飛行機の眺め)
の写真が表示されています。
空の雲(飛行機の眺め)

 午後、敦煌に飛ぶ。四、五千メートル級の祁連山脈の上空。窓際。嬉しくて2時間余りずっと外を見ていた。黄河水系と内陸水系のコンチネンタルデバイド(分水嶺)。祁連山脈とは、甘粛省西部から青海省東北部にかけての山域の総称で、河西回廊の南にあるので、南山とも呼ばれている。三日間の砂嵐で山脈の裾野はオレンジ色。山頂はかなりの残雪だが、砂嵐がまだ漂っているらしい。その黄色い雲の絨毯の上に、五千メートル以上の上空の雲だけが、飛行機のすぐ下や行く手にポカリ、ポカリ浮いて真っ白に輝いている。この下が河西回廊で、ゴビ(少しの草しか生えない凍土)と砂漠といくつかのオアシス都市があるはず。ヒトも住んでいるはず・・・。といっても、こんな砂嵐の中にヒトが住めるのか・・・。

(4) 3日目(2010年4月27日)
 敦煌。二泊するホテル(太陽大酒店)のロビーに、去年12月に亡くなった日本画家平山郁夫氏の、ホテルへの感謝状が額装されて飾られている。添乗員の津島さんの、平山画伯の個人ガイドの経験を聞く。現地の石を採取して磨り潰し、顔料(絵の具)を作るので、それでもない、ここでもないとジープで走り回ったらしい。あちこち執念深く探して歩いて、案内する方も大変な思いをしたとのこと。ラピスラズリ(瑠璃)はアフガニスタンが主産地だが、敦煌あたりでも取れるのだろうか?ここの絵は、ここで採れた顔料で描きたいとおっしゃっていたそうだ。
 バスに乗り、街中を抜け、ポプラのめだつ近郊を走り、去年新しくオープンしたという敦煌駅を過ぎ、昨日着いた敦煌空港を過ぎて、ゴビを貫く道を莫高窟に向かう。荒野のところどころに土の盛り上がりがある。土饅頭というイメージ。
 「あの土の小山は墓です。墓はタダで、誰でもどこでもつくってよかったんですが、町の方針で撤去されて、もうほとんどなくなりました。あ、向こうに蜃気楼が出てます!あ、消えました」
 現地ガイドの史さんが熱心に説明をしてくれる。大連外国語学院日本語学部で勉強して敦煌に戻ってきたとのこと。日本に渡ったことがないというのに、日本語が達者。促音「ッ」を間違えて来てくださいが切手くださいになったり、ラ行音を間違えて綺麗ですが嫌いですになったりという中国人独特の間違いは少し残るが、論理的な立派な日本語だ。三十代のキリッとした美人で、小学生の子どもがいるという。ご主人が何してるかは聞きそびれた。
 莫高窟。岩だらけの三危山と砂山の鳴沙山の境目にできた、この仏教の聖地には圧倒された。砂漠の中の大画廊。千仏洞ともいわれる石窟は、無名の絵師による色とりどりの壁画や塑像で美しく彩られている。インドから中央アジア経由で中国に伝わった仏教は、まずここ敦煌に根付いたという。敦煌文物研究所の背の高い女性キュレーター(専門の学芸員)の日本語の案内で十いくつの石窟を見学する。
 「ここはロシア人がご飯を炊いた焼け焦げの痕。ここはアメリカ人が薬品で仏画を剥がした痕・・・」・・・。欧米列強とロシア・日本の学者や探検家による「略奪」。二束三文の売買ではそういわれてもしかたがない。しかし、莫高窟の保護と研究に身を投じた常書鴻が、1951年に、「敦煌文物研究所」の所長となってから、日本は様々な援助を行っている。1969年に平山画伯は2億円の個人献金をし、1988年には日本政府が10億円を無償援助して「敦煌石窟文物保護研究センター」の建設にこぎつけている。そのために印刷したお札で払ったのではない。日本国民が働いて、その血と汗と涙の結晶として生まれたお金を充てたにちがいないのだ。
 世界の「敦煌学」の発生源、第17窟(蔵経洞)は、道士(道教僧)王円?が16窟の壁にタバコの煙が吸い込まれるのを不思議に思って発見した小さな部屋。ここで敦煌文書と呼ばれる古文書や絵巻が見つかり、世界を驚かせたのは1900年。予想した以上に小さく、「この奥に文書を隠した窟があったのか?」としつこく訊ねたが「ない。ここだけ」とのことだった。

ここには鳴沙山(頂上を指差す)の写真が表示されています。
鳴沙山(頂上を指差す)

 午後、鳴沙山。空気が乾燥して遠くまで見渡せる青空、爽やかな微風。ラクダに乗って近くまで行き、砂山登り。意気揚々、童心に返ると嘯きながら挑んだが、すぐに息が上がる。五分の四くらいは竹で編んだ階段を上るが、その上は膝まで埋まるサラサラの砂地。四つん這いになってハアーハアー。砂の頂きに跨って、奥の砂山に落ちる斜面に小さい記念品を埋める。風に吹かれて砂の峰々を逆流し、祁連山の麓まで上っていけばいいと願う。
 鳴沙山の砂は、五色の砂といわれている。白い石英・黒い頁岩・黄緑の砂岩・赤やオレンジの珪岩などの微粒子。柔らかくて細かくて、パウダー状なので、何色あるのかよく分からない。カメラや携帯に入ると電子部品が壊れるという。「税関で捕まります。持って帰らないでください!」と現地ガイド。「お線香立てにちょうどいいです。仏教の聖地の砂だし、大丈夫ですから香炉用にどうぞ。でも、空港で質問されたら、私が言ってたとはいわないでください!」と添乗員。二人とも言いっ放し・・・。十数名の中高年の二番手で上り始めたがわざと遅れ、帰りも一番最後に竹橇で滑り下りる。息絶え絶えの62歳。こういうのを強行軍というのだろう。気を取り直して、月牙泉まで足を伸ばし、記念写真を撮って帰った。

(5) 4日目(2010年4月28日)
 午前8時敦煌発。朝食バイキングで昨日と同じ朱色のチーズのような食品を選ぶ。風味や食感も念入りに確かめるが、やはり「豆腐?」としか思えない!木綿豆腐を紅麹と泡盛の漬け汁の中で発酵熟成させた珍味。「琉球王朝の頃から王府秘伝の製法として伝えられ、ごく一部の上流階級の間で特別の宴にて珍重賞味」されてきたといわれているものが、なぜ、河西回廊の極地、敦煌のホテルで供されるのか?沖縄からわざわざ輸入しているということはないだろう。ひょっとすると、これはもともとイスラム系の食品で、古代からの食文化の伝播ルートが琉球列島まで延びていたとか・・・。現地ガイドの史さんに聞けば、何らかの事情が分かるかもしれない。
 嘉峪関。堅牢、雄大な関所。東の渤海湾に面した山海関に始まって、六千キロもあるという万里の長城の西の果て。城壁に囲まれた枡形の広場は、匈奴(遊牧騎馬民族)など敵を誘き入れて弓矢を浴びせて射殺す屠殺場である。「スゲェナー、ヤルコトガ!」と近くで声が上がる。

ここには朝食バイキングの豆腐の写真が表示されています。 ここには観懸壁長城の隊商のレプリカの写真が表示されています。
朝食バイキングの「豆腐?」?(左)     観懸壁長城の隊商のレプリカ(右)

 観懸壁長城も往復40分かけて歩き通した。しかし、北京郊外八達嶺よりもチャチである。帰着点の原っぱにラクダの隊商のレプリカが展示されているのも鼻白む。「月から見える地球上唯一の建造物」というホラ話は、途中の宇宙船からも見分けられないので、数年前に当局が教科書の誤りを認めて訂正したそうだ。
 「NHK特集シルクロード― 絲綢之路」がシリーズ放映(1980年)され、井上靖原作の「敦煌」という映画もヒット(1988年)し、シルクロードがブームだったのは二、三十年ほど以前の日本のバブル経済の時期。当時の半分以下に日本人観光客は減り、今は、国内の中国人観光客が圧倒的に増えているとのこと。
 腑に落ちない不思議なことが重なり、思い余って、「中国って、社会主義国なんですよねー?」と皮肉ったら、「今は誰もがカネ、カネです!」と烈しく吐き捨てるように答えた現地ガイドがいた。大連・瀋陽観光のとき。あれから数年経って、拝金主義は、少し洗練された分、さらに逞しく奥深くなった感じ。こうなれば、もう皮肉も通じない。

ここには掘っ立て小屋の写真が表示されています。 ここにはポツンとバスの写真が表示されています。
掘っ立て小屋(左)            ポツンとバス(右)

 魏晋壁画墓。何もない原野の地面の下を見学。掘っ立て小屋がひとつ、ゴビの砂漠の中にポツン。その傍に土盛りがポツン。筵を除けて小屋に入ると、緩やかなスロープが地下に誘う。「前庭・応接間・寝室」の三部屋に分かれた墓の壁に古代の生活を描いたアニメのような絵。息の詰まる狭い空間に朱色と黒の色彩が鮮やか。残念ながら、莫高窟の内部同様、撮影禁止。ただ、この不気味さは本物。何しろ、他人の墓の内部に押し入っているのだ。懐中電灯を向けても、かえって周囲の重くて暗い空気が身に迫るだけ。灰色の煉瓦石の冷え冷えとした手触り。葬られた人の怨念と盗賊の執念や呪いがこもっているような・・・。ドーム状の石組みの屋根が崩れ落ちたらどうするんだ!私ゃー、クレジットカード自動付帯の最低限の海外旅行保険にしか入ってないんだ!
 小屋の外に出たときは、ホントに厄払いがしたくなった。いくら付加価値があるといったって、ここも忌むべき墓は墓にちがいないではないか・・・。必ず持参するべき旅の小物に「塩」も記載しておくべきではないかと思う。広大な原野(ゴビ灘)に無数にこのような古墳があるが、発見されてまだ五十年も経っていないという。盗掘防止で、公開されてるのはこの一箇所だけだとのこと。小汚いチケットを配ったり、カメラを預かったりするホームレスのような怪しい風体の二、三人のおじさんたちは公務員だという。曇り空の下、遠くに乗ってきたバスがポツン。しかし、そこに留まっていてくれたのが、とても有難く思えた。
 嘉峪関市は、人口18万人。その殆どが首都北京の北の方(河北省)からの移民だという。街全体が建設途上の工業都市。古墳の原野から少し走れば、バスは巨大な製鉄所や風力発電所の工場街にアッという間にタイムスリップというかワープする。このアンバランスさは、現代中国甘粛省の中でもピカイチなんじゃなかろうか。

(6) 5日目(2010年4月29日)
 午前、酒泉観光。午後、張掖観光。古くは、酒泉は粛州と呼ばれ、張掖は甘州と呼ばれ、この二つのオアシス都市から一字ずつ取って、現在の甘粛省という名前ができたという。
 酒泉は、漢の武将霍去病が皇帝に授かったひと樽の酒を泉に注ぎ、部下全軍に振舞ったという故事から名づけられたオアシス都市。その泉は、「西漢酒泉勝跡」として今も市民の憩いの場となっている。「鐘鼓楼」は、5世紀に建立。東西南北の四面には、方角を示す文字が掲げられている。東迎華岳・西達伊吾(ハミ)・南望祁連・北通沙漠・・・遙々とイメージが膨らんで、異邦人の心を虜にしそうな文字だ・・・。

ここにはロータリーの鐘鼓楼の写真が表示されています。
ロータリーの鐘鼓楼

 河西回廊の都市は、大抵どこでもロータリーが町の中心になっている。鐘鼓楼のある酒泉のロータリーは、中国のスケールにしてはこぶりで、とても馴染みやすい。だが、古いものばかりではない。酒泉には未来もある。郊外に宇宙基地があるらしい。ホテルのミニバーには有人ロケット「神舟七号」を模った酒瓶が立っていた。現地ガイド史さんの弟は行ったことがあるらしいが、一般の人は近づけない軍事基地だという。後日、インターネットで見ると、「ねつ造疑惑比較!神舟七号VSアポロ十一号」というのがあって、神舟七号宇宙飛行士の宇宙遊泳動画に泡っぽいものが写っていた。水中撮影ではないかと書いてあった・・・。
 「河西回廊」とは、新疆ウイグル自治区に向って、東から西へ、武威(涼州)、張掖(甘州)、酒泉(粛州)、敦煌(瓜州)の四群にまたがる約900キロに及ぶ平地のことをいう。黄河の西に位置し、祁連山脈と馬?山系に挟まれ、細長い廊下の形をなしているので「河西回廊」と呼ばれている。回廊といっても、環になって回れる道があるというわけではない。細長い平地が続いているというだけのこと。
 今回の旅は、行きは一気に敦煌まで飛行機で飛んだので、帰りは逆コースで、この河西回廊をバスで西から東に移動する。漢の武帝が名づけたという武威の町からさらに東に下ると蘭州。そして、そこからシルクロードの基点、西安には飛行機で帰ることになる。
 「シルクロード」は、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが1870年代に、中央アジアの東西交渉路に名づけて有名になったコトバで、北の草原の道(ステップロード)、雲南省からミャンマーに至る西南シルクロード、福建省泉州からマレー半島、インド、イスタンブールまでの海のシルクロードといろいろある。万里の長城が秦の時代、漢の時代、明の時代・・・といろいろ、あちこちに残っているのと同じようなもので、中国では、何事も唯一無二、天下無双、たった一つというようなケチなことはない。
 張掖には、13世紀末にマルコポーロも1年間滞在しているという。大仏寺は、「東方見聞録」にも記された寺で、寝仏の釈迦涅槃仏像が見ごたえがある。全長34.5b、肩幅7.5bの巨大な姿ながら、ちょっとエロチックな柔和な姿態。畳何枚か分ほどの広い足の裏をコチョコチョくすぐれば、ゆっくり起き上がってくれそうな優しい表情をしている。タルチョ(祈祷旗)などチベット仏教の習俗も混じっていて、庭の木の枝に「事業有成」などと願い事を書いた紅い布がたくさんぶら下がっていた。境内も広い。ただ、観光用の施設になっていて、お坊さんは一人もいないとのこと。
 ここまで「中原(中華文明の中心地)」に近くなってくると、司馬遷の「史記」、中島敦の「李陵」、井上靖の「敦煌」「楼蘭」「崑崙の玉」など西域小説の数々で馴染みのある文物が増えてきて、緊張が解けると同時に既視感が増してくる。デジャ-ビュってやつだ。 が、しかし・・・。

(7) 6日目(2010年4月30日)
 午後、武威観光。夜、蘭州に入る。河西回廊の高速道路、山の中に入ると片側一車線になり、そこを右に左にハンドルを切って追い越しをかける。クラクションをこれでもかと鳴らし続ける。対向車にぶつからずに山越えするのにドライバーは必死。工作機械や穀物の梱包を山盛りに積んだ大型トラックがひっきりなしに行きかう。飛行機から「ヒトが住めるのか?」と見下ろした地域は、今や、ラクダの背にシルクや青磁器を乗せた交易の道ではなく、トラックの失踪する産業道路に貫かれた開発途上の荒地になっていた。ちなみに、シルクロードを旅するキャラバン(隊商)は、西安からイスタンブールまで歩き通したわけではない。ひとつのグループが、例えば、武威から張掖まで、酒泉から敦煌まで・・・と、次のグループに物品をバトンタッチしながら区切られたコースを往復していたらしい。交易される文物だけが、アジアの西の端とヨーロッパの東の端との間を歩き通したのだ。
 遠くに祁連山脈の雪の峰々。道路際に点在する工場や工事現場が過ぎると、あとはシーンとした原野や農地が視界に広がる。黄色い大地に、一人、そして二人と人がただ立ったり、座ったりしている。老・若・男・女。いつからそうしているのか、羊を追う崖のへりで昔の便所座りをして下の道路をジーッと見下ろしている人、人影のない集落の路地に、何をしに歩き出したのか忘れでもしたかのように、ジッと立ち尽くしている人・・・。遠いエジプトのスフィンクスを偲ばせる存在たち。幸せかどうかは分からないが決して不幸にはみえない穏やかさ。広大な耕地を小さなトラクターや徒歩で農作業に向かう家族や親戚たち。踊るような歩き方がとても優雅に見える。何世代も前から悠久に変わらない暮らしなのかもしれない。見るともなく見てると、ふいに、どこにでもヒトは住めるんだなーと懐かしさに胸を突かれる思いがする。ひょっとすると、このヒトたちが、私たちの先祖ではなかろうか・・・。

ここには長城を断ち切って伸びる高速道路の写真が表示されています。
長城を断ち切って伸びる高速道路

 ドライブイン、パーキングエリア、サービスエリア・・・はない。道路わきの埃まみれの停車場。ご婦人方は遠くまで凹地を目指す青空トイレ。版築工法で突き固めた大きな壁(グレートウオール)を蹴ったり、壁の穴を潜り抜けたりして少し遊ぶ。明代の万里の長城。道路幅の分、それを崩し、断ち切って高速道路が河西回廊を先へ、先へと延びていく。
 武威「雷台墓」は、明代に雨を祈願し雷を祀った地。そこで発見された「馬踏飛燕」と呼ばれる銅奔馬は、飛ぶ燕を踏みつけて走る青銅の馬。血の汗を流して走る軍馬。中国の観光事業のシンボルマークにもなっているのはいいが、発見されたのが、またしても盗掘がらみの古墳の中・・・。中国の遺跡の盗掘にかかわる者は10万人に達し、すでに産業化しているという。3月17日の読売新聞が、華僑向け通信社「中国新聞社」の報道をもとに記事にしている。ついに公安当局者までもが逮捕されたと・・・。なにしろ、古代には、皇帝が即位すると、盗掘団は直ちに、将来の墳墓になるだろう地に向けて、秘密の地下道を掘り始めたという国なのだ。
 嘉峪関の「魏晋壁画墓」と同じく、「前庭・応接間・寝室」の暗い穴倉へ。ホテル朝食バッフェに塩の小瓶はなかった。変な胸騒ぎなど覚えないように、心を固く閉じて見学。幸い、ここは観光開発が進んでいて、それほどの不気味さはない。何食わぬ顔で、明るい外に出る。庭に咲くラベンダーつまりリラの花の香りが強い。白や紫の花は、その濃厚な匂いも含めて、日本でもアメリカでも、そして中国でも同じ。塩の代わりに、花の香りで斎戒沐浴をした。
 見学した「雷台墓」や「文廟(孔子廟)」のチケット売り場を覗く。入場料、日本円に換算すると数百円。これは中国人には高すぎる。聞くとやはり観光客料金で、市民は別枠の市民料金で入場できるという。小さな金額に目くじら立てるのは大人気ないが、量ではなく質の話とみれば怖ろしい。「外国人料金」なのだ。二重価格制。一物二価というか一物多価の仕組みである。この手のシステムを合理的とみるか騙しのテクニックとみるか。史さんは当たり前な顔して説明してくれたが、他の人には聞かせたくなさそうではあった。
 夜10時過ぎに黄河を渡る。甘粛省の省都、蘭州。もう河西回廊は通り過ぎて、終わってしまった。ここは中華人民共和国のど真ん中。辛亥革命の後、国父孫文は、この地を近代中国の首都にしようと考えていたという。内陸部の西の外れの辺境のイメージだが、地図を見ると、確かに東西南北の中心地になる。中国全図の「羽を拡げたニワトリ模様」の背中に当たるところである。

ここには中山橋のネオンの写真が表示されています。 ここには地震招待所のネオンの写真が表示されています。
中山橋のネオン(左)             地震招待所のネオン(右)

 中山橋の特徴あるアーチが「ネオン」で光り輝く。ドイツ人設計の、黄河に初めて架かった鉄の橋。それまでは山羊の皮の浮き袋に乗って河を渡ったという。が、そんなことよりも、人民解放軍と回族軍閥が戦闘を繰り広げた歴史的な橋がネオンまみれになったのはなぜか説明して欲しい!アメリカ、ネバダ州ラスベガスそっくりの紅い灯、青い灯、黄色い灯が町を埋め尽くす。河岸の土手には、黄河の水の上を走るように巨大な龍がうねっている。それが極彩色のネオンに飾られ、何百メートルも続いていく。ゴビの原野から二泊三日のバスの旅でやって来た者には、この光も色も刺激が強すぎる。しかし、とどめはホテル(飛天大飯店)の向かいの道路に面した薄暗い建物の赤いネオン。「地震招待所」と我が眼を疑う文字の形をしていた。ほんの2週間前の4月14日に、隣の青海省でマグネチュード7.1の大地震が発生したばかりなのに・・・。

(8) 7日目(2010年5月1日)
 午後、炳霊寺石窟。夜、蘭州空港発。メーデーである。公休日で渋滞にまきこまれるといけないと早めにホテルを出発。水の青い黄河の畔のレストランで四川風のちょっと辛目の中華ランチ。ダムの畔に移動して、大賑わいの船着場で十数人乗りのモーターボート2台に分乗。黒いパンツスーツの大柄な女性ドライバー。1時間ほど劉家峡ダムを突っ走って炳霊寺石窟に着く。
 人民解放軍の制服の群れが目立つ。中国では、中流や富裕層の子どもは大学を卒業すると誇り高く「人材」と名乗って名門企業に就職する。軍隊は、選抜徴兵制と志願制の併用だが、正規軍は志願兵で殆ど充足されるらしい。貧困層の農民や下流労働者の子どもたちが志願して軍隊に入る。このへんのカラクリは自由と民主主義を謳う帝国、アメリカ合衆国と瓜ふたつといいたいくらい似ている。社会主義国の看板は下ろしてないのに、中国は不平等社会なのだ。文化大革命の惨事を乗り切っても、この格差は埋まらない。看板の文字が違うだけでアメリカも同じ。というか、世界中、古今東西、実情は似たりよったりというところかもしれない。日本の自衛隊も志願制ではあるが、防衛大学校の幹部候補生以外、その供給源は決して富裕層ではない。志願制でも徴兵制でも就職先のひとつとして若者は働きに軍隊に行く。メーデー休暇の社会見学なのか、制服の厳めしさとはチグハグな高校生のような幼い表情をした若者たち。彼らの親世代には民主化を叫んだ者がいたかもしれないが、祖父母の多くは造反有理と叫んでいたに違いない。
 添乗員の津島さんの指示を守って、見学前には物売りは相手にせず。炳霊寺石窟に一目散。ここの入場券は絵柄がきれいだ。しかし、現地ガイドの観光会社で「清算」のために全部持ち帰るそうで、ツアー客には一切手渡されない。欲しくなって、やっぱりダメですかと確かめると、史さんは無表情に「ハイ」という。
 石窟の塑像も仏画も大気が乾燥しているおかげか、割りと色鮮やか。天気が悪い日にはドアをつけたり雨除けのビニールシートかなんかで覆いをしたりするのかと、ここだけの現地ガイドに聞いてもらうと、「しません」との返事。吹きさらしに剥き出しの塑像や仏画が可哀想になるが、乾燥した大地に、日本風の梅雨や台風のイメージを嵌め込むのは間違いかもしれない。それに、逆に考えてみれば、敦煌よりも開放的な展示で親しみやすいじゃないか。仏画の中の釈迦が悟りを啓いた「菩提樹」が椰子の木というか、パームツリーなのがご愛嬌。敦煌莫高窟に描かれた菩提樹もそうだった。インドまで実際に行って帰った絵師はいなかったのだから、想像力で描いていたらしい。
 石窟見学の後に、写真集を買う。敦煌文物研究所の財源になるなら惜しくないと思った280元(約4,200円)の写真集よりもお買い得な80元(約1,200円)。ただ、津島さんのいうとおり、値札は倍近いのが貼られていた。売り子の少女と中国語で彼が交渉して、本に印刷された「定価」どおりでいいことになる。若くて可愛くて「定価」で売ってくれるので、みんなその子に群がってきた。私も慌てて絵はがきと小冊子を追加する。何となく他のおじさんたちと張り合う感じになる。ひとしきり買いあさった後で、定年後のおじさんたちは、その「定価売りの少女」と記念撮影に興じる。史さんに通訳してもらって年とか学校とか個人情報を聞きだしている。モデルがわりに使われて気の毒な気もしたが、少女はまんざらでもなさそう。ボートが出ます!と津島さんが大声で皆を急がせる。残念そうなおじさんたちと曖昧に微笑む少女。美談になりそこねたかもしれないが、醜聞を増やさなくてよかったということかもしれない・・・。
 モーターボートのドライバーの姐さんが飛ばし屋。すぐ後の席だったツアー仲間の小林さんが怖いから替わってほしいというので、帰りは私が運転席のすぐ後の席に座る。バッシャン・バッシャンと水面を敵のように叩き、陸路運転なら一発で廃車間違いなしの運転。バックミラーのないモーターボートで何かにつけて後を振り向く。どうやら、小林さんは、その唐突な動きが怖かったらしい。他の船の様子や水面の波の航跡をチェックするのだが、小林さんはそのたびに自分が叱られるような気がしたとのこと。漢族とも何か異質なような気がして、史さんに聞くと、回族の女性だったそう。確かに迫力のある身振りと表情で少数民族の生命力を感じさせた。中国には、漢族以外に55もの少数民族がいるとのこと。外国人にも「漢族とはどこか違う」と感じさせるのだから、異質なものがいろいろたくさんあるのだと思う。それをまとめるというのだから、中国の政治家は大変だ。日本のような世襲制ではとてももたない。
 敦煌から蘭州までの900キロ余り、バスで通り抜けた河西回廊・・・空の上から見たときは、こんなところにヒトが住めるのかと思ったが、のどかな農村風景と巨大な工事現場の断続的な繰り返しの中、そこにヒトは確かに住んでいた。賑やかなオアシス都市だけでなく、山間僻地の農家にも、道路沿いの埃りだらけの売店にも、羊の群れる崖下の陋屋にも・・・。
 河西回廊が尽きる辺りから東に広がる黄土高原。黄河の上流および中流域に古代の歴史の宝庫が眠っている。王朝の興亡と戦乱と殺戮。衣食住を求めての過剰な開発。森林伐採による自然の破壊・・・。今や不毛の荒地にしか見えないが、何千年も以前は豊かな密林に覆われていたらしい。アジア象の化石も出土している。ライオンやトラの跋扈した森林があったという。その後、人類の世界四大文明のひとつが栄えて、やがて荒廃して現在の状態に至る。そして、この先どうなるのか・・・。
 シルクロードの西の終点イスタンブール。地中海に突出するバルカン半島。そこも古代文明の地だった。だが、今や土地は痩せ細り、経済も低迷し、かつての栄光は観光産業で時々輝くばかり・・・。文明は、豊穣をもたらすばかりとは限らない。人間が利用した後の土地、ギリシャの禿山の、その行き着く最果ての姿が、このシルクロードの東の終点、河西回廊の先に続く中国の黄土高原の姿に重なって見える。

(9) 8日目(2010年5月2日)
 午前、西安発。午後、上海経由成田着。早朝、西安のホテルを出て、正午に上海を発ち、夕方には家に着いた。日曜午後のフライトなのに、万国博覧会オープン2日目で上海を出る人が少ないためか、空席がめだつ。ジェット気流に乗って、2時間15分。沖縄便の那覇からの復路と変わらない。結局、西安空港を午前8時発で成田空港に午後3時半着。中国全土との時差の1時間を足しても、所要時間は8時間半である。昔、遣唐使が生涯を賭して向かった地に、半日もかけずに行ったり来たりできる。お金と体力さえあれば・・・。
 出発の前、河西回廊の隣の青海省で大地震、新疆ウイグル自治区の隣の国キルギスで政変、アイスランドの火山噴火で航空機が飛行禁止・・・といくつか心配事もあったけれど、無事に帰ってこれた故国ニッポン。たった1週間後なのに、銀杏並木がすっかり鮮やかな新緑に変わっていた。

(10) 持ちもの

  1. 持っていったほうがよかったもの
    (唇が乾燥するのでリップクリーム)
    (古墳見学後の清めの塩、二、三袋)
    (砂塵除けのマスクと小さい靴ベラ)
  2. 持っていかなくてもよかったもの
    (変圧器・ヘアドライヤー・スリッパ)
    (ダウンジャケット・パジャマ)
    (地球の歩き方)

(11) 疑問のまま、答えをみつけられなかったこと
「豆腐餻」そっくりの食べ物と沖縄の「豆腐餻」との関係=食文化の伝播ルート

  1. 蘭州のホテル飛天大飯店の向かいの簡易宿泊所「地震招待所」の名前の意味
  2. 大きな文明の地は、中国の黄土高原のようになるまで衰弱していく一方なのか、再生するということがあり得るのか。

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