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アジア近代化研究所
IAMニュースレター

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IAMニュースレター第15号、2012年3月15日発行、 目次
無断転載禁止。著作権は各著者にあります。
  1. 巻頭言(童適平)
  2. この国に残されている苦汁の経済的決断(吉川紀夫) 
  3. 日本に「三農」概念を導入すべき(陳波)
  4. タイの大洪水(井口 廣)
  5. ニュースの裏を読む(15) (長谷川啓之)
  6. アジアと私(3):タイとの出会い(長谷川啓之)
  7. 編集後記

          I 巻頭言:中国のインフレとインフレ退治(印刷用pdf)

童適平(経済学博士)
アジア近代化研究所研究員、明治大学法学部教授


アジア近代化研究所研究員・明治大学教授日本はデフレに苦しんでいると対照的に、中国は現在インフレに悩まされています。10月中国政府国家統計局の発表によれば、9月のCPIは前年比で8月に続いて、0.1%下がったものの、6.1%に高止まったままであることが分かりました。世界金融危機の影響で20092月から10月までの間、中国のCPIも前年比でマイナスになった。0911月からプラスに転じました。その後、右肩上がりに加速し、117月に6.5%の上昇を記録しました。8月と9月は少しずつ下がったが、上昇のトレンドが変わったのか、まだ油断できない状況です。特に、食品価格の上昇が激しいです。9月も前月と変わらずの13.4%に達しました。最も高かったのは7月の14.8%でした。食品の中にも特に飛び抜けて上昇率が高かったのは豚肉です。9月の前年比は43.5%でした。物価上昇、特に食品価格の上昇はエンゲル係数の高い低所得者の生活を大きく脅かし、中国政府は対処しなければならない重大な問題です。

物価上昇の原因はなんでしょうか。考えてみたいです。まず浮かび上がるのが人件費の上昇です。中国政府人的資源と社会保障省尹蔚民大臣が今年の全人代記者会見では去年全国30の省(市、自治区)は最低賃金を平均24%引き上げたと説明しました。去年に続いて今年も大幅に上昇し、平均は17%に達した報道がありました。この最低賃金の引き上げには、一つは拡大する格差に歯止めをかける政策的な狙いがありました。いま一つは労働力の減少に原因がありました。政府統計局が09年に行った農民工の調査によれば、2009年、珠江デルタ地域と揚子江デルタ地域の“農民工”(出稼ぎ労働者)人数はそれぞれ954万人と238万人減少しました。この“農民工”が減少するだけでなく、マクロ的に見て、生産人口の減少は一般現象になります。2009年の人口サンプル調査によれば、0歳~19歳の人口は約32,077万人で、40歳~59歳の人口は約42,173万人います。定年退職年齢を60歳とすれば、今後20年間の間に、40歳~59歳の人口は生産人口から非生産人口へ変わっていき、0歳~19歳の人口は生産人口に加わるので、単純計算で約10,000万人減少します。実際に現行定年年齢は、男性は60歳で、女性は50歳或いは55歳であるので、減少スピードはもっと速いです。

次に考えられる原因は国際価格変化による輸入物価の上昇です。去年、中国の石油輸入量は2.39億トンに達し、今年中国は世界最大の石油消費国と輸入国になると言われています。石油消費量の半分以上を輸入に依存する中国にとって、国際市場石油価格の上昇は当然、国内価格上昇のプッシュ要因になります。石油だけでなく、中国は小麦、とうもろこし、大豆の輸入量も絶えず増えています。この中で特に大豆の輸入は消費量の8割弱までに来ていますので、国際市場の価格上昇からも大きい影響を受けています。

第三番目の要因は09年、10年に行った金融緩和政策のラグ効果です。09年に金融の緩和により、銀行の新規貸出は96,290億元に達し、前年比では130%の増加でした。10年は09年より17%減少したにもかかわらず、79,511億元に高止まりしていました。銀行新規貸出は投資ブームを支える一方、建設資材の値上がりをもたらしました。政府の不動産価格上昇抑制政策の実行により、行き先を失った一部の資金は商品市場に流れ込み、商品価格を吊り上げたのも事実です。
 一番目の原因に対しては、マクロ経済政策よりは産業政策で対処すべきです。産業構造の転換と機械の導入により生産性を高め、人件費を削減して、対処するしかないです。ただ、一つはっきりしているのは今までのように労働集約で安い労働力を利用する人海戦術はもう限界に来ているのです。これからの持続成長の実現は容易なことではないです。現実に、広東省の一部の外資系企業はこのような努力をしていますが、温州など地域の資本力が貧弱な民間小企業は対処できなくて倒産が多発しています。

そして、今後、資源価格や食料価格も上昇傾向を変えないので、二番目の原因に対しても、産業構造の転換と省エネルギー技術の進歩で対処するほか、元高も対策の一つの選択肢です。元相場の安定を維持し、今までの成長構図に安住するか、それとも元高のリスクを冒して、更なる成長の空間を求めるかは政策当局にとって一つの課題です。

三番目の原因に対して、1012月に開催された経済工作会議では今までの“積極的な財政政策と緩和的な金融政策”から“積極的な財政政策と穏健な金融政策”に転換すると明言しました。しかし、いくつかのデータを見れば、いささかの疑問を持ちました。今年1月~8月の固定資産投資額は180,608億元で、去年の140,998億元より増加したが、この中で、中央(認可した)プロジェクトは10,722億元で、去年の11,200億元より減少しました。これは積極的な財政政策と言っては正しいのでしょうか。ただし、地方(認可した)プロジェクトは169,885億元で、去年の129,798億元より大幅に増加しました。積極的な財政政策であれば、中央政府が率先して財政支出を増やし、投資を増やしていくと思われるが、中央プロジェクトを引き締めて、地方の権限を拡大して積極的な財政政策の重点を地方に移したとも思われないです。
一方、今年1月~8月の銀行新規貸出は45,230億元で、去年の57,134億元より大幅減少しました。“穏健”より“引締め”の表現が妥当ではないかと思います。しかし、この“引締め”を実現した手段は主として金利政策ではなく、預金準備率です。去年12月経済工作会議以後、預金金利は3回(081月以降4回)引き上げられました。現在、1年定期預金金利は3.25%です。前年比CPI6.1%なので、実質預金金利はマイナスです。これに対して、預金準備率は7回(081月以降12回)引上げられ、現在主要金融機関の実行預金準備率は21.5%です。“穏健”な金融政策であれば、まずマイナス金利を是正すべきですが、金利に対する投資の弾力性による金融政策の効果、利ざやに頼る銀行経営への影響、強いて金融市場全体への影響などの考慮、結局、金利政策より、預金準備率の効果は計り知れるので、金融政策の重点も預金準備率に置かざるを得ない、政策のディレンマ及び政策当局の苦心が見られました。
インフレのもう一つの現れは不動産価格の高止まりです。世界金融危機後、中国政府は不動産ローン金利や頭金比率など不動産取得の緩和策を取り、不動産価格の上昇に火が付き、不動産価格の上昇が大都市から中小都市へ広がり、社会不満を招いてしまったので、09年から不動産価格抑制に政策が一転したが、最も重要な金利引き上げが先送りされた結果、抑制効果が限定的です。今年1月~8月不動産への投資は37,781億元に達し、去年同期より9,426億元増となりました。中国人民銀行の金融機関融資先調査によれば、今年1月~6月、不動産への新規融資額は去年動機より減少したものの、7,912億元に達しています。住宅ローンも5815億元増加しました。考えれば当然ですが、実質金利がマイナスである銀行預金を引き出し、利回りの高い運用先に投資することは合理的な行動です。運用手段の少ない中国で不動産はその一つになります。このように、資金は依然として不動産業に集中しています。また、これと絡んで、不動産価格抑制対策として考え出したのは住宅の供給を更に増やす計画です。1115年の第125カ年計画期間に、3600万個、11年と12年はそれぞれ1000万個の低所得者向けマンションを建設する計画です。うまく行けば、経済の成長率を維持しながら、不動産価格を抑える一石二鳥になるかもしれないです。しかし、この計画の実施には、莫大な資金が必要になり、インフレ退治の“穏健な”金融政策とどう調整するのか、低所得者向けの住宅であるので、どのようにして低所得者に割り当てるのか、など多大な課題も残されています。

Ⅱ この国に残されている苦汁の経済的決断(印刷用pdf)

吉川紀夫

アジア近代化研究所研究員、明星大学教授

(1)日本経済の現況とその認識

21世紀も11年目に入った。日本経済が抱えている大きな問題はなお解決の糸口が見えないまま時間だけが過ぎて行く感がある。具体的問題としては、膨大な財政赤字の累増、為替円高による輸出企業への打撃とそのことを通じた日本経済全般の衰退と雇用不安、さらには、少子高齢化社会到来による年金支給への不安も畳み掛けるように問題を複雑化させる要因となっている。その結果、日本企業の海外逃避、デフレの一段の進行、これによる実質金利の上昇、名目賃金の切下げと低賃金水準の継続、貧富の格差拡大が社会的にも取り沙汰されている。

政府はこれらの問題を乗り越えようと、相次いで増税政策を実施、日銀もマネーストック増加へ向けた各種金融政策を新たに工夫・実施してはいるが、それら施策の効果は捗々しくない状況にある。民間サイドでも、企業構造の転換を図るべく海外への工場移転の推進や賃金抑制などを進める一方、新規採用人員の削減ないし中止などにも躍起になっている。企業経営者の多くは株主からの委任責任を全うするために中長期的な視点に立った経営から短期的経営戦略対応への指向を強めてきている。

こうした流れは必然的にこの国の経済基盤の脆弱化を推進してしまうことになるが、これとは別にマスコミ報道等による社会への影響力も急速に強まり、情報力によって実体経済そのものの動きが左右される状況も到来している。それだけに、誤った内容の情報に国民が振り回される事態も随所に見られる。
本小論では、こうした実情に内在する問題点とその底流に流れている事実を金融的側面も踏まえながら分析し、この国の経済が今後取るべき選択肢への一提言を示唆できればと考えている。

(2)今の日本経済の底流に流れているもの

 まず、上に記した日本経済の実情ないし問題点の底流に流れている根本的な考え方や理念は何なのかについて分析を加えてみたい。第一に掲げられることは、実質値よりも名目値に反応しやすい国民に日本人の多くが変わってしまったことである。ここに、実質値とは生産量、消費量、労働者数など量的な実変動を示す値であり、名目値とは価格変動分もそのまま含めた表面的な金額表示価値額を示す概念である。加えて、中長期視点が重視されていた時代の考え方は消え伏し、短期のみを重視する傾向が一般化してしまった。名目値を重視するということの裏には経済運営の実態が極めて金融主導的であり実体経済の動きはそれに追随するものだという世界的な経済思想の潮流の変化がある。別の見方をすれば、フロー経済を重視し、ストック経済を軽視するという流れにも繋がる
 第二点目は、物価変動のもたらす相対的価値の変化機能が軽視される傾向が強まっていることである。通貨価値と物価水準は逆数の関係にあることは知られているが、通貨価値は物価変動だけで動くわけではない。あくまでも物価変動は通貨価値変動の主要因になっているに過ぎない。通貨の対外的相対価値である為替レートの決定理論で最初に登場する考え方は購買力平価説であるが、これは中長期的な視点からの理論である。短期的には各国間の金利格差や国際収支の状況、さらには、それぞれの国が世界経済に寄与している経済力や政治力などが重視される。短期重視の昨今の中で、日々の為替レートの変動はひたすらそれら短期的要因だけによって動いているように説明される。しかし、為替レート変動の根底にある要因は短期的には表面化してこない各国間の物価変動の格差にある。

第三点目は、第一点目とも関連するが、人々は実質賃金よりも名目賃金の上昇を好み、預金者は実質金利よりも名目金利の上昇を好む傾向があることである。逆に言えば、実質賃金が下落したり実質金利がマイナスになっても、多くの労働者や預金者はそのことに無頓着なことが少なくないということになる。このため、名目賃金や名目預金金利が上昇すれば人々は消費額を増やす行動をとる。消費額が増えれば、その結果として企業の売上額は増加し少なくとも名目上の企業利益額は増益となる。そうなれば、従業員の名目賃金は引き上げられ、株主への配当率も上昇する。しかも、これらのことは短期的視点に立って行われるため、長期的に見ると、実質的な資産価値が目減りしていても殆ど気付かない。また、企業の実質的な内部留保価値が減少しても名目的な内部留保さえ増加していれば企業経営者はその責任を株主から追及されることはない。政府の税収も名目賃金の増加や企業の名目利益の増加に追随して増収となる。これらのことは全て、名目価値に依存した経済運営や企業経営が優先される根拠にもなっている。しかも、そうした短期的視点重視の経済運営や企業経営は米国型経済モデルが日本に入ってきてから加速化してきている。かつての日本企業は年一回の本決算と本決算の推計作業という位置付けで中間決算が行われてきたが、現在は米国企業同様に四半期毎の厳格な決算方式へと変わった。そのため、経営者の関心は長期的な企業経営から在任中だけの短期的な業績改善だけに向けられるようになってしまった。

短期型の企業経営が中心になれば出来るだけ早い時点で高い名目収益を上げることが企業の経営目標となる。M&Aなど合併による規模の拡大という手段も短期対応の常套手段になる。単位当たり固定費削減のための合併が盛行すれば、その結果として、異文化・異組織体制の従業員が一つの企業体の中に入いり、人間関係や業務方法・給与体系の差異などによる組織的・構造的なフリクションが企業内部の随所に生じてくる。また、それぞれの企業の持っていた特性は合併による業務方法や判断基準のマニュアル化で霧消・均一化し、個々の経営者や従業員が個性のある経営判断や営業判断をすることは不可能となる。企業で働く人間は、全ての面でロボットでも代替可能な機械のような存在になる。これが、企業内部における精神的病の増加や悲惨な形での競争をもたらす要因と連動することもある。こうした傾向が強まることは、国益に繋がる個性豊かな企業の発展を時として妨げ、一国の経済運営にとってマイナスになり得ることは言を俟たない。

この間、政府サイドでは、デフレ下での税収減、福祉関連を中心とした歳出増などの要因もあり財政赤字残高は逐年累増してきている。ただ、ここで留意すべき点は、政府の財政赤字額は年間名目GDP2倍を優に超える1000兆円突破のところまできたという間違った報道である。日銀が四半期毎に発表している「資金循環勘定」のストック統計を見ると、20119月末の一般政府(中央政府、地方自治体、社会保障基金)の金融負債残高は確かに1037兆円とある。また、貯蓄が多い家計部門の金融資産額は1491兆円と高い水準を維持している。

このため、日本政府の財政赤字は国民である家計部門の貯蓄によって直接・間接に補填されており、大国である米国はもとより、今問題となっている欧州のギリシャやイタリア、スペインなどのように海外からの資金借入れに依存する必要のない状況にあるということも盛んに報道されている。これは事実である。しかし、財政赤字額表示で問題となるのは片道の負債勘定だけにしかチェックを入れていない点である。20119月末の一般政府の金融負債残高は確かに1037兆円であるが、一方で一般政府は証券投資や財政融資などの金融資産も有しているのであり、その額は488兆円に上っている。つまり、一般政府の真水の純負債残高は差引きネットで588兆円にまで縮小するのである。この金額レベルであれば、まだ年間名目GDP1.2倍程度とかなりの規模ではあるが、財政赤字残高解消へ向けた対応措置も時間をかければ何とか可能なオーダーである。

同様に、家計部門でも1491兆円の金融資産がある一方で住宅ローンなどの金融負債を353兆円抱えており、ネットの純金融資産額は1138兆円となる。このほか、同時期の企業部門のネット純金融負債額は270兆円、海外部門のネット純金融負債額は254兆円となる。
 本小論の以下で試算する財政赤字額に関する計算では20119月以降の一般政府のネットベースの純財政負債残高は変化せず、金利支払額発生分や税収の自然増加分など他の要素は全て無視する(つまり財政赤字残高の名目額は20119月以降増減しない)という単純な前提で行うこととする。

(3)21世紀の日本経済を考える上でのキーポイント

こうした実情を踏まえた上で、この国が今抱えている問題の本質を見直すこととしたい。まず、この国の金融資産蓄積を一手に担っている家計部門の多くの人々がなぜ実質値よりも名目値に反応するのかという点である。これには様々な見解がある。かつて、J.M.ケインズは人間には通貨幻想(Money Illusion)があるがゆえに、名目賃金を実質賃金よりも優先する傾向があると言った。物価が10%上昇している中で自分の手取り賃金が7%上昇しているのと、物価が5%の下落をしている中で自分の賃金が3%減少してしまうのとどちらを選択したがるかと言えば、前者であるということになる。また、物価が10%上昇する中で預金金利に7%の金利が付くのと、物価が5%下落する中で預金金利がゼロ%になってしまうのとどちらを預金者が選択するかについても前者を選択するということになる。特に、名目金利が非負値であるという制約まで勘案すれば、本来は後者の方がはるかに高い富の実質的蓄積が可能になるはずなのにそれを嫌がるのである。

一方、人々のモノやサービスへの購買意欲も名目ベースによってその行動が制約されている面がある。実質賃金が増加しても名目賃金が減少すれば消費意欲は低下する。逆に名目賃金が上昇していれば物価の上昇率の方がそれを若干上回っていても以前よりは消費意欲は高まる。かつて1960年に池田内閣は所得倍増計画を打ち出した。それはケインズ政策に根拠を置いた政策であるが、その時の実情を「毎月勤労統計」や「国民所得統計」等のデータによって見てみたい。30人以上の事業所の1人当たり平均月間現金給与額は計画実施後7年目の1967年にはほぼ2倍の水準に達した。この間の消費者物価(持家の帰属家賃を除く)は46%(年平均では5.6%)の上昇が見られ、実質賃金は37%程度の増加に止まっている。それでも、67年の60年対比の実質個人消費支出は84%もの増加を示しているのである。この所得倍増計画によって、人々は名目賃金の上昇をベースに消費支出を増加させ、それが企業の生産意欲を刺激し増産や雇用拡大、さらなる賃金上昇といった好循環をもたらすこととなったのである。そして、日本人全員に中流意識を定着させる一つの契機にもなった。

このように、物価の上昇は名目賃金や名目売上高の増加を通じ、結果的には実体経済全般にもプラスの影響をもたらす上、その帰結として税収の自然増も可能になる。因みに、租税収入総額は1960年会計年度から1965年会計年度までの僅か5年間で1.8倍、1970年会計年度までの10年間では4.3倍の増加をみている。つまり、インフレの進行はハイパーインフレにならないように注意し年金も含めた所得のインフレ率並みの増加や市場を通じた取引拡大をうまく政策誘導さえできれば常に回避する必要は必ずしもないことになる.

(4)日銀法上の制約

物価の上昇によってマクロ経済的メリットをもたらそうとするためには、短期的視点と中長期的視点とを混同するような政策を取らないことが第一になる。つまり、短期的なフローの指標だけに気を取られ過ぎ、短期的解決だけを狙わないことが肝要になる。そのためには、中長期的な視点に立ったストック面からのチェックが必要となる。現在の日本政府は膨大な財政赤字残高を抱えているだけに財政政策には色々な角度からの足枷がはめられており、充分な財政政策効果は望めない状態になっている。加えて、金融政策面の対応に対しては日銀法上の足枷があり、政策対応上の自由度は低い。

因みに、1998年から施行された現行日銀法では第2条において日銀が通貨金融調節をする目的は「物価の安定」にあると規定されている。以前の旧日銀法は戦時体制下の1942年に施行されたものであるが、日銀の金融調節の目的は「国家目的の達成」という幅広く漠然とした内容であった。むろん、現行の「物価の安定」よりはるかに広い領域をカバーしてはいたが、中央銀行の独立性という視点はほとんどなく、国家政府の言いなりに金融政策が実施され得る余地を残していた。ただ、現行の日銀法下での日銀の目的はあくまでも「物価の安定」であり、「通貨価値の安定」とはなっていない。通貨価値の安定とは直接的に見れば、対内的には国内物価の安定、対外的には為替レートの安定を含むことになる。現行日銀法では日銀はひたすら国内物価の絶対的な安定だけに努力すべきであり、国内物価と海外物価との相対的な物価変動格差や所得変動ないし為替レートなど他の経済ファクターとの相対的な関係の調整策は求められていない。現に、為替レートや金融制度的な課題は行政マターになっており中央銀行である日銀の意思決定事項にはなっていない。しかも、「物価の安定」とは短期的な課題であり、現時点で物価がある程度上昇しそれが中長期的には将来の日本経済のためになると判断されたとしてもそうした政策対応は出来ないことになっている。現行の「物価の安定」を「通貨価値の安定」に変更した場合には国内物価のインフレ率と同率程度の所得(年金等も含む)増加が随伴していれば物価と所得の相対関係は安定しているわけであるから国内物価の上昇はその前提を大きく崩さない範囲内で許容されるという考え方も成り立つ。その際、ストックベースの金融資産価額などの変動は富の再分配機能を伴いながらも市場メカニズムの働きに委ねておけば自己責任の領域での事項として説明できる。本来、国内物価の独立した絶対的な安定性などはなく、所得などとの相対的な関係において初めて安定性という概念が成立するはずのものである。その視点が全く欠如したまま日銀法の第2条は作られている。

前述の通り、為替レートの安定は日銀の専管事項でないどころか、その政策意思決定権は政府マターとなっているが、ここにも大きな問題が潜んでいる。当初にも述べたように、為替レートは短期的には各国間の金利格差や各国の国際収支などの経済運営状況ないし軍事面を含めた政治力に左右されるものであるが、中長期的な為替レート変動は当該国相互間の物価変動の格差によってもたらされるものである。因みに、1ドルが360円の固定レートだったニクソンショック前年の1970年と直近の2010年について、この間の日米の消費者物価変動と為替レートとの間の関係を計算してみたところ、次の様な結果となった。まず、日米ともに1970年の消費者物価指数を100と置いてみると、2010年の米国のそれは560.9、日本のそれは306.2と試算される。つまり、米国の消費者物価上昇率の方が日本のそれの1.83倍になっている。

そこで、購買力平価説に従いこの相対物価変動率要因だけで1ドル360円が2010年にはいくらになるはずかを試算してみると、1ドルは196.72円と計算できた。2010年の現実の為替レートは87.76円なので、この間の長期円高率76%の6割は購買力平価によって説明可能になる。残りの4割は米国による日本への国防支援を背景とした政治的圧力、世界のリーダーとしての米国の経済上の権力などによるものだと見ることも出来る。為替レート水準だけを見れば、米ドルの円に対する相対的価値は1970年から2010年までの間に4分の1程度にまで減価したということになる。このことは日本から投資した資金を柱とした対外債務によって支えられてきた米国経済の対日債務実質負担額が1970年からの40年間で約4分の1にまで減価したことを意味している。

この様に、インフレ政策を中心とした米国の為替政策対応は日本で生み出された富をいつの間にか米国の富へと移転させてしまったという見方が出来る。戦後の米国経済とは裏腹に日本経済は米国の防衛力の傘の下で経済的には多くの資金負担と各種制約を課されてきた。日銀の金融緩和策一つとってみても、短期的な国内物価の上昇回避という金融緩和策とは相反する箍を嵌められてきたために思い切った政策措置が取れなかった面がある。既に述べてきたように、現在の日本経済では家計部門の貯蓄ストックによって財政赤字額の補填が国内だけで対応可能となっている。このまま、財政赤字が継続した場合には高齢化社会の中での大幅な貯蓄の取り崩しの進展等も予想されるだけに、それほど遠くない将来に日本は債務国に陥り、資金余剰国である中国からの資金借入れを仰がなければやっていけない状況になることも充分に想像し得る。
この場合には、現在欧州で発生している財政金融危機は対岸の火事どころではなく、欧州危機をはるかに上回る規模で日本国存亡の危機が立ちはだかることもあり得る。日本の大企業が中国の経営組織の傘下に入り、かつ、中国人経営者の指揮下で多くの日本人が働くことを余儀なくさせられる可能性を秘めている。軍事力を抑制された平和国家日本をそのまま維持させることは日米間の経済関係調整のための米国の長期戦略の一つであることを多くの日本人は認識しているが、その国防形態にまで変化が生じる可能性もある。

こうした懸念を払拭させるためにも、1年分の名目GDPを若干上回っている段階に止まっている内にネット財政赤字額を縮小ないし解消させることは喫緊の課題となる。相次ぐ増税の実施こそが財政赤字解消への鍵であると現政権は判断しているが、増税は経済状態を一段と悪化させ、人々の勤労意欲をも喪失させるデフレ促進効果を持っている。今必要な政策は増税以外の措置をとることである。むろん、そこには目に見えない形で富裕層からの富の流出・移転などの痛みは伴うが、経済にとってマイナス効果の大きい増税策よりは優れている。その痛みはきめ細かなファインチューニングや市場メカニズムを活用出来る制度設計で回避できる部分も少なくない。 

為替レートに関しては、今のデフレを放置し続ければ、中長期的には円通貨の価値の増加をもたらし円高傾向を加速させる可能性も出てくる。このことは輸出企業のさらなる収益圧迫、その結果として、日本企業の海外への一層の逃避、それによる日本国内での雇用機会の減少、税収不足による一段の財政赤字額拡大などをもたらす。

デフレの放置が中長期的には色々な害悪をこの国にもたらすことは多くの経済学者も気付いており、その対策としてインフレ・ターゲッテング論が10年も前から打ち出されてきてはいる。しかし、そこで示されているインフレ目標率は年間1%とか2%の上昇といった内容であり、財政赤字残高の縮小・解消や景気拡大への効果はほとんどない。財政赤字額の金利支払いだけで吹っ飛んでしまうほどの率である。1%のインフレ率では10年間持続的に上昇しても物価水準は1.10倍、20年で1.22倍となり、焼け石に水ということになる。年2%の上昇でも10年で1.22倍、20年で1.49倍にしかならない。この様に、物価上昇の目標率設定に関しても遠慮がちな数値目標しか打ち出せないことの背景には海外からの目や海外先進国との平仄もあろうが、日銀法第2条の「物価の安定」の規定がその根底にはあるような気がする。

(5)インフレ政策導入の留意点

 以上の議論からも明らかなように、むろん注意深い経過観察と調整を行いながらではあるが、前年比で年510%程度の継続的なインフレ政策を10年から20年のタームで実施していく必要性が出て来る。年1%とか2%では効果はほとんどないことは既に述べた。過去の消費者物価上昇率についてみると、第一次オイルショック直後の1974年には前年比で23.2%の大幅上昇を記録しているが、同年の一人当たり月間現金給与額は26.5%上昇し、名目GDP18.6%増加している。同年の実質GDPは前年比マイナス0.5%とほぼ横ばいの動きとなったが、その翌年の75年の実質GDP4.0%76年は3.8%と前年比でそれぞれ増加をみている。

税収面については、所得税は超過累進税率方式をとっているため、名目所得額が増加すれば税率も高率のランクに自動的にシフトとする。制度改正を伴う増税策ではない自然増収が期待できる。法人税についても名目ベースの税引前利益が嵩上げされることで増収が期待できる。なお、消費税の5%引き上げに対しては国民の抵抗感が相当にあるが、名目所得5%増加の下での5%の物価上昇への抵抗感は小さいはずである。

 また、物価の上昇は実質金利の低下ないしマイナスの金利水準をもたらすこともあり、企業の投資意欲の増加を介した景気に対するプラス効果も期待できる。しかも、名目賃金さえ上昇していれば消費税導入時のような消費へのマイナス効果はほとんどなく、物価の持続的先高感が醸成されれば消費意欲を加速する契機にもなる。消費者物価指数総合で見ると、1970年代前半には前年比で各年56%から10%前後、後半には5%から10%直前くらいの継続的な物価上昇が見られた。80年代に入ると、前年比で各年23%から5%ぐらいまでと消費者物価の上昇率は鈍化したが、その後2000年前後から今日に至るまでは前年比で0.5%前後の下落がほぼ継続的に見られている。こうしたデフレ下では名目金利をゼロ%に設定しても実質金利は逆にプラスになってしまう。ラスパイレス方式で計測されている消費者物価指数には上方バイアスがかかるためマイナス0.5%の下落率も実勢としてはマイナス1.5%程度の下落率になる。そうであれば、名目金利がゼロパーセントでも実質金利はプラス1.5%程度ということになり、企業の投資意欲が減退するのは当然だとも言える。

こうしたデフレ下で日銀はマネタリーベースの増加策をとっている。しかし、それが実体経済の場の資金として積極的に使われる状況にはなくマネーストックの伸びは小さく、この量的緩和政策は大きな効果を発揮できるには至っていない。現在の日本ではマネタリーベースは前年比で2割程度増加してきているが、その効果は小さい。少なくとも現状の5割増、場合によっては2倍、3倍のオーダーにまで引上げないと市場へのインパクトは小さく、デフレ解消には繋がらない。ここにも、日銀法第2条の制約が隠れているような気がする。

 日銀法を含めた様々な政策制約の中で、日銀が懸命にデフレからの脱却を模索している努力の跡はこれまでの日銀の信用供与における業種別特別枠の新設や日銀当座預金の準備率超過分への0.1%の付利策など随所に見て取れる。2011年に入ってからの円高阻止のための2回にわたるドル買い円売り介入時にも計11兆円もの円資金供給に対しては非不胎策(円売り介入によって増加したマネーストックを金融調節で市中から資金吸収せずに放置する施策)を取っていることなどにもその一端は窺われる。ただ、デフレ脱却へ到達する道はなお厳しく、政策手段も限界に来ている。円高は日本の輸出企業の採算悪化や輸入品価格の下落を通じた国内物価全般の下落を余儀なくさせ、国内企業の名目収益率の低下、さらには景気拡大への阻害要因となり、日本経済全体を衰退の方向へと向かわせる。

 近時に至って日本政府はTPP(環太平洋経済連携協定)協議参加の意思表明を行った。参加への最終的是非の判断は政治的決断だとされているが、政治責任だけでは済まされない内容を含んでいる。国内へは安価な財・サービスが流入し消費者にとっては喜ばしいことだとされ、輸出によって支えられている産業のとっては輸出の促進に有利になるとの論理がそこにはある。しかし、安い輸入品の流入による国産品価格の追随的引下げ、それに伴う国内労働者の賃金引下げ等マイナスの影響も出て来る。つまり、経済の縮小均衡化へのさらなる加速化が起こる。中国の非加入、1980年代における米国からの「自主規制」という形での日本製品の輸出規制プレッシャーを受けた時の学習効果を踏まえた上で米国向け輸出量拡大を本当に信じ込んでいるのであろうか。農業だけでなく、自動車や電気機器、その他サービス業の米国から日本国内への積極的な侵食の方がTPP参加諸国向け輸出の増加期待よりも大きいのではなかろうか。

また、米国のTPP参加の狙いは対日経済戦略でしかないはずである。日本経団連はTPP参加に賛意を示しているが、中国や北朝鮮の脅威に晒されている日本の国防の請負いを堅持している米国政府の真意が見て取れないわけでもなかろう。しかも、TPPによる輸入物価の下落は国内の競合企業を値下げ競争に走らせる要因を持っている。1970年代後半には日本は垂直的国際分業(原材料を輸入して製品を輸出するという貿易取引構造)から水平的国際分業(最終製品や工業品どうしの相互貿易取引構造)に構造転換していることが先行研究でも明らかにされている。つまり、TPPはデフレ促進的要因を持っているのであり、今後求められるインフレ促進的な政策基盤とは相反するものなのである。

(6)インフレ政策の目標値と具体的対応

 次に具体策等を検討していきたいが、まずはすべての賃金と年金に物価スライド条項や補助金制度を付与し各種金融資産の取引には活性化のための市場原理を付加するなど一定の制限措置や法的・制度的な市場機能の土台を固めることである。その上で、インフレ政策を推進すれば、名目賃金上昇と名目企業収益の増加、税収の自然増、金融負債価値下落による財政負債の実質負担額軽減、さらには中長期的な円安への誘導など、今この国が抱えている各種問題に対するソフトランディングな形で解決をたらしてくれる。むろん、そこには富の再分配とその副作用が目に見えない形で進んでくるが、増税による被収奪感や景気に対する直接的なマイナス効果は発生しない。留意すべき点は、インフレ目標を大きく超えたハイパーなインフレがもたらされることのないよう、きめ細かな調整策を事前に充分準備しておく必要がある。また、日銀法にいう日銀の金融調節の目標を「物価の安定」ではなく、所得との相関性を重視した形での「通貨価値の安定」へと法改正することも早急に必要となろう。

 こうしたことをクリアーした上で、前述の通り、前年比で年510%のインフレ目標を短くとも10年、長い場合には20年程度を目途に継続的に実施していくことである。そして、所得や年金はインフレ率並みの増加を目指し、実質金利がマイナス2%前後になるよう平均的な名目金利目標水準をインフレ率の2%前後下に設定することである。因みに、年5%の目標インフレ率政策を継続的に行うと10年間で物価水準は1.63倍、20年間で2.65倍になる。また、年10%の目標インフレ率政策を継続的に行うと仮定すれば10年で2.59倍、20年では6.73倍にまで上昇する。現在の一般政府のネット財政赤字額588兆円はインフレ率5%10年間継続したケースで360兆円の現在価値にまで減少、インフレ率10%20年のケースではなんと87兆円の現在価値にまで目減りする勘定になる。

 この施策実現のための具体的方法は次の通りである。基本はマネタリズムの考え方をベースにマネタリーベースの増加を図り、マネーストック増加との橋渡し機能としてケインジアン政策的な公共事業関係費への支出増加策も併用するというものである。公共事業関係費の財源は建設国債発行を前提とするが、当該国債のクーポンレートを予想インフレ率未満に設定するようにしておけばマイナスの実質金利が実現するほか、場合によっては日銀引き受けも考慮する。公共事業に関しては東日本大震災の復旧・復興工事需要との調整を図りながら実施していくことである。

因みに、前述の1960年に開始した所得倍増計画の際にも、マネーストック(M2+CD)は5年後の1965年には60年対比で2.4倍、10年後の1970年には同じく5.2倍に増加している。この間、公共事業関係費も5年後の1965年には60年対比で2.4倍、10年後の1970年には4.7倍にまで趨勢的に増加している。

適量の毒をうまく使えば、他の毒を制する薬にもなる。インフレは資源配分に歪みをもたらす毒ではあるが、注意深く適量を調節しながらうまく使えば構造的な病に陥っている経済機能を回復させる有効な薬にもなり得るのである。

Ⅲ 日本に「三農」概念を導入すべきか(印刷用pdf)

陳 波

アジア近代化研究所研究員、中央大学経済学部助教

 近年,日本における「農」に関する議論は,「農村」社会という明確な概念が欠けているという気がする。近代化の阻害になりがちな農業は工業の附属物のように語られ,わずかな専業農家(農民)は農業の附属物のように見られ,人々は大声で農業・農民を言うこと自体に畏縮してしまっている。当然,農民の数が急激に減り,農業の占めるGDPの割合も2%足らずという現実の前で,農民・農業と深く関わる農村社会は,皮がなくなったら毛はいったいどこに付くのか(中国語:皮之不存,毛将焉附)の如く,関心を寄せなくなってしまう。ひいては,多くの日本人は農村――農村社会が荒廃しようが消滅しようが気にしなくなっているように感じる。

国土全体は都市社会と農村社会の二大部分によって構成され,「都市は花なり,農村は根なり」(農政家・山崎延吉,1977,『農村自治の研究』,東京・農山漁村文化協会)という自然的な構造が存在する。しかし,経済的合理性だけを見ると,産業革命による工業化・近代化・都市化は世界発展の潮流となり,これに沿って物事を運んでいくしかない。当然,(アジア型)農業は近代化の弊害となりがちであるため,効率性のない産業である。それは軽視したり取り除いたりというのも自然の流れであろうという論理が成り立つ。このような論理がざっと見ると正しいように感じる。

ところが,この論理に基づけば,いまだに世界の覇権を握っているし,これからの21世紀中にも覇権を握り続けるであろうというアメリカの,ニューディール政策の一部の行動について解釈できなくなってしまう。192030年代の世界大恐慌を思い出す。周知の通りに,当時アメリカはニューディール政策を取り,大恐慌に対応した。その対策の中で,大統領F.ルーズベルトにより,大量の失業青年対策も兼ねて民間国土保全隊(the Civilian Conservation Corps=CCC)が結成された。1935年には,50万人を超える若者が全米2650ヵ所のキャンプで,田園地域における植林や公園整備等の自然資源の保全に取り組んだ(佐藤誠(1990)『リゾート列島』岩波書店)。民間国土保全隊の樹立は,資源保全にとどまらず,同時に若者の失業対策・教育訓練,地方の人材活用と経済活性化を促進した。この事業はニューディール政策の中で最も人気のあった試みとされている(the National Association of Civilian Conservation Corps Alumni(NACCCA),HP)。経済的合理性を徹底的に追求し,広大な国土を持つアメリカさえも田園地域の国土保全を放ってはおかなかった。田園の存在する農村地域の国土保全は,明らかに経済的な効果以外の多くの意味がある。

 日本政府は1953年から「離島振興法」を打ち出して以来,2000年の「過疎地域自立促進特別措置法」まで,10法以上の条件不利な地域についての関係諸法を相次いで打ち出した。また,2000年以降,中山間地域等直接支払制度を樹立させた。さらに,NPOや研究者(社会的)にも過疎化問題に関心が寄せられた。しかし,これらの政府・社会・民間の多大な努力にもかかわらず,中山間地域の過疎化は収まるどころか,多くの集落や地域自治機関は限界化に進んでしまった。今日の日本では,経済的合理性に基づき農村の過疎化や限界化問題を解決することができないのは明らかである。経済学者は経済学範囲からとび出て日本国土全体をバランスの取れた見方で分析することが必要であると深く感じる。

2007年に国土交通省が「国土形成計画策定のための集落の状況に関する現況把握調査」を発表し,日本における限界集落は7878ヵ所(1999年度の前回調査以降,191集落が消滅している)あるという。なかでは,中国地方が一番多く,2270ヵ所。九州が1635ヵ所。四国が1357ヵ所。東北が736ヵ所と続く。また,今後10年内消滅集落は423ヵ所で,全国のワースト一位は中国地方73ヵ所とされる。だが,以上の限界集落や消滅しそうな集落の具体的地名が発表されていない。公表は却って混乱を起こし,さらに集落の限界化を進めてしまう恐れがあるとしている。

若者の失業や非正規労働問題の深刻化に悩まされている日本は,仮に,「過疎・限界化国土救援隊」を新編し,現有の「地域おこし協力隊」に新しく「輸血」して,日本版の民間国土保全隊を組織すれば,過疎・限界化問題の解決に助力できるし,若者に雇用のチャンスを持たせ,希望と成長の場を与えることもできるだろうと推測する。たとえ当年アメリカの50万人を超える若者が全米2650ヵ所への派遣と同様規模で,日本も50万人以上の若者を2650ヵ所の限界集落へ派遣すれば,全日本の7878ヵ所の3分の1強の限界集落が迅速に活気を戻す可能性がある。農村社会を救うと同時に,都市の雇用問題も解決し,総じて,バランスの取れた都市・農村=国土全体の発展に貢献できる可能性があろう。

二戦後,ずっと効率化を求め続けてきた日本にとって,農業や中山間地域の過疎化ないし限界化問題に対する視線はやや冷たい。けれども,中山間地域の規模を見れば,その問題の解決は無視できない。中山間地域は日本の国土面積の69%に当たる25507000ヘクタール,耕作面積は日本全耕作面積の42%に当たる2004000ヘクタール,中山間地域の農家の数は全国総農家数の43%に当たる1354000戸,農業産出額は37%の34168億円となっている(一説:国土総面積の72%,居住人口は12%)。このように,中山間地域を中心にする農村の過疎化ないし限界化問題を,慎重に対処していかなければ,日本社会全体がアンバランスとなり,国土の一部は浮腫し,一部はやせこけてしまう。具体的に言えば,一部の大都市は超肥満状態になり,中山間・辺鄙地域は極度に栄養不足で骨しかないようにやせてしまう。日本がこのような不良的症状をおこすことは,日本人も国際社会も望んでいないであろう。

明治,大正生まれの人びとには自分の故郷に対する深い愛着と誇りがあったという。故郷はたとえ貧しくとも,そこには,父,母,友たちと,山,川,海,緑の大地があった。志を立てて郷関を出た人々は,離れた土地で学び,働き,家庭を持ち,変転の人生を送ったであろうが,成功した人も,失敗した人も,折にふれて思い出し,心の支えとしたのは,常に変わらない郷土の人びとと,その風物であった。田中角栄は以下のように指摘した。「(私が日本列島改造に取組み,実現しようと願っているのは,)失われ,破壊され,衰退しつつある日本人の“郷里”を全国的に再建し,私たちの社会に落着きとうるおいを取戻すためである。人口と産業の大都市集中は,繁栄する今日の日本をつくりあげる原動力であった。しかし,この巨大な流れは,同時に,大都会の二間のアパートだけを郷里とする人びとを輩出させ,地方から若者の姿を消し,いなかに年寄と重労働に苦しむ主婦を取り残す結果となった。このような社会から民族の百年を切りひらくエネルギーは生まれない(昭和47年『列島改造』日刊工業新聞社,p.216)」,これはずばりと,問題の核心を突いた指摘であったと思われる。

今日の日本の1人当たりのGDPは世界の最先端に立ち,国民の物質的な生活はとても豊かになったが,幸福指数で見れば,世界25位にとどまり(幸福度の国際比較(2000年),出所:社会実情データ図録 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/),元気のない日本社会となっている。その一つの重要な原因は,田中角栄の指摘した通り,広大農村の“郷里”が消え,大都会の二間のアパートを郷里とする人びとの輩出にある。広大農村の“郷里”は過疎化ないし限界化していっても,経済合理性のスタンスから冷たく見ているだけで,「都市社会」と「農村社会」は「互いに相反しながら,互いに成り立たせ合う」(中国語:相反相成)ことに気づかず,「都市は花なり,農村は根なり」という根の不良・壊滅問題の重大さを軽く見ている気がする。根なき花は長生きしない。根なき花は必ず枯れていく。根なき花は最終的に生命力がなくなってしまう。今日,経済合理性の主張を尊重しながら,最も必要なのは社会学的な発想であろう。

前述したように,日本社会は農村社会における経済的・社会的・文化的・環境的・倫理的等の総合的な意義の理解に欠けているのではないかと思われる。中国では,15年前(1996年)に研究者によって農業・農村・農民問題を総括して「三農」問題と呼び,2000年に国家元首に使われた後に,「三農」という言い方が定着するようになった。つまり,農村社会は,農業・農民問題と並列している。時期や情勢によっての問題解決のため,重点を置くところが異なる場合もあるが,理念的に同等に重要視している。

実際に中国では,「三農」問題は理念通りにすべて解決したと思わないけれども,少なくとも認識面においては「農村」の位置づけは,農村社会の重要性が強調されている点が日本に示唆したところがあると思われる。日本では,「農」を語る時に,常に農業を言う,次に農民について議論する。農村――農村社会という議論について欠けていると外国人の私の目には映る。例えば,農業・農村工学の研究グループは,「撤退の農村計画」をキーワードとする書籍を出している。「限界集落」からの早期撤退により効率的な社会資本の整備を提唱している。これは経済的合理性から出発した発想が間違えているとは言えないが,歴史的・自然的に形成された農村社会はもっと複雑なものであり,経済的合理性だけでその存続を判断するものさしにするのは,簡単で画一化してしまう恐れがあり,問題処理の後遺症が残る可能性がある。

農村――農村社会問題は一つの大きな問題であり,明確な概念として出すことが必要だと考える。農村の言い方は欠けているためか,日本の経済学者や社会学者の間では常に「農」をめぐって,無駄な対立が起こっていると思われる。日本が「三農」の言い方を取り入れたら,一部の無駄な争議を避け,問題解決に向け意義のある議論がより進みやすくなるだろう。特に「農村」概念を明確にし,「農業」「農民」と並列させ,「都市社会」と等しいもう一つの重要不可欠な存在として,堂々と「農村社会」の角度から過疎化・限界化問題の解決の必要性と合理性を語るべきであろう。その緊迫性を世に知らせ,着実で斬新で有力な活動へ踏み出さないと,増えつつある限界集落の消滅も増加していく。将来,歴史的・自然的に形成されてきた村落社会は,農村社会の重要構成部分であり,その全国各地で点在する意味が「都市社会」と対極的である。そして互いに成り立たせ合う存在であると目覚めると,莫大な公費を支出して補おうとしても,繕えなくなる重大な後遺症が残る恐れがあろう。このため,まず意識・認識から変えなければならないと思う。いまこそ,日本は「三農」概念を迅速に導入すべきではなかろうか。

Ⅳ タイの大洪水(印刷用pdf)

井口 廣

日本サン石油㈱ 代表取締役社長・アジア近代化研究所(IAM) 副代表

初めに

 昨年10月タイで大洪水が発生し、多くの被害が出ました。特に、我々日系企業関係者には甚大なる被害を受けただけに、ようやく「大洪水問題もおさまりました」ではすまないものがあります。つまり、それなりに事情を分析し、今後に備える必要があるわけです。
 そこで、わが社の子会社が受けた被害などを基に、わたくしなりに「なぜ」大洪水が起きたのかという点と、それが起きた背景要因などを考察しておきたいと考える次第です。

.「大洪水はなぜ」起こったか

1)「大洪水は天災ではない」

 昨年のタイの大洪水は歴史の残る出来事でした。新聞等で、かなり詳しい報道がなされているため、多くの日本人も状況を把握できたことと思います。多くの国民が、それが単なる天災とみるとすれば、ちょっと違うのではないかと考える次第です。

筆者は201110月に発生した事態があそこまで深刻化したのは、単に不運な天災として片付けるわけにはいかないのではないかと考えます。つまり、私はそれが多くの問題が顕在化した結果であると推察し、各種の報道や被害にあった日系企業等からの情報分析を基に「その原因」を筆者なりに究明してみた次第です。しかし筆者自身は科学的知識の持ち主ではないので、大洪水に至った直接的な因果関係やメカニズムは各種媒体からの報道を概括したものにすぎません。更に弊社のタイ子会社がまさに大災害を受けた企業の中の一社であるということで、比較的敏速に多くの情報が入手できました。そこで、日系企業の被害、復興、さらには今後の動向等について、明らかになっている範囲内で以下に記してみたいと思います。

一般に、「なぜ」このように大きな水害になったのか、その一番の原因は予想を越える雨が長く降り続いたためであると言われていますが、雨季と乾季がはっきり別れている季節的特長、さらにはタイの地形も大きな要因として取り上げられております。また急激な経済発展に危機管理が追いつかず、政治的要因も加わっていると考えられるため、起こるべくして起きた水害ともいえるのではないでしょうか。いわゆる想定の範囲内での水害であった可能性もあると言えるでしょう。

2)チャオプラヤ川の氾濫

今回のタイにおける大洪水の主たる原因は、このチャオプラヤ川の氾濫です。この川はタイ北部から中央部を流れ、その流域面積は全国土の約1/3にもあたります。上流域では山間部を流れる三本の川がこのチャオプラヤ川に合流し、南に向かって蛇行しながら流下し、アユタヤ、バンコクを貫通してタイランド湾へ注がれます。山間部から流れてきた水は、勾配の緩い平野部に到達すると流速が落ちて、その分水位が上昇します。チャオプラヤ川の河川勾配比は、利根川の1/50とかなりの緩流河川であるため、加えてバンコク近郊に近づくと湾からの潮位の影響も受けるため、水位がさらに上昇します。

これらの条件下、チャオプラヤ川は過去に何度も氾濫を起しておりました。1995年~2010年の間に55回も洪水に見舞われ、2,680人が死亡しております。しかし今回のような大水害は史上初めてで、タイ政府の発表によると、この洪水による死者は600名以上、そして関東平野に匹敵する面積(1万8千Km2)の浸水が発生したとのことです。前述のとおり、タイにおいては過去多くの洪水が起きているにもかかわらず、日本でニュースとして大きく取り上げられることはあまりありませんでした。今回の洪水が詳しく報道されているのは、その規模が大きかったこと、そして日系企業の工場が多く被災したからではないかと思われます。

3)記録的大雨

タイの季節は雨季と乾季に分かれ、例年6月~9月にかけては雨季にあたります。2011年度はこの間の雨量が35%~45%増となり、さらに10月に入っても雨は降り続きました。この雨量は50年に一度のレベルと言われていますが、原因としては赤道付近の海水温が低下するラニーニャ現象の影響を受けたと考察されています。また、今回の雨季中に4度あった台風の上陸も、この大雨に大きな影響を与えています。特に9月27日にヴェトナム中部に上陸した台風18号は、タイ北部・東北部に上陸し、各地に大きな被害をもたらしました。台風は大抵の場合、タイに近づく頃には弱まって熱帯低気圧に変わっているのですが、今回は異例でありました。前年の2010年は、雨季の降水量が今回の約半分程度であったため、乾季に入り水不足となり、米所のタイでは渇水状態が続き苦労したのです。

4)ダムの放水

前年の水不足に懲りたタイ当局は、複数のダムにおいて6月から貯留を開始し、放水を抑え、必死に貯水に努めていました。しかし、前述のように予想に反し大雨が続き、9月下旬にはほぼ満水状態となり、10月初旬には複数のダムについて放水しなければ決壊の恐れが出たため、一斉に放水をし始めました。東京大学 沖研究室の調べによると、その放水量は総氾濫量の半分に達すると言われています。このように、複数のダムが一度満杯状態になってしまうと貯水調整が不可能になり、10月初旬の台風による大雨の水はそのまま放出されることとなってしまい、チャオプラヤ川氾濫の大きな要因の一つとなりました。相変わらず政治的安定が図られないタイである為か、国内インターネットやツイッター等で、まことしやかに「ダムの一斉放水はタクシン元首相の妹、インラック新首相への抵抗勢力や国軍が演じた」等の情報が入り乱れています。新首相が就任したのは、洪水騒ぎが始まった8月5日というめぐり合わせもあったためでしょうか。

5)経済発展と危機管理

今回氾濫したチャオプラヤ川に注ぐ三本川の上流域は、山間部や丘陵地帯から平地に向かっています。以前タイは国土の66%が森林地帯でしたが、2005年には29%にまで減り、国連食料農業機関(FAO)によると、世界で最も急激に森林を失った国であるといわれています。タイ東北部は人気の高いチーク材の産地だったのですが、乱伐によって現在は壊滅状態となり、木材輸入国に転落してしまいました。この消失面積のほとんどが農業、工業、都市の拡大や工業地帯の造成に利用され、これによって、降雨による水への樹木による吸い上げが極端に減り、川に直接流れ込んで水量を増加させているのです。

しかし、危機管理体制に関して、タイ当局が何も手を打ってこなかったわけではありません。1980年代にはJICA(国際協力事業団)の協力で堤防建設に力を入れ始めました。その後政権が変わる度に方針が変わり、1985年のクーデターで政権の座についたサンリット首相は、同年合意されたプラザ合意で多くの企業がタイ進出を始めたのをきっかけに工業団地の造成に力を入れ始め、排水路予定地にまで新工業団地の造成を拡大してしまいました。

. 日系企業の被害と復興

1)日系企業の被害

 今回の洪水は日系企業に甚大なる被害を与えた。わが社もその1つです。

今回の洪水による被害で特にひどかったのは、アユタヤとバトゥムタニの2県に立地する7ヶ所の工業団地で、工業団地全体に浸水し、水没しました。この7ヶ所の工業団地で冠水被害を受けた日系企業は、約450社に達したといわれています。タイ工業連盟 (FTI)は今回の水害被害総額は1兆バーツ(2.5兆円)を超えるものだと発表しており、これはタイの実質国内総生産 (GDP)の10.5%に相当するとの試算を明らかにしました。「日刊タイビジネス」(12月)の97号によると、被害を受けた7つの工業団地だけでも、そのうちの2,370億バーツ(6,000億円)を占めているとのことです。
今回の洪水でとりわけ自動車産業およびその関係者を驚愕させたのは、ホンダ・タイランド社が水没したこと、また多くの自動車部品メーカーが被災して供給チェーンが寸断されてしまったことでしょう。被災を受けなかったトヨタや日産、その他の自動車会社の生産も、一斉に操業停止状態に入ってしまいました。ホンダ、トヨタは今3月期の決算発表に際し、それぞれタイの洪水が1,000億円を越す減益要因であると発表しております。タイの洪水は巨額の被害を日系企業に及ぼしたといっていいでしょう。むろん、わが社も大きな被害を受けました。

2)被災した日系企業の対応

被災したほとんどの日系企業は2012年2月から6月までを復旧の目処としております。昨年12月までに主要な工業団地から水は引いたものの、水没して使えなくなった機器の入れ替えなどに時間がかかるため、思いのほか時間を要するのです。【写真⑩】ジェトロ・バンコクが公表したところによると、再開しても生産を元の水準に戻せず、約4割の企業が生産規模の縮小を検討しているそうです(下記グラフ参照)。中小の製造企業の中には、再び洪水の被害に合うリスクを恐れ、撤退を視野に全従業員を解雇した企業も数社ありました。

  

3)事業再開時期

ジェトロ・バンコク事務所が被災企業である50社の日系企業にアンケート調査を実施した結果、次のような回答を得たと発表しました。(201223日発表)

すでに再開している企業 22%

3月までに再開見込みの企業 34%

6月までに再開見込みの企業 28%

その他未定 12%

被災した多くの製造業は、完成品メーカーに部品を供給する企業が多く、サプライチェーンを維持するため100社以上の企業は、急遽国内の生産能力を引き上げて輸出で対応している状況です。これらの企業はタイ人熟練工を数十人から百人以上の単位で、国内の増産を応援するため来日させています。日本政府もタイ人従業員の臨時受け入れ措置として、特別査証(ビザ)の発給に踏み切りました。またアセアン各国や中国に製造拠点を持っている企業は、他の製造拠点での増産でなんとかしのいでいます。

         

4)今後のタイ投資

今回の洪水被害を受けて、今後タイへの投資が減るのかというと、アセアン全体を見て、ヴェトナムやインドネシア等の魅力が増していることから、相対的にタイへの投資が減る可能性もないとはいえないと考えています。しかし、タイは道路、電力等のインフラが整備されている点、政府による投資インセンティブがある点、サプライチェーンが集積している点、などから企業活動をしやすい環境が整っている強みがあり、タイ・ジェトロの井内所長はそう極端に投資が減って行くとは思わないという見方を示しています。(出典 The Daily nna Thai 12/21

たしかに、東南アジア諸国の中では日系企業にとって依然としてビジネス環境は悪くないだけに、短期間に日系企業がほかの国へとシフトすることは考えにくい。しかし、今回の洪水が人災という面もあるだけに、タイ政府がどれだけ再発防止に力を入れるかが1つの目安になるとも言えそうです。世界中に広がる異常気象により、タイの洪水問題が2度と起きないという保証はないでしょう。それだけに、タイ政府の防災政策を見ながら、日系企業は対応していく必要があるでしょう。巨額の被害を自己責任で負担するとなれば、営利を目的とした企業には大きな負担になるだけに、予断を許さないといっていいのではないかと考えます。


Ⅴ 「ニュースの裏を読む(15)」:ミャンマー問題を考える(印刷用pdf)

長谷川啓之

アジア近代化研究所代表

はじめに

「ニュースの裏を読む」は今回で15回目に当たります。相変わらず、アジアではさまざまなニュースが頻繁に起きており、その多くは新聞などでも報道されております。それらの中から、今回はミャンマー問題だけを取り上げて、少々詳しく見てみたいと思います。なぜならミャンマー問題は様々な意味で、現在アジアで起きている問題の中では最大級の重要性を持つ問題と考えるからです。その意味で、新聞報道だけでは不十分でもあります。その理由はミャンマー問題は多少歴史的な側面や国内と同時に、国際社会との関係も絡んでいることです。つまり、新聞などで取り上げられるだけでは、一般読者には深く理解できない部分があると考えます。なお独裁に反対する人を中心に、多くの人が国名として旧名のビルマを使っていますが、ここではミャンマーを使用します。それは我が国の新聞やテレビでは一般にミャンマーを使用しており、混乱を起こさないためです。

 そこで、以下ではミャンマーについて読者に多少なりとも理解を助けることができるよう、いくつかの角度からこの問題を見てみたいと思います。

2.ミャンマーに関する基本知識

 まずミャンマーに関する最小限の情報ないし知識を知ることにしましょう。少しでもミャンマーに関心を持つ人であれば、すでに熟知している程度の知識ですが、表の1を見てください。

表1 ミャンマーの基本情報

人口

国土面積

首都

イギリスより独立

通貨

主宗教

民族数

6200 万人

68

ネピドー

19481

チャット

仏教

135

 上の表を見れば、ミャンマーについてのおおよその状況がわかるでしょう。人口は日本の半分ほどでかなり大きく、国土は日本の約1.8倍です。19481月にイギリスによる長い植民地支配から独立し、国名をビルマ共和国としました。それ以後何度も国名を変更しました。
そこで、どうしてこういうことが起こったのかという問題は歴史の動きと無関係ではありませんので、独立後の動きを簡単に見ておきましょう。まず58年にウーヌの要請で、ネ・ウィンが管理内閣を成立させたのち、初代首相のウーヌが政権に復帰するのですが、62年にネ・ウインが軍事クーデタで政権を奪取し、革命評議会を結成し、74年に新憲法を制定して、ビルマ連邦社会主義共和国に変更しました。ネ・ウインはウーヌの政治手法に批判的であったといわれます。たとえば、少数民族との過度の妥協的なことなどです。88年に民主化を求める学生デモが発生し、アウンサンスーチーが国民民主連盟(NLD)を結成して政治活動を開始しました。このとき、国軍がクーデタを起こして全権を掌握しました。89年には軍事政権側はアウンサスーチーを自宅軟禁状態に置きました。この間の88年から89年にかけて、国名はビルマ連邦になりましたが、89年からミャンマー連邦に変更されました。90年に行われた総選挙で、NLDが圧勝しましたが、軍事政権側はこれを認めず、NLDを弾圧すると同時に、政権を維持し続けました。

この間、97年にはラオスとともにASEANに正式加盟しましたが、独裁的な軍事政権のため、ASEANの中にあってはやっかいな存在となりましたが、ASEANはそれぞれの主権を尊重するというASEAN Wayを貫きながらも、民主化への転換を粘り強く説得し続けました。それでも20009月にはアウンサンスーチーを再度自宅軟禁にしました。20025月に彼女はいったん釈放されましたが翌年には再度拘束され、その後もずっと長く自宅軟禁状態が続きました。こうした軍事政権の態度に国連もラザリ特使を派遣し、政府との仲介を試みたりしましたが不成功に終わりました。0511月には首都をヤンゴンからネピドーへと移転させました。

20079月には全国的な反体制的・民主化要求のデモが発生し、日本人ジャーナリストの長井健二さんら多数の死者が出ました。この年、軍事政権側は2010年中に総選挙を実施すると発表し、2010117日に民主勢力側を排除する形で、選挙が実施されました。多くの軍人を含む軍事政権側と思われる国家平和発展評議会(SPDC97年に国家秩序回復評議会SLORCから変更)が政権を握ることになりました。もっとも、SPDC20113月、旧軍人のテイン・セインが大統領になると、解散し、権限は新政権に移譲されました。その2011年に国名はミャンマー連邦共和国へと4回目の変更が行われました。また11月にはアウンサンスーチーが自宅軟禁を解かれ、彼女率いるNLDが政党として再登録され、彼女自身選挙に出馬できることになったわけです。

大体の経緯は以上のようですが、むろんこの間に様々な動きがあり、ミャンマーは希望のない軍事独裁国家というイメージが国内外に定着してしまいました。

3.変化への動き

 それだけに、ミャンマーは変わりつつあるとみられていますが、いったい何が変わりつつあるのか、を見てみましょう。政権が突如変化するといっても、にわかに信じていいのかといった戸惑いすら多くの人が感じていることでしょう。今の状況を主導するテイン・セイン大統領自身、軍人の出身であり、かなり長く軍事政権側にいた人です。それだけに、疑問や不信感を感じるのは無理からぬことでしょう。

しかし、次々と入ってくるニュースはやはりミャンマーが大きく変化しつつあるとみてよさそうです。今年に入ってわずか2か月だけでも、政治的な動きや国際社会の動きは急速に進みつつあるようだ。それをいくつかの新聞報道の見出しに沿ってみてみましょう。
1月だけでも以下のような記事が見られます。「真の改革者なのか:テイン・セイン、ミャンマー大統領」〈朝日。16日〉、「ミャンマーと自国をつなげ:隣国の中印・タイ、インフラ開発攻勢」〈朝日、18日〉、「対ミャンマー制裁解除協力:ASEAN外相会議で一致」〈日経、1112日〉、「カレン・政府停戦間近:ミャンマー「国民的和解」へ期待」〈朝日、112日〉、「カレン・政府停戦合意」〈朝日、112日〉、「最古の武装勢力と停戦:ミャンマーが合意、制裁解除にらむ」、「651人追加釈放へ」〈日経、113日〉、「ミャンマーNLD始動:国会補選へ立て直し急ぐ」〈読売、114日〉、「全政治犯釈放か:ミャンマー制裁解除現実味」〈日経、114日〉、「ミャンマー情勢、改革の行方注視:米共和党上院トップ」〈朝日、117日〉、「豊富な天然資源・人口6200万人,要塞ミャンマー、外資、進出へ熱く、中國・タイがリード、日本官民で巻き返し」〈日経、122日〉。

2月に入っても、次々とミャンマー情勢に関する記事が見られます。「ミャンマー軍事費減、初の予算審議、約10ポイント、野党が評価」〈朝日、27日〉、「解放ミャンマーに照準:双日、工業団地を計画、三菱商事・丸紅、駐在員増員、日立はインフラ狙う」、「タイや中国,投資先行:安い人件費魅力」〈日経、210日〉、「ミャンマー若き候補者、国会補選にラッパー、NLD世代交代進める」〈朝日、211日〉、「ミャンマー経済:開国前夜、中古車、輸入規制緩和でブーム、新車解禁も検討」〈日経、215日〉、「狙えミャンマー進出、日系企業「制裁解除後」にらむ、人件費アジア最安」〈朝日、216日〉、「ダウェイ港開発、本格始動:ミャンマー南部、初の特区」〈朝日、227日〉、といった具合です。

 これらの新聞の見出しを見るだけで、ミャンマー情勢がどう変わりつつあるか、国際社会がどうみているか、などがかなりの程度に理解できるでしょう。つまり、国内的には、ミャンマー政府が国内外に向けて開放的な態度や政策を次々と打っていること、長年の政治的抑圧、少数民族との対立、アウンサンスーチー率いる最大野党の政治参加の容認、軍事費の削減などが見られ、明らかに現政権が軍事独裁体制と決別を図り、国民との和解を図ろうとする姿勢が見られます。

また国際社会はこうした動きに敏感に反応を示しつつあるわけです。特に厳しい制裁を加えてきた西側諸国が次々とミャンマー政府の態度を評価し、接近し始めたことです。もちろん、その中には日系企業も含まれており、かつて中国市場進出で後れを取った日系企業が今度こそは乗り遅れまいとの姿勢が見えます。ミャンマー政府は日系企業の進出を切望しているといわれます。「ダウェイ南部に初の特区を作り、その周辺をアジアの一大物流拠点にするという計画が進んでいるとの報道などをみると、まさにミャンマーが改革開放を開始する兆候と見て間違いないように思えます。しかし、過去のミャンマーの政治を見ると、特定の人物の権力や好みで瞬時に変わってしまうこともありうるので、予断は許さないと考える人がいても無理からぬことでしょう。

4.野党の容認と政治犯の釈放

そこで、改めてこのような動きは信じていいかどうか考えてみましょう。変化を評価する意見には賛否両論があるでしょう。特に、海外に逃げたミャンマー人にとってはにわかに信じがたいことでしょう。しかし、ここ1~2年間に次々と打ち出された政策や変更は明らかにミャンマー政府が変わろうとしていることを示しています。その中で、私は3つの点に注目したいと思います。1つは野党の容認と政治犯の釈放、2番目は少数民族との和解、3番目は国際社会との調和(つまり開放)、です。

野党といえばすぐに出てくるのがアウンサンスーチーのことでしょう。軍事政権は彼女を長く自宅軟禁状態においていたが、それはなぜであろうか。彼女の何を恐れていたのであろうか。そのことを考える前に、アウンサンスーチーとはいかなる人物かを見てみよう。彼女が生まれたのは1945619日のことであり場所はラングーンです。彼女の父親はイギリスからの独立を主導し、「ビルマ建国の父」と呼ばれたアウンサンです。15歳までビルマで教育を受けたのち、母親が駐インド大使になったため、インドに行き、高校まで教育を受けました。64年にオックスフォード大学に入学し、大学卒業後、国連本部に勤務し、72年にはイギリス人と結婚しました。その後、研究調査活動をなどを行なっていましたが、88年母親が危篤のためビルマに帰っていたとき、国内で反体制派運動が発生し、政治にかかわることとなりました。88811日、彼女は地方遊説を開始しましたが、少数民族地域で民主主義と人権の重要性を説く中で、次第に彼女は民主化のリーダーになっていきました。他方で、彼女は軍事政権に対する批判を強めることとなり、翌年、軍事政権は国家防御法を適用して、彼女を自宅軟禁処分にしました。だが、90年に行われた30年ぶりの選挙では彼女自身は立候補できなかったにもかかわらず、彼女が率いるNLD80%以上得票するという、圧勝でした。

その後もあの手この手を使って、軍事政権側はアウンサンスーチーが政治の表に出てくることを阻止してきました。そうした態度を見れば、軍事政権側が彼女を恐れるのは当然といえるでしょう。政府が恐れるのは反政府運動であり、その象徴的な人物が彼女であるとは明らかだからです。このため、軍事政権側は897月から957月まで、20009月から025月まで、そして035月から1011月までの3回にわたって軟禁状態に置いてきたわけです。つまり、アウンサンスーチーのミャンマーにおける生活はほとんど軟禁状態でのそれであったといえるでしょう。

ところが、テイン・セイン大統領はアウンサンスーチーとの対話を希望し、彼女もそれを受け入れ、それなりに評価しているようだ。国民との和解の1つです。国民との和解として重要なのは政治犯の釈放でしょう。政府は今年113日、大統領恩赦により651人の受刑者を釈放しました。この中にはNLDが求めていた591人の運動指導者も含まれています。かつての首都ヤンゴン郊外にあるインセイン刑務所に収監されていた政治犯は13日午前8時前から待ち構える運動支持者の前に、午前11時半過ぎに次々と姿を現し、支持者から拍手と歓声が沸き起こったと新聞は伝えています。これで欧米の制裁解除の条件の1つは完全に充足されたわけです。釈放された政治犯の中には多くの「88年世代学生グループ」の幹部や07年の学生デモを主導した僧侶のガンビラ師などのほか、SPDC議長タ・シュエ議長と対立して失脚したキン・ニュン元首相も自宅軟禁を解かれました〈朝日、114日〉。

5.少数民族との和解と国際社会への開放

国民との和解と言えば、少数民族との和解はその中でも最も重要な課題の1つです。ミャンマーの少数民族は表1に示したように、135種類もあるといわれ、それらの中には反政府的態度をとるものもあれば親政府的態度をとる民族もあります。それらの多くは政府との停戦に応じているが、特に東部カイン(旧カレン)州を本拠とする最古の少数民族である「カレン民族同盟(KNU)」〈1947年カレン族キリスト教徒を中心に結成〉は1949年以後、分離独立を求めて60年以上も反政府闘争を続ける民族組織もあります。政府にとって、欧米が要求する国民的和解の最大の難問の1つが反政府民族組織との和解であるだけに、テイン・セイン政権にとってKNUとの停戦は最大の難問の1つでした。1996~2004年にかけて行われた停戦交渉が決裂し、交戦状態が続いてきただけに、なんとしてもKNUとの停戦合意を取り付ける必要があったわけです。そして、ついに今年113日、KNUとの停戦が合意に達しました。これはKNU代表との交渉に臨んだ鉄道相が「現政権にとり、国内和平に向けた大きな成果だ」と述べたように、画期的な出来事です。分離独立を求めて60年以上闘争を続けてきただけに、反政府的態度をとる他の少数民族との和解に向けた大きな前進でしょう。これは欧米から見ても納得できる動きであり、国内民主化勢力にとっても満足できるものであり、政権側の本気度を示すものといえるでしょう。

表2 基本経済統計(1)

国 名

人口

GDP

1人当たりGDP

産業構成比2003年(%)

物価上昇率

国際貿易

2011年〈100万人〉

2011US$

2011(US$

農業

工業

サービス業

2000~05年平均

X

M

ミャンマー

62.4

50.20

804

51.9

13.6

34.5

23.1

15.8

8.8

タ イ

64.3

339.40

5,281

9.8

44.0

46.7

2.2

na

na

ラ オ ス

6.6

7.89

1,204

48.6

25.9

25.5

12.9

71.2

22.9

ベトナム

89.3

121.61

1,362

21.8

40.0

34.5

3.5

352.4

87.8

注:国際貿易は左側が輸出(X)、右側は輸入(M)で、1980年から08年までの倍率、

資料:各種統計から

テイン・セイン政権が推進する政策の1つは欧米諸国が長い間要請してきた国際社会との調和であろう。つまり、テイン・セイン政権が世界から信頼されるためには、国内の改革だけでなく、国際社会との調和も実現する必要があるわけです。この問題はミャンマー経済と無関係ではありません。ミャンマー経済は1986~88年、91年にマイナス成長したのち、98年までほぼ3~8%程度の成長を実現しました。99年以後07年にかけては2ケタ成長も記録しました。経済的にある程度の成長を実現したことがミャンマーの政治的独裁を維持できた最大の理由の1つでしょう。しかし、経済の中身を見ると、まったくお粗末で、工業化はほとんど進まず、いわゆる近代化からは程遠い状況だったわけです。いま、表2を見ながら考えてみましょう。09年現在で産業構造は農業が過半数の51.9%を占め、工業はわずか13.6%にすぎません。これは周辺諸国の中で見ても、同じく工業化が最も遅れているラオスより進んでいません。そのため、1980年から2011年にかけての輸出の伸びもわずか8.8倍に過ぎず、表の国々の中では極端に少ないのは、工業製品の輸出がほとんどないからです。一人当たりGDPもラオス、ベトナムより低く、12ドルをわずかに超える程度にすぎません。これは最貧国に近いわけです。

このまま進めば、ミャンマー経済が行き詰ることは目に見えています。北朝鮮と違って、第一次産品、特に食料(米や豆類)はかなり豊富なだけに、飢え死にすることは考えにくいでしょうが、ASEANの中では最も貧しく、お荷物的存在であるだけに、何とかする必要があったでしょう。かつてシンガポールのリー・クアンユーはミャンマーの軍事的指導者を経済のわからない連中、と批判したことはよく知られています。

これでは経済はじり貧になり、やがて国民の反発を買うことは目に見えています。88年と07年の反政府デモに次いで、3回目の反政府デモが起きれば、中東のように革命が起きてもおかしくはない状況と言っていいでしょう。こうして、テイン・セイン内閣は欧米からの説得に、改革・開放に踏み切る最後の機会ととらえたのだと思います。

6.ミャンマー経済の現状と課題

ミャンマーが遅まきながら改革・開放に踏み切り、いよいよ内外に市場を開放し、経済発展をするのだといっても、果たしてそれだけの基盤は存在するかと誰しも思うでしょう。そこで、少しミャンマー経済について突っ込んで考えてみましょう。あまり統計は信用できないかもしれませんが、表3を見ると、輸出は年間80億ドルちょっと、輸入は77億ドル程度で、この程度の貿易をするだけでは到底、経済発展には不十分でしょう。それも主要な貿易品目が天然ガス、豆類、宝石〈ひすいなど〉、チーク材などで、工業製品はほぼ皆無です。貿易相手国もタイ,インド、中国が上位3位までを占め、圧倒的なのがタイで、2010年現在、天然ガスを中心に全体の32.7%を占めています。 急速に伸びているのが香港でタイに次いで21.4%、次が中国で13.6%となっています。

しかし、最近の対中政策の見直し状況を反映すれば、将来は若干中国の輸出は後退する可能性があり、それに代わって欧米や日本への輸出が拡大する可能性があります。また輸入で見ると、ミャンマーの輸入は工業製品が中心で、2010年現在、第1位は中国で33.8%を占めており、2位のシンガポール〈25.7%〉、3位タイ〈11.1%〉の3か国で、全体の70.6%と偏っています。この点も輸出と同様に、今後は大きく変化する可能性があるでしょう。イギリスを除けば、アジア諸国が中心の直接投資も欧米や日本が急速に増大させる可能性があるものと思われます〈09年ではミャンマーへの直接投資は3位と5位の間に、つまり中国が4位〉。

表3 ミャンマーの基本経済統計(2)

経済成長率

1人当りGDP

失業率

輸出

輸入

主要貿易品目

主要貿易相手国

10.672000~2010年平均)

804US$2011年〉

4.0%2010年〉

81億ドル2010年〉

77億ドル2010年〉

天然ガス、豆類、宝石、チーク材・木材

中國、タイ、インド、香港、シンガポール、日本

資料:外務省「ミャンマー連邦共和国」、ほかより

ミャンマー経済が発展するには不足する要素が多すぎます。しかし、将来に向かって多くの有望な要素もあります。たとえば、人口は6,000万人を超え、比較的識字率も高く、国民性は日本人に似ているとも言われるように、まじめなで控えめな国民性で賃金水準も低い。自然資源も豊富で、未開発であり、観光資源も豊富です。また製造業ワーカーの賃金は表4を見るとわかるように、一般ワーカーでタイや中国の8分の1程度、エンジニアでは7分の1程度です。タイでかなり前にプランテーションを経営する知人から聞いた話ですが、タイのプランテーションで働く肉体労働者が毎朝ミャンマー側から川を渡ってタイ側に朝早く入り、8分の1程度の賃金で働き、夕方には帰っていくとのことで、私の知人は300~400人程度を雇っているとのことです。この話とほぼ表4の数値は符合しているようです。

表4 製造業年間雇用負担額(賃金)

ミャンマー

カンボジア

ベトナム

タイ

中國

一般ワーカー

629

1,504

1,891

5,125

5,309

エンジニア

1,406

4,830

4,574

9,778

10,494

 注:1)単位はドル,2)ミャンマーはヤンゴン、カンボジアはプンペン、タイはバンコク、中国は上海の値。
 資料:JETRO,「第21回アジア・オセアニア主要都市/地域の投資関連コスト比較」 <20114月)

ミャンマーが工業化できず、欧米からの制裁を受けてきたため、隣国タイや中国(や香港)、インドなどの近隣諸国としか貿易ができず、欧米や日本との貿易を拡大するカンボジアやベトナムに比べて、これまで貿易はほとんど伸びませんでした。直接投資も同様で、イギリス以外の先進諸国はほとんどミャンマーへの直接投資を控えてきました。トップのタイが全体の約47%09年現在)とほぼ半分を占め、2位のイギリスはおよそ12%で、残りはシンガポール10%、中國8%、などとなっています。

今回の改革・開放政策が本格化すれば当然西側からの投資は一気に拡大するはずですが、必ずしもなだれのようにとはいきそうもありません。なぜなら、第1にインフラが不十分だからです。表6を見ればわかるように、ミャンマーのインフラは極めて劣悪です。識字率や初等教育はかなり浸透しているとはいえ、高等教育はまだ決していきわたってはいません。

表5 インドシナ4か国の比較経済統計

ミャンマー

ラオス

カンボジア

ベトナム

X 1

タイ

タイ

アメリカ

アメリカ

2

香港

ベトナ

ドイツ

日本

3

中國

イギリ

中国

4

インド

マレーシア

フランス

オーストラリア

5

シンガポール

ドイツ

カナダ

シンガポール

I 1

タイ

タイ

韓国

韓国

2

イギリス

中國

中國

香港

3

シンガポール

日本

ロシア

日本

4

マレーシア

インド

タイ

アメリカ

5

香港

ベトナム

アメリカ

ケイマン諸島

注:1)Xは輸出額の順位、ミャンマーは200,ほかは06年、2)Iは直接投資の上位5か国、3)国により、若干時期は異なる。ミャンマーは1988~071月累計認可ベース、それ以外は2006年認可ベース。
資料:日本ASEANセンター

また物的なインフラを見ると、道路、電力、電話、さらには近年各国で充実が著しいインタネットなどのICTインフラは極めて劣悪です。さらに、空港、航路、港湾、外貨不足、二重為替問題(公式レートと商取引用レートの二重為替制度を使用している)、などの問題も早急に解決することが必要でしょう。インフラの統計を見ると、インドシナ諸国の中で優れている分野は極めて限定されることがわかります。これらのインフラや制度の問題は多国籍企業に頼って工業化する場合には、決定的に重要なことだといえるでしょう。

6 インドシナ4か国の社会インフラ統計

ミャンマー

ラオス

カンボジア

ベトナム

タイ

1)成人識字率(%)

89.9

73.2

76.3

90.3

94.2

2)初等教育就学率(%)

96.9

74.7

79.5

96.4

87.5

3)中等教育就学率(%)

49.0

43.5

42.0

75.7

83.5

4)高等教育就学率(%)

3.1

11.6

5.4

15.9

48.3

5)発電設備容量(kw)

184

72

39

1,385

4,067

6)道路総延長(1000㎞〉

27

30

38

160

180

7)道路密度(/

41

129

21

516

352

8)道路装備率(%)

11.

13.4

6.3

47.6

na

9)電力消費量(一人当たりkwh)

82

na

na

573

1,983

10)乳児死亡率〈2002~04

75

62

98

16

18

11)電話普及率(/110)

1.3

12.4

7.8

30.2

53.7

注:1)~8)は2003~2007年、9)~11)2000~05
資料:ADB, Key Indicators, 2007 and 2010

このように見ると、改革・開放が全面的に進んだとしても、にわかにミャンマー経済が発展すると考えるのには問題があるでしょう。問題は政府がいかなる知恵と役割を果たせるかですが、先述のようにシンガポールのリー・クアンユーが指摘した、ミャンマーの軍事独裁政権には経済的感覚はほとんど無いということから考えると、当面期待できるのは外国の政府や企業ということになるのでしょうか。それも非現実的かもしれません。いずれにせよ、短期的に見たミャンマー経済の前途は思ったほど明るいとは言い難いようです。しかし、そうはいっても、この機会を逃さず一気に西側は制裁を解除し、多国籍企業が直接投資に踏み切り、インフラを初め全面的な支援を行うことは意味あることというべきでしょう。

終わりに:日系企業進出の好機

 以上で、簡単にミャンマー情勢について考えてきました。ミャンマー周辺のインドシナ諸国には発展の開始時点では、様々な問題を抱えながら、次第に外国の援助などを受け入れつつ、発展への道を歩み始めています。それにはダウェー工業団地のような大規模開発構想は意味があるでしょう。工業化や民主化といった近代化へと歩みはゆっくりとですが、確実に進んでいるとみていいでしょう。その意味で、ミャンマーもまずは民主化を進め、工業化を実現し、経済発展していくことを期待したいものです。それには日本の経験や技術、ノウハウは極めて有効であるだけに、日本政府の支援と日系企業の進出はミャンマー政府も望むところでしょう。ミャンマー政府の態度次第ですが、日系企業が起業する分野は農産物、水産物、自然資源開発、観光資源の有効利用(たとえばホテルなど)、雑貨、自動車部品関連、住宅、コンビニ、スーパーなどなど、数多くあります。

Ⅵ アジアと私(3):タイとの出会い(印刷用pdf)

長谷川啓之

アジア近代化研究所代表

1.初めてのタイ

 初めて私がアジアに出かけてからもうすぐ50年がたちます。「アジアと私(1)」(本ニュースレター第12号)で書きましたように、私は1965年2月から3月にかけて香港、タイ経由でシンガポール、インドネシアそしてフィリピン、台湾などを1ヶ月ほどかけて回りました。その後、何度もアジアには出かけましたが、何と言っても最初に受けた強い印象はほとんど永久に忘れられません。

当時、私は大学院の修士課程をほぼ終了するところでした。羽田から友人たちに見送られて出発したことを昨日のように思い出します。私にとって、これが最初の海外旅行であり、カメラもスーツケースも自分の持ち物ではなく、すべて借り物でしたし、初めて飛行機に乗ったため、なんとなく不安と期待が入り混じっていました。最初の飛行機はエア・フランスでした。飛行機の中ではただの豪華な食事が食べられることさえ知りませんでした。また食事がただとなれば、酒もただだろうと思って、生意気にもコニャックを注文したところ、有料でした。初めて飲んだコニャックでした。そこで10ドル紙幣をだしたところ、お釣りがもらえるはずだと思ったのですが、相手はなかなかお釣りを持ってこず、ついに最初の寄港地である香港で降りるときになってようやくスチュアーデスがお釣りをもってきたという次第でした。

こうして、すべてが新しく起きることばかりで、これからの旅行でどんなハプニングに出会うか、想像することもできませんでした。事前の知識よりも、ともかく行くことにしたのです。これが欧米先進国であれば、あまり不安は感じなくてすんだかもしれませんが、アジアとなると、今ならアフリカに行くような気持ちがしたとしても不思議は無いでしょう。しかし、正直言って私はほとんど深刻な不安を感じませんでした。なぜなら、感じないというより、感じるほどの情報も知識さえもなかったからです。

 最初に到着した香港は素通り同然でした。しかし、一応2日間ほど滞在したため、香港から来た、大学院の親友の妹さんとその婚約者が出迎えてくれ、若干なりとも香港を見たのですが、いまではほとんど記憶がありません。宿泊したホテルの名前(確か、ミラマー・ホテル?)すら失念してしまい、記憶らしきものは若干あるにはありますが、その後何回も訪問した香港の記憶とダブってしまい、このときの記憶として記述することは差し控えたいと思います。いずれ、香港について書く機会があれば、触れるつもりですが。

 そういう意味でも、アジアと最初に出会った国といえばやはりタイでしょうか。しかし、そのタイもいきなり学生がはっきりした目的も無く訪問するのですから、高い費用をかけて、それに見合う成果を得ようとしても容易ではありません。それでもいくつかのはっきりした思い出やエピソードがありますので、それを書くことにしましょう。

2.ゴーストタウンとベトナム帰休兵

 タイには数日間滞在しました。香港を経由していく途中、ベトナムの上空を飛びました。かなり低空だったせいか、誰かが、香港を出てまもなく、「おい、ベトナムの上空を飛んでるぞ。何か煙のようなものがあちこちに上がっている。やはり戦争しているからかな。」などと言うのを聞いて、私も窓の外を見ました。確かに、はるかに下のほうに白い煙のようなものがいくつか見えました。

私は「ベトナム戦争」に反対でしたので、なんとなくいやな気持ちがしました。友人や指導教授とはしばしばベトナム戦争について議論しましたが、残念ながら指導教授は私の意見に賛同してはくれませんでした。もちろん、私はベトナム戦争に反対だからといって、友人の何人かが参加した、当時、作家の小田実率いる「べ平連」には参加したことはありませんでした。理由は何かと言われても、複雑でいまそのときの気持ちを整理する気にはなれません。少なくとも念願の大学院に入って間もないころで、大学時代に安保反対運動に参加したときのような気持ちにはなれませんでしたし、一念発起してわざわざ大学院に入り直し、当時はこれから必死で人生をやり直そうと考えていましたので、とても余裕が無かったことが大きな理由の1つかと思います。それから20年以上たって、ベトナムを訪問した際、当時の「南ベトナム解放戦線」(ベトコンと呼ばれていた)が戦うために作った防空壕や地下の基地、そこにたどり着くために作ったジャングルの中の迷路などを見て、当時のベトコンの活動と同時に、米軍がいかに手を焼いたかを知りました。戦争は武器だけでは勝てないのだ。

さて、タイでの経験や思い出も、わずかな期間でしたが、最初の熱帯の国でしたので、部分的にはかなり強烈なものがありました。そこで、以下タイで経験したこと、見たことなどを思い出しながら、その中のいくつか取り上げてみたいと思います。

香港から当時の古くて小さなバンコク空港に着いたのは現地時間で最も暑い午後2時か3時ころでした。飛行機の中で隣の席にいたタイのアメリカ学生を終えて帰国しようとしていた若者と知り合いました。彼は、自分も私のホテルの前を通るので,一緒にいきましょうと言ってタクシーで送ってくれました。途中、車中から見たバンコクの町に、私はあっと驚きました。なぜならほとんど人が歩いていないことや建物も黄色がかった土でできたものが多く、見慣れない光景が不思議でなりませんでした。今思い起こすと、それは強烈な太陽の光線と死んだような町の風景でした。まさに西部のゴーストタウンさながらの風景だったのです。翌朝、ホテルの窓から外を見ると、まだ薄暗い中を多くの托鉢僧が黄色の衣服をまとい、町を歩き回っているたくさんの姿が見えました。托鉢僧に女性たちが少しずつ食物を与えているのでした。初めて見る風景に、しばらくじっと見入っていました。日本のお坊さんとなんと違うことか。このとき以来、私は仏教に漠然とした関心を持ちました。

ホテルは4階建てで、それほど大きくはありませんでしたが、華人が経営する中規模で4つ星程度(今の基準なら3つ星?)の4階建てのホテルでした。実はそれから30年ほどして、わが家にタイの女子学生を1年間AFSの制度を通じて預かったのですが、このときのホテルは彼女のおじさんが経営するホテルだと知り、何かの因縁を感じました。このホテルが「華人の経営するホテル」と上で書いたのは、後で知った情報によるものです。

ホテルに入ると、驚いたのはアメリカ人らしき人たちが沢山いることでした。フロントで聞くと、やはり米兵たちだと言う。1階にはレストランやフロア、売店などがあり、2階以上に宿泊施設がありました。私の部屋は2階でしたが、周りの部屋にはほとんど米兵以外にはいない様子で、廊下のあちこちで雑談しており、私の顔を見ると,ニコニコしながら、「ハイ」と声をかけてくるのです。私も思わず「ハイ」と返したものでした。

彼らが米兵だということは分かっても、どういう人たちだろうか、ここで何をしているのだろうか、と考えました。そこで、一人の人のよさそうな大きな体格の兵士に、あなたはこのホテルで何をしているのですか、と聞いてみました。すると、「自分はベトナムで戦っている米兵だが、何ヶ月に一度、タイで休憩を取るのだ」と言うではありませんか。新聞ではベトナム帰休兵のことを知っていましたが、正直びっくりしました。私が反対していたベトナム戦争で北ベトナム兵や、アメリカが支持する南ベトナム政府に反対して戦う「ベトコン」を殺すことを目的とした人たちと、自分が同じホテルにいることに戸惑うばかりでした。

しかし、兵士個人は実にいい人たちで、何名かとすぐに親しくなり、彼らは毎朝1階のロビーに集まって、上官からちょっとした注意とか伝達事項を聞くだけで、一日中どこに行って遊んでいても構わない、まさに自由なホリデイを楽しんでいました。ある朝、食事を取っているとき、知り合いの兵士が、今日は一緒にどこか遊びに行かないか、と誘ってくれました。ちょっと時間も空いていたので、OKといって付き合うことにし、4人で1台のタクシーに乗り、まずスネーク・ハウスを見に行きました。これはかなり有名なところで、今では案内書にも必ず載っているほど日本でも知られているようですが、当時はまったく知りませんでした。スネークハウスにはぱらぱらとでしたが、観光客がおり、大蛇から日本のマムシまで沢山の種類の蛇が、所狭しと並んだ蛇小屋に飼われていました。案内人が観光客に「マムシは日本にしかいない貴重な蛇ですが、かまれたら死ぬこともあります。」などと説明していました。

またある小屋にはとてつもなく大きな大蛇が何匹もいました。初めて大蛇を見たため、驚いて、この蛇は人間も食べるんですか、と聞くと案内人が大きな声を上げて笑う。「冗談でしょう。そんなことしませんよ。おとなしい蛇ですから。」と言う。私が持てば重くてひっくり返るほど大きい。ところが体格のいい米兵なら大丈夫と言うことになり、米兵が肩に担いで、ニコニコ笑う写真をいっしょに撮りました。

続いて、像を見に行きました。子供のころから、像に一度乗ってみたいと思っていましたので、乗せてもらうことになったのですが、思いのほか大きく、ようやく助けて乗せてもらうと像の背中がこれほど高かったのかと驚くばかりでした。こんな風にして、動物を見たり、タイの踊りを見たり、タイ式ボクシングなども見ました。ボクシングはその迫力に圧倒される思いでした。こうして米兵と1日、たっぷり遊び、一緒に食事をしてホテルに帰ったのですが、彼らはみな気さくで明るくて、楽しい連中ばかりで、彼らがベトナムで戦う兵士であることなどすっかり忘れていました。もちろんそれが帰休兵の唯一の目的だったのでしょう。

3.チュラロンコーン大学で

 他にも沢山の有名な寺院などを見ましたが、もちろん、毎日遊んでいたわけでありません。目的は小田実の『何でも見てやろう』がベストセラーになっていた時代ですが、私も持ち前の好奇心から、海外ではできる限り沢山見て、経験したいと思っていました。あるとき、一人で町を歩いていると、若者が近づいてきて、英語で話しかけてきました。「僕はチュランコーン大学の学生です。案内をさせてくれませんか。11ドルでいいです。」と言う。当時の1ドルがタイでどの程度の価値だったのか知りませんでしたが、私はこの学生を2日間「雇い」、いろいろな経験をさせてもらうことになりました。貧乏学生がもっと貧乏な学生を雇ったわけです。仮にこの学生をC君としましょうか。チュラロンコーン大学と言えば、タイの一流大学であり、是非この学生と親しくなって、いろいろ話を聞きたいと思いました。タイには沢山の大学がありますが、最も有名なのはチュラロンコーン大学とかタマサート大学でしょう。それから数十年たって、私がこれらの大学を訪問することになり、特にチュラロンコーン大学には何度も行き、宿泊するなど、多くの学者とも交流関係を持ち、今日に至っています。

国立のチュラロンコーン大学やタマサート大学がタイでトップの大学である理由は詳しくは知りません。たぶん、それらの大学はタイで最も伝統のある大学であり、そこを出た人たちがタイのビジネス、政治、社会などで大活躍しているのではないかと考えます。もちろん、そこの学生もきっと頭脳明晰なのでしょう。チュラロンコーン大学が有名な大学であることはタイに行く前にある程度は知っていました。しかし、それらの大学にコンタクトを取るすべもありませんでしたし、自分のような低レベルの学生が一流大学の先生に会っても、意味ある質問はできそうもないし、大学を訪問する意味は無いだろうと考えていました。しかし、せめてキャンパスくらいは見たいものだと思っていたため、C君が声をかけてきたとき、これはいいチャンスだと思いました。せめてC君に頼んで、チュラロンコーン大学を案内してもらおうと考えました。

しかし、考えてみると、せっかく大学を訪問するのだから、誰か先生に会えないかとも思いました。そこで、「君は誰か先生とコンタクトが取れますか」、と聞くと、「できます」、と言う。「どういう先生ですか」、と聞くと、「私の指導教授で、農業経済学の先生です」、と言う。これはすばらしいと思い、「是非会いたいので、アポイントをとってほしい」と頼むと、C君はすぐに連絡してくれ、2日後の午後に会う約束をとってくれました。先生は午後2時ころに研究室で会ってもいい、と言ってくれました、とC君から知らせがありました。

C君とは2日後の11時半ころホテルで待ち合わせ、大学の近くで一緒にひどく辛いスープを初めとするタイ料理を食べてから、午後1時過ぎにホテルからそれほど遠くないチュラロンコーン大学に到着しました。チュラロンコーン大学のキャンパスはそれほど広くは無いが、緑が多く、熱帯の花も咲いて実に美しい。

1時間ほど時間があるので、二人でゆっくり大学のキャンパスを歩き、図書館やBookshopなどを覗いたり、あちこちの教室を見た後、キャンパスの中ほどにある教室に入って行きました。すると、先生はイスに腰かけて待っていてくれ、両手で合掌しながら、こんにちは、と言いながら握手を求めてきました。めがねをかけ、白髪が混じり、やや太り目のお年のいった先生で、60代半ばくらいかと見受けましたが、実際はもっと若かったかももしれません。大変気さくで優しい先生で、古ぼけた厚手の布で包んだポットを机の上に置き、そこから時々お湯をコップに注ぎながらお茶を飲む。私にもいっぱいどうですか、とおっしゃる。いただきますと言って、2~3杯いただきながら、年はいくつですか、とか、何を勉強しているのですか、何をしにタイに来たのですか、さらには日本の状況に関する若干の質問などを交えて、時々窓の外のうっそうと茂った樹木を見ながら、先生とゆったりした気分で話をしました。時がゆっくりと流れていくのを感じました。

あまり専門的な質問は控え、最初に、先生にタイの経済は近い将来発展する可能性がありますか、などとやや失礼な、タイ経済に関する質問もしました。それからわずかな知識を基に、とめどもない話をしました。しかし、印象に残っているのは農業、中でもお米の話でした。タイは二毛作で米が沢山獲れるばかりか、日本のように水田だけでなく浮き米なども生産可能で、大量の輸出ができるから、それで外貨を稼ぎたい。だから、工業化が進む、豊かな日本がもっと沢山米を買ってくれるとタイ経済にいい影響があり、発展に貢献すると思うから、是非日本は米をたくさん買ってほしい、などと言う話を繰返ししていました。もちろん、当時も日本は一応自力で米の生産が可能であり、食管制度もあるなど、米の自由化など思いもよらない時代でしたので、日本がタイの米を買うのは難しい問題ですね、と答えるに止めました。もちろん、先生もそのくらいはご存知だったでしょう。他にもいろいろな四方山話をした後2時間ほど、先生との対話を満喫した後、私のような学生の相手をしてくれた先生に深く感謝しながら、出口まで送ってくれた先生と握手をして分かれました。いい経験でした。幸せを感じるひと時でした。タイは私にとってアジア訪問の主要な対象国ではありませんでしたが、いつかもう一度訪問したい国だと思いました、事実、私はその後少なくとも10回以上はタイを訪問しましたが、この先生に再び会うことはありませんでした。先述のように、その後、わが家はタイからの留学生を1年間預かりましたが、このときの経験や印象が大いに役立ったと思います。

4.バナナとパイナップル

 当時のタイは交通手段といえばタクシーくらいで、車が無いととてもあちこち歩き回ることはできませんでした。今もあまり変わりないと言えば、変わりは無いでしょうが、いまは何と言っても観光バスが頻繁に走っています。ホテルのカウンターで聞くと、このホテルのお客さんを優先的に運んでくれる、信頼できるタクシーがあるから、それを利用するといいよ、と教えてくれました。そこで、早速,40歳くらいの男性運転手に頼んで、1日いくらで雇い、あちこちを回ってもらうことにしました。運転手はいい人で、日常会話も英語でほぼ不自由なく話せ、走っている間もさまざまな会話や案内をしてくれ、楽しい思い出がたくさん残っています。料金もかなり安く、確か1日中頼んでも2~3ドル程度だったように思います。3ドルと言えば、1ドルが360円の時代ですから、ほぼ1000円程度でしたので、3日間雇っても3000円程度です。当時の日本の大卒の初任給が2万円前後の時代ですから、ボーナスを入れないで1日に直せば700円程度でしょう。ですから、単純計算しても3日間で4日分の給料と言うことになりますか。先ほどの大学生に1ドル払ったことを考えると、高くはないですが、1日2~3ドルは高いと言えば、高いですね。しかし、朝早く、何時でも来てくれ、夜は何時まで乗っても、超過料金は取りませんでしたので、目いっぱい利用させてもらいましたから、やはり安いですね。

 当時は観光バスなどもありませんでしたので、タクシーを借切ってあちこちの有名な寺院を見たり、バンコクからそれほど遠くない農村に行ったり、市内を走ったりできました。まさにバンコク市内と郊外をほぼすべて見た思いです。運転手は観光客を相手にしているため、かなり金持ちのようで、奥さんはいますか、子供さんは何人居ますか、などと聞くと、あっけらかんとして、驚いたことに本当の奥さん以外に2人の妻(=妾)がいると言う。タイでは奥さん以外に女性を囲っている人は決して少なくないと言う。イスラム教徒であれば、4人までもてると聞いていましたが、仏教国のタイでそういうことが許されていると聞いて、ほんとうにびっくりしました。本当の奥さんは怒らないんですか、と聞くと、だいじょうぶだという。女性の間を何日おきかに回るのだそうで、これには二度びっくりでした。もっとも、子供さんの数が何名だったか、はっきりとは覚えていません。

 私の年齢くらいの人で、小さいころバナナとパイナップルを思い切り食べてみたいと思ったことはないでしょうか。そこで、日本では難しいが、タイならできそうだと考えて、運転手に「バナナとパイナップルを買ってきてくれないか」と頼みました。「いいよ、安く買ってきてやるよ」と言う。「どのくらい買ってくればいいか」と聞くので、でたらめに両方あわせて、「1ドルで買えるだけでいいよ」、と言って、1ドル紙幣を渡しました。運転手は「分かった、それじゃ明日迎えに来るとき買って来るよ」といって、帰って行った。

 明朝、運転手が部屋に来て、「バナナとパイナップルを買ってきた」、と言う。運転手がそれを手に持っていないので、どこにあるの、と聞くと、下においてあるから見てくれ、と言う。すぐに、1階に下りて行き、見ると南京袋のような、私の腰の高さほどある大きな布の袋にぎっしり詰まっているではないか。「えっ、これがそうなの?これで1ドル分なの?」っと言うと、そうだという。驚いたのなんのって、想像の10倍はあったといっていいでしょう。最初からタイなら安いだろうと想像していましたが、20本くらい付いたバナナの房が10くらい、パイナップルが78個もあるとは。私の残りの滞在期間はその日を入れて、次の日しかなく、2日後の朝早くシンガポールに立つ予定でしたので、どうしたらいいか考えこんでしまいました。そこで、バナナは2房ほど部屋に置き、パイナップルは1つだけをレストランのコックさんに頼んで料理してもらって食べました。それでも帰るまでに1房しか食べられず、空港に1房もって行ったものの、持ち出せず、2~3本食べて捨てました。バナナの残りは全部運転手に持っていってくれと頼み、パイナップルはレストランに置いてきました。ほしいことをしたといまでも残念で仕方がありません。

5.サマーセット・モームとオリエンタル・ホテル 

タイを出発する前日カンタス航空から電話があり、明日の朝8時半にあなたを迎えに行きますといってくれました。荷造りを終え、これで明日はカンタス航空の車が来るのを待つばかりだとほっとしました。カンタス航空の車はミニバスで、私を最初に乗せた後、次々とホテルをまわって客を乗せ、空港に向かいました。その途中、小さくて古風でいかにも高級なジ・オリエンタル・バンコク・ホテルに立ち寄りました。シンガポールのラッフルズ・ホテルも最初に見たときはいかにも古風で、格式があり、現地の風土にあったすばらしいホテルだと思いましたが、このホテルもほぼ同じような印象を持ちました。

このホテルはサマーセット・モームが確か短編小説の中の最高傑作の1つとも言われる『雨』という短編を書いたところです、とカンタス航空の男性スタッフが教えてくれました。『雨』はシンガポールのラッフルズ・ホテルで書いたとも言われますが、1か所だけで書いたのではないのかも知れません。

このホテルはタイで最初にできた西洋風ホテルとして知られ、1974年以後、香港に本拠を置くマンダリン・オリエンタル・ホテル・グループが買収し、いまや名前も「マンダリン・オリエンタル・バンコク」と呼ばれ、立派な建物で最高級のホテルとして知られています。しかし、やはりもとの古いホテルの方が格式があって、私は好きです。このホテルは有名なチャオプラヤー川のほとりに立ち、ホテルから川を見ながらの食事は格別でしょう。私はその後、川に面した高級ホテルに宿泊した経験からそう感じます。またホテルの周りには多くの大使館があり、高級住宅街としても知られています。もちろん、当時の私がこんな高級ホテルに泊まれる身分でないことは言うまでもありません。

サマーセット・モームは大学受験時代、かなり沢山の短編の、さらにその一部を集めた受験書を読んだことがあったため、大いに関心がありました。もっとも、その中に『雨』が入っていたかどうかは記憶がありません。しかし、なんとなく関心を持ち、その後何度かタイを訪問するようになってからも、このホテルの前を通る機会がありました。ずいぶん変わってしまいましたが、通るたびにこのときのことを懐かしく思い出したものです。そのときこのホテルから乗ってきた中年のアメリカ女性とバスで隣り同士に座り、空港でもおしゃべりをしたためか、相互に親しみを感じました。彼女もシンガポールまで一緒に行きましたが、その後1ヶ月ほど過ぎたとき、彼女から手紙が来て、日本に近く行くので会いたいといってきました。そこで、彼女と日本で再開し、当時のタイでの経験について懐かしく思い出し、話が弾み、夜の東京を案内しました。

そういえば、ちょっと思い出したので、タイの空港でのエピソードを1つお話しておきましょう。私は当時持ち出し制限ぎりぎりの、500ドル(日本円で18万円)を持って出かけ、ホテル代なども日本ですでに払っていたため、現地ではあまり使わずにすみました。タイに着いたときにはまだ500ドルがほとんどそのまま残っていました。ところが、タイに着いてから聞いたのですが、ある日本人からタイを出るときには、200ドル以上の現金を持っていると空港で没収されますよ、と脅かされました。これが事実なら、困ったなと思い、空港では300ドルを靴の底に入れ、残りだけを財布に入れて税関に向かいました。案の定、空港の税関では財布を出すように言われ、いくらあるかチェックされました。そのとき、パスポートには500ドル持参を書いてありましたので、300ドル以上もどこで使ったのか、と聞かれました。そこまでは考えていなかったため、困った、ここは何とか言い抜けなければ、この後旅行が続けられない、どうしようか、と考えました。とっさに、パスポートにも判が押されている香港で150ドルほど使い、タイに来てホテル代や食事、などで150ドルほど使いました,とうそをつきました。税官吏はしばらく考えた後、ちょっと疑がわしそうな顔をしながらも、OKと言ってくれました。「ああ、助かった」と思わず心の中で叫びました。こういう情報をもっと日本でも教えてほしいものだ、とつくづく思ったものです。今思えばうそのような本当の話です。

6.タイは近代化したか

バンコクの繁華なところは他のアジアの諸都市と同様、短期間に大きく変化し、私が最初に訪問したときの面影もいまはほとんどなくなりました。しかし、この45年ほどの間にタイを何度も訪れましたが、アジアの多くの都市と同様に、訪れるたびに古い建物が壊され、近代的なビルやホテルが建ち、高速道路やモノレールができ、バイクの後ろに女性を乗せて自慢げに走る若者が増え、金持ちの車や古びたタクシーも高級車に代わって、新旧の自動車があふれるように街を走り始め、ショッピング・センターには買い物客が、レストランには家族連れが増えていきました。夜の繁華街はネオンで輝き、観光客相手の商店やレストランなどが急増し、人々の服装は見る見るうちに華やかになり、世界中で知られる「微笑の国」の女性たちの笑顔が観光客の気持ちを和ませるようになりました。表面を見る限り、タイは発展し、急速に近代化したように見えます。農村でも、農民の収入が増えて、村々に電気が通り、テレビを見たり、炊事も電気やガスを使う農村家庭が増えました。私が45年前に農村調査に行ったときには、メタン・ガスや水車を使い、子供の弁当は枝豆、といった風景が多かったように思います。

特に、タクシン元首相は農村に光を当て、都市と農村の格差を無くそうと努力し、かなり成功したため、タクシンの人気は不動のものとなりました。しかし、残念ながら彼は親族とともに不正を摘発されて挫折し、亡命を余儀なくされました。その結果、タクシン元首相を巡る一連の騒動が発生し、長い政治的混乱の末、妹のインラック氏が首相になったのですが、それで政治が落ち着くと考える人はそれほど多くは無いのではないでしょうか。

ここ50年近くタイを見てきた筆者の感想では、タイは本当に近代化したのか、タイの国民が表面的な変化で本当に変わったのだろうか、豊かで幸せになったのであろうか、民主主義は機能しているのであろうか、などの思いが強く働きます。確かに、クーデタが耐えませんが、王政があるため体制が突然ひっくり返ることもないため、タイの政治は比較的安定しており、国民の教育程度も高い。このため、多国籍企業がタイには進出しやすく、資本と技術さえ持って行けば、そこそこ工業化が可能とあって、多くの国の企業が直接投資し、その結果、経済も発展してきました。しかし、政治や社会の民主化は外国の力を借りるわけには行きません。それは自力で実現する他はないため、タイが民主化するにはまだまだ時間がかかるのかもしれません。一刻も早く政治や社会が安定し、静かで豊かな社会の中で国民が幸せな生活を営める日が来ることを祈るばかりです。

Ⅶ 編集後記(印刷用pdf)

今年の冬はことのほか寒く、ちょっと身に応えましたね。しかし、ようやく春の気配がはっきりと感じられ、このニュースレター第15号を公開するころには、かなり春めいた陽気になっていることと思います。国の内外を見ても、どうやら今年も激動の年になりそうですね。そのことをどれだけ皆さんに伝えられるかが、われわれの重要な課題ではないかと考えています。さて、今回のニュースレターは巻頭言に「中国のインフレ問題」を童適平教授に書いてもらいました。中国のインフレ問題はかなり深刻であり、中国経済のソフトランディングをスムーズに行うためにも文化の安定は不可欠でしょう。

2番目は吉川紀夫先生に「この国に残されている苦汁の経済的決断」という大変奥の深い、味わい深い文章を書いていただきました。日銀に在職中の経験などを踏まえて、日本経済への洞察ある論考となっています。多くの読者の間で議論が巻き起こることを願ってやみません。3番目は中国での議論を基に、「日本に「三農」概念を導入すべき」だという陳波助教の文章です。これもなかなか洞察力のある優れた見方であり、耳を傾けるに値する指摘です。陳波助教の文章はe-Journalに何度も書いていただいており、現場調査を踏まえた新鮮な内容にいつも啓発されるものがあります。

4番目は「タイの大洪水」について、井口日本サン石油株式会社社長(当研究所副代表)がご自分のタイ工場での昨年の経験をもとに考察したもので、大変興味ある内容となっています。タイの事情を詳しく知る井口社長ならではの、洞察に満ちた考察を味わっていただきたいと思います。5番目は当研究所代表による「ニュースの裏を読む(15):ミャンマー問題を考える」です。最近話題になっています、ミャンマーの動向を筆者なりに考察したもので、新聞報道などではわからない、背景要因や歴史的動向を踏まえて解説したものです。

6番目は同じく当研究所代表が若き頃、初めて訪問したタイでの経験,印象などを思い出しながら書き綴ったもので、当時のタイと最近のタイとの相違などを考えていただく機会になれば、と思います。(NK


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