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アジア近代化研究所
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IAMニュースレター第13号、2011年11月15日、 目次
無断転載禁止。著作権は各著者にあります。
  1. 巻頭言:中国の海外旅行ブームに想う(小島末夫)
  2. 中国低金利政策のディレンマ(童適平)
  3. 兵団による新疆開拓の歴史と現実(辻 忠博)
  4. 台湾旅行記 その1(藤澤すみ子))
  5. ニュースの裏を読む(13)(長谷川啓之)
  6. 編集後記

       

Ⅰ 巻頭言:中国の海外旅行ブームに想う(印刷用pdf)

小島末夫

アジア近代化研究所研究員、国士舘大学教授

 この夏、19世紀(1861年)に統一されてから建国150周年を向かえたイタリアに旅する機会があった。同国への初めてとなる観光旅行で、しかも団体ツアー参加のため、大変な強行日程の下で少々バテ気味ではあったが、とても有意義な素晴らしい一週間(南北縦断の合計約1,800kmを走破)を過ごす事ができた。それは2つの楽しみ、すなわち①世界遺産めぐり、②芸術薫る街での美術館賞を堪能させてくれるのに十分であった。そうした過密スケジュールの中で特に目立ったのが、行く先々の有名な観光地で遭遇する中国人観光客の姿である。以下では、今回の短いイタリア旅行を通して垣間見た、最近の中国人による海外旅行ブームの実態について若干述べてみたい。 
 まずイタリアを含む欧州情勢から簡単に見ていくと、周知のとおり、昨今では財政危機と信用不安の広がりによって、ユーロ経済圏の更なる景気減速が一段と懸念されているところである。なかでも債務危機やデフォルトに陥るリスクの高い国として指摘され注目を集めているのが、ギリシヤ、ポルトガル、スペインと並ぶイタリアである。このため、イタリアでも他の諸国と同様、財政再建に向けた緊縮政策(例えば、地方への交付金の大幅減、宿泊税の新設など)が採られ始めているものの、英国での暴動発生に見られる如く、国民に痛みを伴う厳格な歳出削減措置をなかなか徹底させにくい現状にある。

 上述したような状況の中で、成田空港を飛び立ってから12時間余りの飛行後、イタリアの首都ローマに到着したのであった。さぞかし暗いムードが漂っているかと思いきや、全く的が外れ、そこはラテン系の南欧国家とて明るい陽気なイタリア人たちが迎え入れてくれたのである。
 イタリアと言えば、南北に長く地中海に延びた長靴形をした20州から成る共和国であり、人口は約6,000万人、面積は約30万㎢と日本よりも小さく中国の実に32分の一にすぎない。この歴史と芸術に彩られた国は、年間約4,500万人が訪れる世界で5番目の観光大国であり、世界最多の世界遺産を擁する世界3位の観光インフラ、世界5位の文化遺産を有する国家(2009年現在)として、文字通り世界中から大勢の観光客を呼び寄せている。事実、ベネチアやナポリなどの主要港には、万トン級の大型クルーズ船が埠頭に何隻か停泊しており、下船した外国人のバカンス客でどこの観光スポットもかなり賑わっているのが印象的であった。 上記のうち世界遺産に関しては、2011年央時点でユネスコから認定されたその数では、イタリアが世界最多の47件を抱えている。その内訳は、文化遺産が44件、自然遺産が3件である。今回見学したポンペイの遺跡を始め、コロッセオなどのローマ歴史地区、カンポ広場で有名なシエナ歴史地区、ウフィツィ美術館のあるフィレンツエ歴史地区、サン・マルコ寺院などのベネチア、等々が含まれている。次いで世界2位はスペインの43件、それに続くのが中国で41件、そのうち文化遺産が28件、自然遺産が9件、複合遺産が4件となっている。ちなみに、日本は世界14位の16件。このように、中国はイタリアと比べ面積的に数十倍も広大であるにもかかわらず、世界遺産の数ではイタリアよりも下回っていることが分かる。それだけ小国のイタリアに歴史的遺跡や建造物など珠玉の世界遺産が数多く存することを物語っている。海外からたくさんの観光客を集めている理由がそこにある。
 ところで、中国国家旅遊局の集計によると、観光など私的な目的で海外に出た中国人は2010年に延べ5,150万人(前年比22%増)を記録し、2005年段階の延べ2,514万人と比べ過去5年間で倍増した。これは、中国からの出国者数が近年急速に伸びたことを示している。今のところ中国人旅行者の渡航先として人気がある国・地域は、香港やマカオの特別行政区を除くと、日本やASEANなどの東南アジア諸国以外に、米国、ロシアなどが列挙されている。とりわけ台湾が2008年に自由化(解禁)されて以降、一番行きたい旅行先として急浮上しているのが大きな特徴である。
 従って、中国より遠隔地にある欧州への観光旅行となると、全体的にはまだまだ少ないのが現実である。とはいえ、今やカネ余り大国となった中国のこととて、徐々にその数を着実に伸ばしているようだ。実際、中国公民による欧州への団体旅行が正式に認められるようになった200491日以来、中国人の観光客数は顕著な増大を見せている。国別ではイタリアが欧州の中ではトップの一番人気で、ドイツ、英国、フランスの順に続いている。そのような中で、現地の受入国サイドでも中国人の来訪に寄せる期待は大きく、日本で各地方自治体が中心となりあの手この手で中国人観光客の誘致に余念がないのと同様、集客のための様々な施策を講じそれに注力しているという。
 中国はイタリアとの間で197011月に国交正常化を果たしており、今日では既に述べたように同国が中国人にとって観光渡航先としてヨーロッパNo.1にランクされている。2009年の実績では、中国人の訪日数が延べ155万人(前年比0.3%減)に達したのに対し、イタリアを訪問した中国人は延べ22万人(同18%増)に上った。イタリアが好まれる要因としては、気候が温暖で海と山を備え景色がとても美しく、世界(文化)遺産も多くてロマンチック且つ文明の香りが漂うところが挙げられている。また交通の便もよく、地元に中国人ビジネスマン(華僑・華人以外に、海外進出企業の関係者など)が多いことも与っているとされる。中国人のグローバルな人的ネットワーク構築が、観光分野での往来にも推進役として如何なく発揮されているものとみられる。
 イタリアでお世話になった現地ガイドさんの話を総合すると、最近の傾向としてやはり中国人観光客がとみに増えてきたとのことである。その主な特徴について幾つか具体的に挙げてもらったところ、大きく分ければ次の2点に概ね集約されると教えてくれた。一つは、ピザやパスタといった本場イタリア料理の地であるにもかかわらず、どうしても中国料理志向が強く、中華レストランでの食事の回数を増やすようにこだわること、もう一つは。観光も程々に何と言ってもショッピングに多くの十分な時間を割いて欲しいとの要望が強く出されること、である。
1の点に関連して言及すると、イタリア都市部での走行中に突然、漢字で表記された中国料理店の看板を時々見かけたりした。日本でもかつて海外旅行ブームに沸いていた頃、長旅の疲れを癒す上からも日本料理店で必ず食事ができるよう一度ならずアレンジされていたのと似通っている。今回の旅行の最終目的地となったイタリア北部の商工業都市ミラノでは、我々も“友誼飯店”という名の中華レストラン(Ristorante Cinese)で中国料理に舌鼓を打ったが、そこは温州人の経営する店であった。同店の周囲には、中国から進出してきたと思われる民営企業の事務所や店舗などがあり、何軒か軒を連ねて建っているのを目にした。浙江省の温州市については、靴やアクセサリー、ボタンなど日用雑貨品の産地で知られ、昔から外地への転出組が多く、中国国内だけでなく“中国のユダヤ人”と呼ばれるほどに遠く海外への進出も盛んなところである。地縁で結ばれた温州人は、欧州ではイタリアのほか、隣国フランスのパリにも彼等の一大拠点を構えていると伝えられる。そうした仲間同士の交流や情報交換の場としての役割をも担っているのがレストランというわけである。
 
さらに第2の点については、一般的に中国人の買い物好きは有名だが、改革開放で豊かになった一部の富裕層のショッピング熱は桁違いに大きいと言われる。日本人観光客もかつてのバブル全盛の時代には,ブランド品の買い漁りがよく話題に取り上げられたものであるが、今日の中国人のそれは日本人の比ではないらしい。とにかく、お土産を含め購入する量が半端な数ではないのである。今回は買い物の光景を直接現場で見たわけではないが、イタリアの有名ブランドの一つ“PRADA”のミラノ本店において、何人かの中国人旅行客と思しき一群に出くわした。また聞けば仏パリのルイ・ヴィトン本店では、今や日本人に代わって中国人が主役の座についているとか。まさに時代の移り変わりを知らしめるエピソードである。 いずれにせよ、長年来の高度成長でますます裕福になった中国人の観光熱は、これから更にヒート・アップしていくことが必定である。海外旅行者の数も右肩上がりで上昇していくことに間違いないであろう。見聞を広め、ありのままに外の世界を知ることは極めて大切である。問題はそうした中でソフト面のきめ細かいサービスが、人材を含め充実していけるかどうか、それが結局問われている。加えて、現状ではあくまで団体旅行が中心で渡航先も限定されており、個人の観光旅行はまだ自由になっているわけではない。観光業界におけるもう一段の規制緩和が期待されているところである。世界に対する影響力が格段に増した中国であるが、来年に移行する新体制の下で、今後その強大な金融力をどう有効に活用していくかしっかりと着目していくこととしたい。 
 最後に、余談ながら心温まる感動話を一つ紹介しよう。イタリア南部にある「青の洞窟」で有名な屈指のリゾート地・カプリ島を訪れた際、幸運にもブルーの波間に光る
3分間のファンタジー・ショーを心ゆくまで満喫することが出来た。その時に、我々日本人にサプライズというか、改めて感動と勇気を与えてくれたのが、海上で洞窟に入る手前の小高い丘に掲げられた、一際目に付く一枚の大きな横断幕であった。そこには日の丸の横に次のような東日本大地震に対する応援メッセージが日本語で記されていた。「頑張れ日本、頑張れ東北、心から復興を祈っています。カプリ島 青の洞窟 船頭一同より」。日本人観光客がその地を多く訪れることを想定した心憎いばかりの演出であった。本当にいつまでも心に残るワン・シーンとなった。                      
  (
2011914日記)

  

Ⅱ 中国低金利政策のディレンマ (印刷用pdf)

童 適平(経済学博士)

アジア近代化研究所・研究員、明治大学法学部教授

日本経済がデフレからなかなか脱却できないのとは対照的に、中国はインフレに苦しんでいる。2009年末からCPI(消費者物価指数)が上昇し、特に食品価格の上昇が顕著であった。そこで、中国政府の政策は引締めに転じた。にもかかわらず、2010年の後半からCPIの上昇は加速した。中国政府の国家統計局による公布によれば、直近の8月は、7月の6.4%より低下したものの、依然として6.2%に高止まり、食品価格の前年比も13.4%に達した。CPI、特に食品価格の上昇はエンゲル係数の高い低所得者層の生活に脅かし、社会不安を引起す一つの火種になりかねない。金融の角度から引締め政策を見る場合、まず思いつくのは金利の引き上げである。しかし、中国政府は金利より預金準備率の引き上げを実行した。20101月に預金準備率を引上げた。20118月現在までに、計12回の引上げを実施した。金利の引上げは201010月に踏み切り、合計5回行った。
 中国の金融市場が未発達で、金利が必ずしも投資者の投資行動を正確に誘導することができないと言われるが、他にも中国政府が金利政策をあまり好まない原因がある。
CPIの前年比は6.2%であるが、1年ものの定期預金金利はわずか3.5%に止まり、実質金利(名目金利-物価上昇率)はマイナスであることは明らかである。実質金利がマイナスであれば、預金を引き出してこのお金を消費や投資に振り向けることは預金者の合理的な行動である。この行動は過熱した経済に拍車をかけ、更に物価の上昇を助長することは容易に理解できる。
 この実質金利マイナスの状態は200311月~20053月と200612月~200810月に経験している。そして今回は20102月から始まっている。預金金利を低く抑える目的は貸出金利を低く抑えるためである。このことを低金利政策とも呼べる。低金利政策の目的は企業の融資費用を低く抑えるためである。つまり、企業の融資費用を低く抑えて、企業の競争力を高めることが目的である。中国では、銀行の貸出金利と預金金利はまだ自由化されていない。商業銀行が持っている権限は、中央銀行である中国人民銀行によって決定された貸出金利と預金金利を基準に一定程度の変動幅を決定することだけである。幾度の改革を経て、現在では、商業銀行は中国人民銀行が決定し、公布した預金金利を上限に、貸出金利を下限に、預金金利と貸出金利を実行することができるようになった。
 預金金利を低く抑える目的は企業の競争力を高めるだけでなく、銀行の利益を確保し、銀行経営の安定を維持するためでもある。
1999年以降、貸出金利と預金金利との間に常に3%以上の利ざやが確保されている。この3%の利ざやは、業務内容がほとんど預金と貸出だけである中国の商業銀行にとって極めて重要である。この3%の利ざやのお陰で、中国の商業銀行の経営パフォーマンスは改善され、世界商業銀行ランキングの上位に名を連ねることができるようになった。
 金利政策の役割はこれだけに止まらない。商業銀行の経営パフォーマンスが良好であれば、政府の金融政策に協力する余裕も生じてくる。元相場の安定を維持するために、中国人民銀行は外貨買い介入を実施すると同時に、手形を発行して、不胎化操作を実行し、マネーサプライを調整することができる。発行した手形の大半は商業銀行によって消化されることが可能となった。つまり、低金利政策に歩調を合わせるために、中央銀行手形の発行利回り(価格)を低く抑え、低金利のため、商業銀行はこの中央銀行手形を消化することができる。一種自己実現の循環ができるのである。
1970年代半ば頃、日本の都市銀行が所有する国債の市中売却制限と一年後に日銀買いオペレーションによって回収したやり方を思い出す。しかし、やがて、日本のこのやり方が破綻したと同じように、中国のこのやり方も大きな試練に直面している。元相場の安定を維持しながら、不胎化操作を実施して、マネーサプライを調整することができるのには条件がある。つまり、外貨買い介入を実施する際の通貨発行量と不胎化操作を実施する時に発行した手形の量との間には均衡関係が必要である。金融政策目標は“拡大”で、国際収支も黒字であれば、外貨買い介入による通貨発行量は成長マネーとして増発される。外貨買い介入による通貨発行量が成長マネーを上回れば、手形を発行し、回収して、金融政策目標を実現していく。アメリカ発世界金融危機に対処するため、金融政策目標は“引締め”から“拡大”へと一転したため、この政策手段は有効に働き、“元相場安定”と“拡大”政策目標は同時に実現することができた。
しかし、現在中国は物価上昇と投資過熱に悩まされ、金融政策目標も“引締め”に転じることとなった。一方、国際収支は依然として大幅な黒字が続いている。引き締めの政策スタンスを維持するためには、外貨買い介入を止めるべきであるが、それには元相場安定目標を放棄しなければならない。元相場安定目標を放棄したくなければ、外貨買い介入を引き続き実施することになるが、これは金融政策目標に逆行するので、外貨買い介入により発行した通貨の量を超える手形を発行しなければならない。2010年中国経常収支黒字は3,054億米ドルで、資本と金融収支黒字は2,260億元であるから、両者を足すと5,314億米ドルに達する。単純に考えて、5,000億米ドル以上の手形発行は可能であろうか。商業銀行は果たしてこの量の手形を消化できるであろうか。ちなみに、2009年、M1M0の発行量はそれぞれ55,228.68億元と4,028.01億元、2010年はそれぞれ45,175.73億元と6,381.2億元である。


         Ⅲ 兵団による新疆開拓の歴史と現実
(印刷用pdf)

辻忠博

アジア近代化研究所研究員・監事

日本大学経済学部教授

はじめに

 中国西部から中央アジアに広がる内陸部は紀元前から中世にかけての長い間、東洋と西洋の交易路として、または、東西両文明の交流の経路として栄えてきた。そこには点在するオアシス都市や大陸に広がるステップ地帯に農耕民や遊牧民が展開し、伝統的な経済活動が行われてきた。1949年における中華人民共和国の成立は、テュルク族の土地という意味のトルキスタンの東部、すなわち、中国西部辺境の地域経済に新たな一側面を付け加えることになった。その主な担い手の1つが新疆生産建設兵団である。現在、中国の新疆ウイグル自治区石河子市には愛国教育の拠点として兵団開拓の歴史を紹介する博物館がある。本稿では、この博物館の展示物を紹介しながら兵団による開拓の道のりと意義について紹介したい。

1.兵団とは

 兵団とは正式には新疆生産建設兵団といい、もともとは新疆軍区生産建設兵団と呼ばれていた。兵団の運営は基本的には中国中央政府および新疆ウイグル自治区政府の法令に基づいて行われるが、自らの組織によって開拓された地域に対して一定の範囲内で独自の行政及び司法権を行使することができる。経済計画については直接国家の監督下に置かれている。つまり、兵団は国家と自治区政府に従う組織であるものの、一定の自治権も保持する特殊な組織である。 
 兵団の目的は新疆における生産と防衛の両方を担うことである。同地域はまさに中国の支配が及ぶ西の限界、すなわち、辺境地域である。中国の歴代王朝は勢力圏を維持拡大するために常に辺境防衛のために兵力を展開・常駐させてきた。このことは近代の中国においても同様であり、清朝政府は
1884年に新疆省を設置し、1911年の辛亥革命によって成立した中華民国政府もこれを引き継ぎ、新疆防衛をさらに強化した。1949年の中華人民共和国成立によって解放された新疆地域には当初、人民解放軍が辺境防衛の任務にあたった。しかし、しばらくして新疆に駐留する人民解放軍は組織再編され(この点については後述する)、同地域の防衛と経済発展の両方を同時に担う組織として兵団設置が決定されたのであった。
 兵団について言及する際によく引き合いに出されるのが明治期の北海道の警備と開拓にあたった屯田兵制度である。日本の辺境であった北海道と樺太の防衛とその任務にあたる兵士の生活を支えるために辺境開拓を行ったという点については、屯田兵は兵団とよく似ているといえよう。しかし、次の点で両者は相当性格を異にしているといえる。第
1に、兵団はまず軍隊として駐屯し、それが組織再編によって生産も目的として組み込まれ、入植者の募集も行われたのに対して、屯田兵は最初から入植者を募集したという点が大きく異なる。第2に、屯田兵は貧窮士族の失業対策の意味もあった。第3に、兵団は「南泥湾精神」、すなわち自力更生の精神に則って自給自足するという建前があったが、屯田兵は募集にあたって先に住居が準備されていた。最後に、兵団はもともと人民解放軍であったが、屯田兵は当初、開拓使(明治期の官庁の1つ)の管理下にあり、軍隊として発足したわけではなかった2008年において、兵団は14師団で構成され、179の農牧場を切り開き、6136に上る工業、建設、運輸などに関する事業所を開設している。また、初等・中等学校や職業学校も設け、新聞やテレビ局などのメディア企業も有している。今や伝統的に生産されてきた農産物は加工され輸出されたり、かつての砂漠地域に緑あふれる近代的な都市が建設されたりしている(下の左側の写真参照)

      

 左の写真はオアシスで伝統的に生産されてきたブドウを原料に、フランス人の指導下に生産を開始したワイン、右はトマトや桃はピューレやジュースに、綿花は綿糸に加工されて輸出されるようになった。羊毛は貴重な輸出品であり、これらのほかに石油も産出される。
 

  同年中に、人民解放軍は北新疆および南新疆にそれぞれ進軍し、新疆のほぼ全域に展開した。進軍にあたって各地で小競り合いはあったが、全体的には順調に解放は進んでいったとされている。その後、前線地域を開拓し、防衛することが必要であるとの毛沢東の指示を受けて、新疆の開拓は同地に駐留していた野戦軍各師団などを結集して設立された兵団に取って代わることになった。 

        
 上の写真の左は以前は砂漠の石河子市で、兵団による開拓の結果、緑の多い近代的な都市に生まれ変わり、現在は石河子大学も設立されている。右は1949年から50年の間の人民解放軍の進軍経路。砂漠地帯を除く新疆のほぼ全域を解放軍が素早く展開した様子がわかる。          

 以下では、元は軍隊であった組織がいかなる経緯で兵団という特殊な任務を併せ持つ組織に転換し、新疆開拓を担っていったのか、詳述していきたい。

2.新疆解放の経緯

1949101日、毛沢東が北京の天安門で建国宣言を読み上げ、中華人共和国が成立したころ、人民解放軍第1野戦軍は中国北西部へ進軍し、内陸部の解放のため戦闘を繰り広げていた。人民解放軍は相次いで内陸都市を解放し、新疆省(当時)で最後まで抵抗していた国民党司令部と迪化(現ウルムチ)で交渉した結果、全面降伏を勝ち取り、平和裏に新疆を解放した。19491217日のことであった。同年中に、人民解放軍は北疆および南疆にそれぞれ進軍し、新疆のほぼ全域に展開した(上の写真の右側を参照のこと)。進軍にあたって各地で小競り合いはあったが、全体的には順調に解放は進んでいったとされている。その後、前線地域を開拓し、防衛することが必要であるとの毛沢東の指示を受けて、新疆の開拓は同地に駐留していた野戦軍各師団などを結集して設立された兵団に取って代わることになった。

3.兵団による新疆開拓史

 兵団側の視点からすると、新疆経済は兵団による開拓によって農牧業のみに依存する伝統的な経済から脱却し、多部門によって経済が支えられる近代的な経済構造に転換されたということになろう。 
 解放前の新疆経済は中国の他の地域と比較して相当遅れており、物資も不足していた。 解放後しばらくは、新疆の開拓は軍人に委ねられていたが、当時駐留していた人民解放軍は食糧を確保するため毎月、北京へ飛行機を飛ばして食料を購入しなければならなかった。
そこで、19501月に開催された在新疆財経委員会は同地の生産と建設を進めることを発表し、農林業、工業、交通運輸業を発展させるため3カ年計画(1950年から52年)をまとめた。それによって、人民解放軍は、①辺境防衛のため、②新疆発展のため、③現地政府と地元民に対する経済負担の軽減のため、自給できるようになることに専念することになった。新疆開拓にあたった軍人は大変厳しい自然条件の中での労働を強いられた。同地は大陸内部に位置するため寒暖の差が激しく、乾燥した気候である。冬季は厳寒の地であり、1月の平均気温はマイナス15℃、過去の最低気温としてウルムチではマイナス41.5℃が記録されている。一方、夏季は灼熱地獄とでもいうべき気候で、7月の平均気温は40℃(トルファン地区)で、過去の最高気温は49.6℃である。世界有数のタクラマカン砂漠がある乾燥地域であり、年間平均降水量はわずか150mmである。こうした過酷な気候条件の下で「南泥湾精神」に則って当時の軍人は労働に従事したのであった。その結果、この3年間で人民解放軍は物資の制約や気候の厳しさにもかかわらず奮闘し、2億元を超える富を生み出したといわれている。19535月には、中央軍事委員会の命令によって、新疆に駐留する野戦軍各師団が結集され、国防軍と生産軍とに分割再編されることになった。そして、1954107日に新疆軍区生産建設兵団が成立したのであった。
 兵団の成立後、まず取り組むべきことは、これまでの軍人による自給のための生産から企業として成り立つための生産に転換させることであった。すなわち生産様式の転換である。そこで、農林業、工業、運輸業の発展のための3カ年計画(1955年から57年)が策定され、兵団は国営農場の建設などに本格的に着手した。結果としてこの3年間で44の農場が新たに切り開かれた。1958年から60年までは大躍進期である。この期間における新疆開拓はさらに加速化され、特に南疆のタリム川流域および北疆のマナス川流域の開発に重点が置かれた。その結果、107の農場が新たに誕生した。この時期の開拓は人海戦術によるものが主であった.
さらに、同期間中には工業発展も推進され、
1960年の工業総生産額は57年比で2.5倍増を記録した。1960年代に入ると機械化が推し進められ、老若男女を問わず献身的に労働に従事した(以下の写真を参照)。新疆開拓のために、同地には中国各地から大量の青壮年が導入された。なかでも山東、河南、四川、広東、江蘇の各省からの移住が多かった。ただし、人々の暮らしは厳しいもので決して快適な暮らしではなかった(以下の写真を参照)。とはいうものの、兵団開拓史上この3年間の発展のスピードは最高と言われるほど顕著なものであったとされている(新疆生网站『史沿革』による)。

      
 左上と右上の写真は農地を耕す犂。通常はこれを水牛に引かせるが、新疆では人が引く。
        
  上の写真は収穫した穀物を人海戦術で脱穀する様子と、動力源として貴重な畜力
        
  上の写真の左側は献身的に働く女性、右は導入された紡績機械。生産性の向上に寄与した。
            
  上の写真は衣類などをつくるために自ら糸をつむぐ機械、右は当時の人々の住居で、地 面を掘っただけの粗末なもの。天井には藁を乗せる。冬暖かく、夏涼しく過ごすための工夫である。、
     
   左上の写真は当時の人々の上着。 老若男女を問わず、懸命に働く人たち。
             当時の人々が着用したズボン  窓はなく、土でできたベッドで、その上に藁を敷くだけだった。
                   左の写真は、当時の子供たちの泥の机、これを使って子供たちは勉強した。
 
1960年代半ば以降の10年間の文化大革命期、兵団は存亡の危機に立たされた。これまでの兵団による開拓は着実な進展を遂げてきたが、文革期に入るとその働きは一変した。生産活動は混乱し、生産額は絶えず縮小した。その結果、兵団経済は崩壊寸前にまで陥ることになった。特に1975年から77年の3年間は兵団開拓史上、最大の損害を被った期間と記録されている(新疆生产建设兵团网站『历史沿革』による)。そこで、1975年3月25日、中央軍事委員会は兵団の解体を決定し、当時兵団に所属していたすべての企業体は地方政府に移管することになった。
 その受け皿として、同年524日には、新疆ウイグル自治区政府内に農墾総局(农垦总局)が設けられ、自治区内の各地にも農墾局が相次いで設置された。 しかしながら、成果は上がらず、新疆経済は復活のきっかけをつかむことができなかった。  そうした状況の中、1970年代末になると中国で改革開放政策が始まった。この新しい動きは新疆経済の運営にとっても無関係ではなかった。すなわち、19782月、国務院は新疆経済の管理方法の変更を決定することになったのである。そして、198112月に、中央政府は兵団復活に関する決定を出し、農業開拓総局と各地の農業開拓局が兵団本部および各師団として再編されることになった。こうして、兵団は新疆生産建設兵団として新疆経済の開拓・開発を担うための組織として表舞台に再び現れることになったのである。

4.新疆経済における兵団の位置づけ

 新疆地域が中国の他の地域と比較して相当遅れていたことは前述のとおりである。同地域では遊牧民による放牧とオアシスでの農業がおこなわれ、自給自足を中心とした伝統的な暮らしが営まれてきた。表1に示されているように、解放後間もない1952年の新疆の1人当たりGDP(地域総生産)は166元でしかなかった。また、当時の新疆経済の産業構造は第1次産業が6割以上を占め、農牧業中心の伝統的社会が維持されていたことがうかがえる。もっとも、同年の中国全国の1人当たりGDPですら119元でしかなかった。
 新疆地域が中国の他の地域と比較して相当遅れていたことは前述のとおりである。同地域では遊牧民による放牧とオアシスでの農業がおこなわれ、自給自足を中心とした伝統的な暮らしが営まれてきた。表1に示されているように、解放後間もない1952年の新疆の1人当たりGDP(地域総生産)は166元でしかなかった。また、当時の新疆経済の産業構造は第1次産業が6割以上を占め、農牧業中心の伝統的社会が維持されていたことがうかがえる。もっとも、同年の中国全国の1人当たりGDPですら119元でしかなかった。 
 新疆地域が中国の他の地域と比較して相当遅れていたことは前述のとおりである。同地域では遊牧民による放牧とオアシスでの農業がおこなわれ、自給自足を中心とした伝統的な暮らしが営まれてきた。表1に示されているように、解放後間もない1952年の新疆の1人当たりGDP(地域総生産)は166元でしかなかった。また、当時の新疆経済の産業構造は第1次産業が6割以上を占め、農牧業中心の伝統的社会が維持されていたことがうかがえる。もっとも、同年の中国全国の1人当たりGDPですら119元でしかなかった。

1 新疆経済の概要

 1954年の兵団成立後、伝統社会から脱却し、工業、サービス業も含めた多様で近代的な経済の実現を目指すための開発が本格的に始まった。それに必要な人材は既述のように中国各地からの青壮年の移住でまかない、1954年から65年の約10年間で兵団人口は年平均20%という驚異的な速さで増加した。その結果、同期間で兵団が生み出すGDPは年平均15%で拡大し、1965年には兵団GDPは新疆全体の4分の1に迫った。また、兵団労働者の平均賃金は608元に達し(表2を参照のこと)、これは自治区の1人当たりGDP312元を大きく上回るものであった。この期間に兵団は農業分野では食料生産に重点を置き、工業分野では石炭の産出に主力を置き、そのほか、布やセメントの生産にも従事した。

表2
 兵団経済の概要

 
 その後の
10年間は中国経済にとって大きな混乱をもたらした文革期である。これは新疆ウイグル自治区および兵団の運営に大きな悪影響を及ぼし、兵団は1970年代半ばに廃止が決定されるのであった。こうした混乱は経済指標にも如実に表れている。まず、新疆経済についてみると、1965年から78年の間、1人当たりGDPはほとんど成長しなかった。一方、兵団ではこの間、労働者の平均賃金が毎年マイナス0.2%ずつ低下し続けたのであった。
しかし、1970年代末に改革開放政策が開始され、さらに、1981年に兵団が復活すると、新疆経済および兵団経済は安定的な発展を回復することになった。兵団は農業分野ではこれまで力を入れてきた食料生産に加えて、甜菜の栽培も始め、1985年以降の主要農産物は食料と甜菜となっている。そのほか、綿花、果物、肉類も多く生産された。工業分野では、石炭、セメント、布は以前から生産されてきたが、兵団は新たに製糖、発電に携わるようになった。特に2000年以降、セメントおよび発電の生産量が顕著に拡大してきている。その結果として、1980年以降、自治区の1人当たりGDPや兵団労働者の平均賃金はほぼ二けたの伸びを継続しており、2009年には自治区の1人当たりGDP2万元に迫り、兵団の労働者平均賃金は2万元を超えた。


 このように、兵団による開拓は産業の多様化と労働者の所得上昇を実現させたといえるであろう。一方で、兵団による開拓が新疆の経済成長にどれだけ貢献したかについて考えると、必ずしもその寄与度は高いとは言えない。図1によると、新疆経済が大幅にプラス成長しているにもかかわらず、兵団経済は大幅なマイナス成長を記録している1975年を除いて(1953年には兵団はまだ成立していない)、全体的には新疆経済が上向くと兵団経済も上向き、その逆もまた同様であることがうかがえる。しかし、兵団が新疆の経済発展を先導してきたとは必ずしもこの図からは読み取れない。むしろ、新疆経済における高水準の経済成長はその他の地域あるいは産業部門によって牽引されてきたという方がもっともらしい説明であろう。それもそのはず、表1および表2に示されているように、新疆経済全体では改革開放以降、急速に第1次産業の比重が低下し、第2次産業および第3次産業の比重が拡大している一方で、兵団ではむしろ2001年までは各産業の比重が3割ずつであった。すなわち、一次産品生産部門が2008年までは比較的大きな比重を占めていたのである。そのことは、兵団内での所得格差を引き起こし、2009年の兵団農場の農民所得は都市住民の59%にとどまっていることに現れている。したがって、兵団経済は新疆の経済成長に一定の貢献をしていることは確かであるが、その貢献度は必ずしも抜きん出たものとは言えないのである。

おわりに

 中華人民共和国の成立後、新たな辺境防衛組織として生産も同時に担う兵団が設立された。南泥湾精神の下で元軍人と入植者が過酷な労働をものともせず開拓に臨み、多くの農場が開設され、耕作面積は拡大した。しかし、文革期には組織は壊滅状態に陥り、いったん解体されることになった。改革開放政策が始まると兵団は復活し、農業に加えて、工業分野にも積極的に展開した。こうした兵団の働きは新疆経済に一定の影響を及ぼし、現在も無視できない存在である。しかし、新疆の経済成長に対する寄与はあまり高くなく、兵団は必ずしも新疆経済を先導してきたとは言えない。兵団は2020年には新疆GDPに対する寄与度を20%まで高めたいという目標を掲げている。その実現のためにはさらに高付加価値を生み出す産業を創設することが必要であろう。兵団の挑戦はまだ続くのである。



Ⅳ 台湾旅行記 その1 (印刷用pdf)

藤沢すみ子

エマウス・メディカル・ジャパン

株式会社代表取締役 文筆家

828

 台風11号が台湾の南に上陸すると同時に、我々は台湾北部にある松山国際空港に着いた。      

  空港ビルから外にでると、どんよりした曇空から落ちた雨が頬に触れた。
 台南から北上する台風に向かって、我々は南下して行かなくてはならない。今日は台中のホテルに泊まる予定だ。
 この先どうなることやら、と空を睨みながらツアーバスに乗り込む。総勢11人のツアー客の平均年齢はおそらく60歳を超えるだろう。4組は我々を含む夫婦連れ、1組は母と娘、そして女性1人。みな、口ぐちに不安を漏らしながら席に着いた。
 ガイドは、眉毛に特徴のある、目鼻立ちのはっきりした小柄な男性で「ハンソン」と名乗った。范村山と書いて「ハンソンサン」と読むとのこと。先祖はオランダ人で、ハンソンという名前がそのまま残ったのだという。オランダ人云々は、彼の顔から想像がつくが、名前に関してはどうだろう。「はん・そんさん」という名前なら理解できる。だが「はんそん・さん」という台湾名は有り得るのだろうか。さすがの私も、出会ったばかりの彼に訊けなかった。
 
自己紹介が終わると、ガイドは、台湾は中華民国ではない、と語りはじめた。中華民国は台湾に寄生している政府であって……と自身の歴史・政治観を語り続ける。台湾に中国語はない、あるのは台湾語と北京語だけ、台湾人はみんな中国が嫌いだ、台湾は日本であった時代に国としての基本が整った、台湾人は日本の国でありたかった、日本が台湾を放棄しなければよかった、etc.
 アジアを旅するたびに思うのだが、どうしてガイドはみな自国に対する歴史・政治観を語りたがるのだろう。そして必ず、日本に対しての感想を述べる。反日か、そうでないか。中間は有り得ない。ガイドのみならず、アジア人はみな、日本に対してなにかしらの想念があるということなのだろうか。それとも、ガイドという職業を持つと、日本人に対して特別な感想を持つようになるということなのか

 時折吹く強い風がバスを揺さぶる。その都度、ガイドは、台風が近づいていますからね、と繰り返し、シートベルトを確認させ、再び台湾独立主義、中国否定、日本肯定論を繰り返す。
 「ホテルに直行するには時間がありすぎますから、途中で、黒檀の彫刻を売っている店でお買い物しましょう」
 ガイドは、この店は特別な店なのだから、是非、何か買ってほしいと言う。
 「店の社長さんは、すごく偉い人で、台湾の原住民族が作った品物を売って、その一部を原住民族のために使っています。だから、皆様がその店で何かを買うと、台湾のためになるよ」
       
  店に到着するまでの小一時間、ガイドは黒檀の説明を続けた。小雨が降ったり止んだりという空模様の中、バスは、古ぼけた看板のかかった店に到着した。思いのほか、小さな店だ。バスが一台、やっと止まれる駐車スペースしかない。
 バスを降りると、まず、店の入り口前で、黒檀の切れ端を持ったガイドから、黒檀強制指導を受けた。
 入口では、店員がバナナを持って我々を出迎え、バナナを一本ずつ我々に渡す。なぜバナナなのか、よく分からないが。
 入口付近には、黒檀色の大小様々な彫刻が陳列してあるのだが、とても庶民に手の出る値段ではない。百万円単位のものが多い。奥に進むにつれ、買いやすい値段になっていき、一番奥には、箸やらしゃもじやら、家庭で使えそうな小道具や、小物類があった。箸が5膳で1,800元。日本円で5,000円だ。しゃもじがついて2,500元。買えない値段ではないが、黒檀色の(本物の黒檀かどうか定かではない)しゃもじには興味がない。
 ツアーの中で、二組のご夫婦が箸としゃもじのセットを購入するのを見て、申し訳なくもほっとして外に出る。犠牲者は二組で充分だ。
 店の外には、立ったままタバコをくゆらせている初老の女性がいた。彼女のことは空港に着いたときから気にかかっていた。スーツケースやボストンバッグなどは持たず、スーパーで使うエコバッグのみという軽装でツアーに参加していたのだ。 私と目が合うと、彼女は口元を緩めた。
 「百円ショップで買えそうなものばかりね」
 私が感じていることをあっさりと語ってくれる。華奢で細身の彼女が頼もしく思えた。白髪混じりの髪を無造作に結び、化粧っけもない。履きなれたジーンズにスポーツシューズといういで立ちからは、いかにも旅慣れていますというオーラが醸し出されている。
 ツアーの面白さは、その時限りのメンバーで一期一会の家族ごっこができるところだ。普段の生活では有り得ない様々な人間模様の中に、新たな発見がある。
 「この店、他のツアーでも来たことあるわ」「何度も台湾に来ているんですか?」「独り者だから、誰に気兼ねすることもなし、しょっちゅう、いろんなツアーに参加してるの」
 タバコをくゆらせながら、くったくなく答える。彼女は自ら、椎名と名乗った。ますます 興味をそそられる。台風にたたられながらも、旅が面白くなりそうだ。
 黒檀店で買い物をした二組の夫婦が、バスに最後に乗り込む。他のメンバーはみなにこやかに彼らを迎えた。雨が強まる中、バスは出発。
 バスが走り出すやいなや、ガイドはマイクを持ち、不機嫌そうに低い声で語った。「こちらで買い物をした方は、佐藤さん、鈴木さんの2名。たった2名。これじゃ、僕たちガイドの立場がないのよ、次はぜひ、お願いしますよ、みなさん」
 根がお人好しに出来ているから、そう言われると、胸がちくりと痛む。
 「お土産は安物を買っちゃダメ。安い携帯ストラップやキーホルダーを何個も買って、人にばらまいたって、だれも喜ばないよ。どこかに置いておしまい。どうせ買うなら、1個でいいから、何万円のものを買って差し上げた方がいいね」
 どうしても、ツアー中に連れて行かれるいずれかの土産物屋で、ガイドのご機嫌取りに、不要なものを買わなければならないらしい。楽しさ半減、お土産ツアーの巻だ。
 途中立ち寄ったドライブインは、黒檀店よりよっぽど面白かった。日本統治下時代の台湾を再現している。自分の幼いころの日本を彷彿とさせるショップが並んで、飽きなかった。土産物には、日本語ネーミングのものも多い。「北海道の恋人」には驚いた。なぜ台湾に北海道のお土産が、と思わずシャッターを押す。
 入口では、店員がバナナを持って我々を出迎え、バナナを一本ずつ我々に渡す。なぜバナナなのか、よく分からないが。
 入口付近には、黒檀色の大小様々な彫刻が陳列してあるのだが、とても庶民に手の出る値段ではない。百万円単位のものが多い。奥に進むにつれ、買いやすい値段になっていき、一番奥には、箸やらしゃもじやら、家庭で使えそうな小道具や、小物類があった。箸が5膳で1,800元。日本円で5,000円だ。しゃもじがついて2,500元。買えない値段ではないが、黒檀色の(本物の黒檀かどうか定かではない)しゃもじには興味がない。
 ツアーの中で、二組のご夫婦が箸としゃもじのセットを購入するのを見て、申し訳なくもほっとして外に出る。犠牲者は二組で充分だ。
 店の外には、立ったままタバコをくゆらせている初老の女性がいた。彼女のことは空港に着いたときから気にかかっていた。スーツケースやボストンバッグなどは持たず、スーパーで使うエコバッグのみという軽装でツアーに参加していたのだ。
 私と目が合うと、彼女は口元を緩めた。
「百円ショップで買えそうなものばかりね」
私が感じていることをあっさりと語ってくれる。華奢で細身の彼女が頼もしく思えた。白髪混じりの髪を無造作に結び、化粧っけもない。履きなれたジーンズにスポーツシューズといういで立ちからは、いかにも旅慣れていますというオーラが醸し出されている。
 ツアーの面白さは、その時限りのメンバーで一期一会の家族ごっこができるところだ。普段の生活では有り得ない様々な人間模様の中に、新たな発見がある。
 「この店、他のツアーでも来たことあるわ」
「何度も台湾に来ているんですか?」
「独り者だから、誰に気兼ねすることもなし、しょっちゅう、いろんなツアーに参加してるの」
 タバコをくゆらせながら、くったくなく答える。彼女は自ら、椎名と名乗った。ますます興味をそそられる。台風にたたられながらも、旅が面白くなりそうだ。
 黒檀店で買い物をした二組の夫婦が、バスに最後に乗り込む。他のメンバーはみなにこやかに彼らを迎えた。雨が強まる中、バスは出発。
 バスが走り出すやいなや、ガイドはマイクを持ち、不機嫌そうに低い声で語った。
 「こちらで買い物をした方は、佐藤さん、鈴木さんの2名。たった2名。これじゃ、僕たちガイドの立場がないのよ、次はぜひ、お願いしますよ、みなさん」
 根がお人好しに出来ているから、そう言われると、胸がちくりと痛む。
 「お土産は安物を買っちゃダメ。安い携帯ストラップやキーホルダーを何個も買って、人にばらまいたって、だれも喜ばないよ。どこかに置いておしまい。どうせ買うなら、1個でいいから、何万円のものを買って差し上げた方がいいね」
 どうしても、ツアー中に連れて行かれるいずれかの土産物屋で、ガイドのご機嫌取りに、不要なものを買わなければならないらしい。楽しさ半減、お土産ツアーの巻だ。
 途中立ち寄ったドライブインは、黒檀店よりよっぽど面白かった。日本統治下時代の台湾を再現している。自分の幼いころの日本を彷彿とさせるショップが並んで、飽きなかった。
     

 土産物には、日本語ネーミングのものも多い。「北海道の恋人」には驚いた。なぜ台湾に北海道のお土産が、と思わずシャッターを押す。ガイドは、台湾の民衆の多くは日本びいきであると語ったが、これほどまでとは思わなかった。もし、同じドライブインを中国に建設しようとしたら、袋叩きに合うかもしれない。
 雨風が強まる中、バスは、台中のホテルに到着した。こじんまりとしたホテルで、スタッフたちも笑顔で我々を迎えてくれた。清潔でかんじのいい建物だが、周囲には何もない。入口前には工事現場が広がっているだけだ。天気も悪いし、部屋のテレビで台風情報でも眺めながらビールでも飲みましょうと、ホテル横のコンビニへ入って驚いた。
 昼食によく買って食べている蕎麦やおにぎりと同じものが、まったく同じ仕様の棚に、同じ向きに置いてある。おでんには感動さえ覚えた。ここは日本国台湾県? 夢を見ているの? と頬をつねってみたくなる。夕食は客家料理。今まで食べた、他のアジアの国々の料理より、日本人の口にあう。上海や北京の料理より、ずっと日本人の味付けに近い。台湾が50年間もの間、日本国であったという事実は、歴史の教科書より如実に庶民の味覚に残った。
 私の隣に腰かけた椎名さんは、肉をよけては、野菜やスープばかり食べていた。食べ物の好みが私と同じだとわかって、会話が弾む。
8月の初めは中国にいたのよ、私」「毎月、海外旅行するんですか?」「月に2回旅行に出ることもあるわ」
 なるほど、と納得。椎名さんの軽装は、よほど旅慣れた人のものだ。
 「ツアーでいろんな人と一緒になれて楽しいじゃないの」   

     

 1年365日のうち、半分以上は海外に出ているとのこと。旅を続けるには、体力も経済力も必要だ。しみじみと彼女を見ると、Tシャツに、膝の擦り切れた古いジーンズという軽装だが、胸にはでっかいダイヤのネックレスがかかっていた。「夫は働きづめの人生で、おまけに定年直前にさっさと逝っちゃって。専業主婦だったから、旅行ぐらいしか趣味がなくてね。子供もいないし」

  

経済さえ許せば、ツアー三昧で、一期一会の家族ごっこを演じて、一人暮らしの寂しさと有り余る時間を埋めるという方法もあるのだな、と自分の未来が椎名さんに重なって、すぐに消えた。残念ながら私には、コレステロール値がほんのちょっと高めなだけの、長生き家系の夫と、2匹の迷犬と、いつまでもお金と手のかかる子供や孫がいる。
 ホテルに戻ってテレビをつけると、どのチャンネルも台風のニュースばかり。のろのろ台風の居座った台南の被害状況を次々に映し出していた。

 壊れた家や、土砂崩れの場面が映し出されたと思うと、次には、傘を飛ばされそうになりながらも、土砂崩れの道路脇で営業を続けるテント張りの小さな露店や、わざわざ車でそこまで行って食品を買う人や、町の夜店で膝まで水につかりながらも営業を続ける人々を映す。日本では有り得ない逞しさが懐かしくもあり、羨ましくもあり、画面から目が離せなかった。黒檀屋より、台湾のことがよくわかる。

829
 翌日は、朝から雨。台風の影響が強まる中、台南から北上する台風へ向かって、我々は南下していく。

      
       

 バスは雨に打たれながら、ときおり風に煽られて大きく揺れた。ガイドは、台風を気にしながらも、バスの窓から景色が見えないのをいいことに、朝からずっと中国の悪口を続けだ。中国へ何度か行ったが、そのたびに、必ずガイドから日本批判をチクリとやられた。それにひきかえ、ここでは日本批判されないだけましだが、やはり、持論を押しつけられるのは気分のいいものではない。
 日月譚へ到着したときは、小雨ながらもなんとか観光できる状況だった。きれいな湖を前にして、ガイドは、我々を自由に散策させてはくれない。カメラを湖に受けただけで、
「中国人の真似しないで、私の話を先に聞いて。写真はいつでも撮れるよ」と言って旅行者の自由を奪う。湖の前に佇む文武廟に入ったとき、ガイドの説明を聞いているふりをして、さっと撮ったのが右上の写真。
 本物の兵馬俑に見えるけれど、生きた人間がパフォーマンスしている。表情ひとつ動かさない逆パフォーマンス。足元もぶれないし、手も少しも動かない。触ってみたくなるほどだ。ガイドの説明よりよっぽど面白い。

 文武廟をしばらく歩いた後、ようやくバスに戻るまで15分の休憩を貰った。ガイドの目の届かない場所にある文武廟内の土産物店に入ると、昨日、黒檀店で見たのと同じ箸を見つけた。なんと、0が1つ少ない。180元だ。横には、箸が10膳まとめて輪ゴムでとめてあって200元。ま、いっか。昨日、黒檀店で箸を買ったご夫婦は、台湾の経済を潤したということでグッジョブ。
 とうとう湖畔に降りて歩くことを許されずに我々はバスに戻った。どんどん台風に近付いている中、ガイドも、できるだけ早くスケジュールをこなしたいと言う。
 蓮池譚に着いたとき、雨は相当強くなっていた。湖を前に、どうすることもできず、虎の口、竜の尾を持つ塔の中へ入った。竜の尾から入り、虎の口から出ることで、糊口を凌ぐことができるとかなんとか……。竜の尾を模した入口から入り、つるつると滑る階段を上り、塔の頂上から台風の中にある蓮池譚を眺める。
 ここにどんな歴史があるのか、嵐の中、さすがのガイドも説明も何もあったものではない。ともかく予定をこなさなくては、と何も知らされずに、極彩色の、テーマパーク的な建物の中から、湖や、他の建物を眺めた。何かにつかまっていないと、足が滑ってしまう。同じツアーの方々とすれ違い様に何度も大理石の階段から滑り落ちそうになった。
 ゆっくり階段を降りて出口に向かうと、そこには誰もいない。ガイドも、ツアーの仲間もいない。夫と私だけ。みんなどこへ行ったのかしら、と慌てて外に出ようとしたが、どのドアも、内側から閂がかけられていた。おまけにその閂は動かないように鍵がかけられ、さらに外側から鍵をかける、とご丁寧に三重に閉められていたのだ。

             

 台風の真っただ中、夫と私は、虎の口と竜の尾の間にまんまと閉じ込められてしまった。窓から見える景色の中にも、ガイドやツアー仲間の姿は見えない。
 来た道を戻って入口にから出ようとすると、入口も閉められていた。入る時には確かに居た料金取りのおじさんもいない。
 雨風がひどくなり、塔に上るのは危険だと、閉館したのだろう。
 「中に誰かいるかどうかぐらい確かめてから閉めればいいのに、本当にいいかげんなんだから、もう」
 夫も私も口ぐちに文句を言いながら、ドアを開けようと空しい努力を続けていた。横、縦、斜めに動かしてみるが、頑丈な閂はびくともしない。
 ふいに、ガイドの携帯番号のメモがバッグの中にあることを思い出した。なんとか抜け出すことができそうだ、とほっとしてメモを取出し、携帯を開いた。が、携帯の画面が明るくならない。電源ボタンを何度押してもだ。携帯のバッテリーは切れていたのだ。悪夢を見ているかのようだ。
 こんな時に限って、夫まで携帯をバスに置き忘れて来たという。
 最悪の場合でも、明日の朝になれば、誰かが見つけてくれるとわかっていても、焦燥感は増すばかり。右も左もわからない外国での非常時、肝っ玉かあさんを気取る私でも、さすがに心穏やかではいられない。時々刻々と激しくなる胸の鼓動もため息も、窓を叩きつける雨と風の音にかき消された。    <続く>

Ⅴ ニュースの裏を読む(13 (印刷用pdf)

長谷川 啓之

アジア近代化研究所代表

「ニュースの裏を読む」も今回で13回目になる。最近もアジアでは多くの重要な出来事が相次いで起きている。そこで、今回はそれらの中から、以下の3つを取り上げ,その背景などを分析することにしよう。

1.ブミプトラ政策の見直しは可能か

 日本の新聞は今年の79日、マレーシアの首都で珍しくデモが発生し、なジブ政権は異例の政治改革に乗り出した、と報じた。マレーシアでいったい何が起きたのであろうか。その背景にはどうやら複雑な問題が絡んでいるようだ。
 独立以後、否、独立以前からマレーシアが抱える最大の問題の1つは民族問題である。マレーシアで起きる問題は大部分が民族問題と関連するといっていいほど、民族問題は深刻である。はたして最近のデモはどうであろうか。
 その問題に行く前に、まずマレーシアの民族問題とは何かを考えてみたい。最初に、民族構成を見てみよう。民族構成は最大のマレー系のほかに、華人系、インド系、その他から成り、複合社会である。
1965年の独立時の人口構成比は大雑把にマレー系(先住民を含む)が54%、華人系34%、インド系11%、その他1%であったが、現在(08年)ではマレー系が増えて65%、華人系26%、インド系7.7%、その他(外国人など)1.3%となっている。この間に、マレーシアの人口も大きく拡大し、1980年には1,376万人であったが、2011年にはその2倍以上の2,873万人に増加し、3千万人近くに達したが、特に増加が激しいのはマレー系である。かつてマハティール元首相は人口7,000万人構想を打ち上げたが、この考えに向かって着々と進みつつあるとみていいのかもしれない。
  このように、マレーシアは急速に増加する人口とそれを構成する複数の民族が存在し、そこに独立以来さまざまな問題を引き起こしてきた。最大の問題はマレー系と華人系との民族対立であり、その典型的な事件が513事件(1969513日に発生)である。この事件はマレー系住民は華人系住民の経済的優位に、華人系住民は独立以後とられてきた、さまざまなマレー人優先政策にそれぞれ強い不満があることを明らかにした。そこで採用されたのが強力なマレー人優先政策、すなわちブミプトラ政策である。具体的な優先政策の内容は1971年の第2次マレーシア計画の中で明確となった。
 ブミプトラは「土地の子」、つまりマレー人を指す言葉である。この政策はマレー人の経済的地位を高めるために、様々な政策を行うことである。その中には、大学の入学枠を人口に合わせて設定することをはじめ、マレー系企業に優先的に融資や公共事業を発注するとか、さらには公務員や民間企業への差別的な人種別雇用政策を採用すること、など、多くの面で徹底してマレー人に有利な配慮が行われてきた。
 
こうした政府の態度に華人系やインド系の人たちが不満を持たないわけはなく、民族対立が潜行し、しばしば小競り合いを起こしてきた。しかし、人種対立の原因に関する議論は「敏感問題」として憲法に規定され、公の場での議論や批判は法的に禁止されてきた。だが、それで不満が解消したわけではない。この間も絶えず民族対立は深く、静かに潜行していた。筆者がマレーシアに滞在していた際、マレー人と華人の両方の友人・知人と交際していたが、何度も小さないざこざが発生するのを目撃した。筆者が滞在していたのは首都のクアラルンプールから車で40分ほどのシャー・アラムという町で、主としてマレー人ために建設された、いわば人工の町である。そこには主にマレー系のニューリッチと呼ばれる人々が多く住み、広大な敷地に豪邸を建て、高級車に乗って出勤する。そうした状況は華人にとってとうぜん不満であろうが、いまや多くのマレー人にとっても格差やエリートに偏った政策の表れと映る。
 私が知るマレー系エリートのホームパーティに招待されたことがあるが、彼は夫婦二人だけの家族なのに、3ヘクタールの庭を持ち、メルセデス・ベンツの最高級大型車を2台、マイバッハ(?)1台、BMW1台、日本の高級車1台(ブランド名失念)の合計5台を保有し、職場には運転手つきの車で出勤する、超エリートである。ベンツに乗ることはあるんですか、その場合、だれが運転するんですか、などと聞くと、1台のベンツには時々乗るが、もう1台は買ってから5~6年たつが乗ったことはない、自分で高速を夜中にぶっ飛ばすことがある、とのことだった。彼は70近かった。彼の給料は規定では70万円ほどということだったが、二人の息子をイギリスに留学させて、弁護士資格を取っていた。
 こうした状況からか、一方で華人はマレー人優先=華人差別、と考え、不満を募らせてきたが、他方で多くのマレー系住民にとっても経済や社会的地位への格差に不満を蓄積させてきた。そのことが今回のデモには色濃く反映されているようだ。マレー系の人たちもかつての貧しい状況から次第に豊かになり、高い教育を受け、徐々に自信を深めてきたが、富裕層ないし特権階層への階段を上ることは極めて難しく、いわその多くは取り残され、格差は拡大するばかりである。そのことは前回の総選挙あたりから次第に明らかになってきた。
 このため、マレーシアの政治を支配してきた「統一マレー国民組織」(UMNO)への支持は次第に減退し、アンワル率いる野党連合などへの支持が広まっていた。UMNOにはインド系や華人系の政党も参加しているため、与党全体への不満が明白となってきた。そこで、政府は危機感を強め、目指してきたが政治改革を目指してきたが、事態はそれほど甘くはないことを今回のデモは示している。特に、最近(79日)のデモは80ほどの非政府組織(NGO)の連合体である「ブルシ20」と呼ばれる組織が先導したデモで、そこでは具体的に選挙制度の改革や民主化が求められている。マレーシアが抱える問題にはこうした政治的・社会的な側面と、以前から指摘されるように、マレーシア経済がビジョン2020に掲げられるように、2020年には先進国入りを果たすとする計画目標を達成するうえで、どうやらブミプトラ政策はネガティブな役割を果たしており、それをどう解決するかといった側面があることがますます明確となってきたことである。
 これらの
2つの問題を同時に解決することが重要である。そこで、すでにブミプトラ政策の見直し作業は紆余曲折を経ながら、徐々に改革されてきた。たとえば90年代にマハティール政権下ですでにブミプトラ政策は自由化すべきとみなしていたし、2002年には従来の国立大学への人種別入学枠の撤廃、03年以後は理系の大学での英語授業の大幅緩和をはじめ、初等・中等学校での算数や理科の授業を英語で行うこと(ただし09年にナジブ政権はこれを一度は逆転させた)、09年にナジブ政権下で上場企業の資本30%出資義務の即時撤廃が発表されたことなど、ナジブ政権は今後徐々にブミプトラ優先政策の撤廃を表明している。だが、問題はブミプトラ政策の完全撤廃が可能かと言えば、憲法との絡み、依然として存在するマレー系と華人系の経済格差などから見て、短期的には無理だとみるのが多くの専門家の見方であろう。
 もう
1つの問題は政治的社会的な問題である。この問題はあらゆる民族に関連する問題であるだけに、政権政党にとっては深刻な問題と言えよう。そこで、まずナジブ政権は選挙改革に着手することになったが、これもブミプトラ政策と同様、民族問題とも関連するだけに、果たして反政府・民主化勢力の満足が得られる改革ができるか疑問視される。仮に改革に失敗すれば、勢力を伸ばしつつあるアンワル率いる野党連合に政権を奪われかねないだけに、これまでの抑圧的な政策だけに頼るUNMO主導の政治は限界に達することになろう。

2.辛亥革命100年は何を意味するか

 孫文が清朝政府を打倒して辛亥革命を成功させたのは1911年であるから、今年はちょうど100年を迎える。辛亥革命とは19111010日、中国の専制政治(清朝)に終止符を打ち、アジア初の共和国を建設した革命であり、この革命には日本人も参加したため、日本でもよく知られている。革命を主導したのは孫文であるため、孫文は建国の父として中国と台湾の双方で尊敬されている。双方とも孫文が唱えた三民主義にしたがって経済を発展させたが、大陸中国の共産党政権は孫文の革命事業の最も忠実な継承者を主張し、台湾も孫文の教えに従って民主化を実現したと考えている。
 
孫文の主張は三民主義という本に示されている。彼が唱えた三民主義とは「民族、民権、民生」を指すが、その中で当時、孫文が特に重視したのは民族主義である。それは列強による植民地化の危機の中にあった中国が置かれた立場と無関係ではない。孫文にとって、真っ先に解決すべき喫緊の課題は民族の独立だったからである。民権や民生の実現は民族の独立なくしては無意味であり、まず民族の独立を勝ち取った後、解決すべき課題に過ぎない。   共産党革命に成功した大陸の中国は孫文を国父と仰ぎ、当初は孫文が理想とした三民主義の実現を目指したと考えられる。だが、現実には民族主義は愛国主義教育に基づき、いまや共産党支配の正当化を強化する手段にすり替えられてしまった。また孫文は民権では軍政、訓政、憲政へと至る民主国家建設の三段階論を展開し、特に憲政段階では民衆の政治参加や三権分立を主張したが、現実は明らかにそれとは程遠い。民生主義は経済格差などの社会問題を解消することを目指すものであるが、これまた改革開放後の現実はあまりにも理想とかけ離れている。理想どころか、世界でも、あらゆる格差が最も大きい部類に属する。最近はグローバル化の影響もあって、世界中で競争が激しくなり、先進国でも格差が大きな問題になりつつあるが、中国で格差を無くすには構造的な問題を解決しなければならないだけに、より深刻である。
  構造的な問題とは何か。それは革命以前どころか、人民革命以後も、中国が数千年の伝統である皇帝による専制体制に代わって共産党の独裁的な支配を続け、改革すべき中央集権的な官僚支配、政治主導、人治主義、などの問題であり、中国は人民革命以後もそれらを徹底的に改革しようとしない。それらが解決しなければ、先進国が追求してきた自由や平等を含む民主主義、腐敗・汚職、人権、経済・所得・権力などさまざまな格差、などの問題を解決できる体制は生まれない。これらを達成することが近代化であり、中国はまず近代化することである。近代化無くしては、工業化に基づく経済発展をいかに実現しても、国民に一時的な満足を与えることはできても、中長期的に国民が幸せを感じるシステムは生まれない。中国が掲げる現代化とも縁遠い。辛亥革命100年に当たり、中国の指導者が改めて認識すべきはこうした問題とどう向き合うかである。辛亥革命100年を迎え、中国指導部がなすべきことは孫文の理想に向かって進む決意を改めて認識することではないか。辛亥革命100年に当たって、改めて孫文が目指した理想を実現する決意を内外に示すことで初めて、その意味が生きてくることになるのではないかと思う。

3.タクシン問題は終わるか
 インラック新首相が選挙で大勝したにもかかわらず、タイの政治や社会は相変わらず不安定である。その原因は新首相の力不足のためか、タクシン元首相への依存が強いことにあるようだ。要するに、相変わらずタクシン元首相を中心にタイの政治が動いているように見えることである。だが、最近(2011年8月)就任したばかりのタイのインラック首相に早くも政治家としての能力に疑問符が付けられつつあるようだ。承知の通り、インラック首相はタクシン元首相の妹である。タクシン氏が069月に失脚してから混乱続きのタイでついに政治家として素人のインラック女史が首相の座に就き、タイの民主主義が機能し始めたように感じた人は少なくないであろう。
 ところが、そのインラック首相の政治的能力への疑問が表面化している。その
1つは、当面の最大の問題は未曽有の洪水問題であるが、その対応ぶりは後手後手にまわり、いつ解決できるやもしれない状況にある。インラック首相が公約した「経済の安定、所得の拡大、国民和解」なども実現不可能なポピュリズムにすぎないとの批判は当初から根強いが、かなり荷が重そうだ。まだ就任して日が浅いインラック政権に対して、評価を下すにはせっかちすぎるかもしれないが、就任後の政策や対応を見ていると、どうやらそれらの目標を実現することは至難のようだ。
  こうした状況下で、タクシン氏の登場がうわさされるに至り、再びタイの政治が注目されつつある。選挙であれだけ多くの国民から支持されたインラック首相の支持率も下がり始めているようだ。就任当初60~80%とも言われた支持率が、最近の調査では30%33%から38%)台に落ちたようである。 このコラムでも取り上げたように、タイの政治が落ち着くか否かはタクシン氏をどう扱うかにかかっている。承知の通り、タクシン氏が失脚して以来、すでに5年の歳月が過ぎ去ろうとしている。082月には一時的に帰国したものの、同年8月には事実上の亡命を余儀なくされ、それ以来帰国できない状態が続いている。承知の通り、この間、タイの政治・社会は混乱を極めた。特に目立つ騒動を上げると、08年の11月には反タクシン派がバンコク近郊の空港を占拠する騒ぎであり、094月にはタクシン派のデモで東アジア・サミットが延期される事態も発生した。翌年3月にもタクシン派が反政府集会を開催し、90人近い死者が出るなど、対立は一向に沈静化しなかった。このように、タイの政治も社会も長い間、タクシン氏を巡って大荒れ状態が続いてきたといってよい。 
 
しかし、今年7月の総選挙でタクシン派のタイ貢献党(愛国党の後継政党。愛国党はタクシン派の政党で、解党された)が勝利し、政権を奪取することでとりあえず一応の安定を取り戻したかに見えた。ところが、それでタイの政治的・社会的安定が生まれたと考える人は多くないのではないか。そうした不安定要因の1つが、ほとんど素人のタクシン氏の妹インラック氏が政権につき、その政治的手腕が問題となり、それに伴って再びタクシン氏が表舞台に立つ可能性が出てきたことである。無論、タクシン氏は有能な政治家であるが、彼が帰国し、表舞台に立つには、タクシン氏の汚職防止法違反で08年に受けた実刑判決をどう扱うかが問題となる。彼が表舞台に出るには第1に、刑に服することである。なぜなら刑に服さないまま恩赦の対象にすることはタイの民主化にとっても、当面の政治的安定を確保するうえでも、決してプラスにはならないからだ。タクシン氏が刑に服することで、国民が納得するには彼自身が進んで刑に服する以外に方法はない。それはタクシン氏が偉大な政治家であることを証明するチャンスでもある。本人が進んで刑に服することに抵抗があるのであれば、インラック首相が兄を説得することも必要なことであろう。その結果は、彼女自身も偉大な政治家として、国民の敬意を勝ち取り、タイの政治的安定と彼女自身の長期政権への道を切り開くことに貢献する。タイがいま問われているのはタイが真の民主主義国家として発展することであり、それは過去の偉大な政治家が構想してきたことでもあろう。それには、目の前の洪水問題の解決も重要であるが、民主主義国家に発展することの方がはるかに重要な課題であり、その実現には政府も国民自身もよほどの覚悟と団結が必要であろう。

 
Ⅵ アジアと私(2):インドネシアとの出会い(印刷用pdf)

長谷川啓之

アジア近代化研究所代表

1.インドネシア空港で

日本を出るときから、一カ国でも多くのアジアの国を見たいという、ただそれだけの理由でインドネシアに行くことにしていました。恥ずかしながら、インドネシアがどういう国か、人口がどれほどか、政治や経済はどうなっているのか、国民性はどうなのか、などまったく知りませんでした。正直言って、行けば何とかなるだろう程度にしか考えおらず、実にいい加減な気持ちで行きました。今考えてみると、なんと無謀な、といわざるを得ませんし、事前の準備もほとんど無い状態では得られるものはほとんど無いといっていいでしょう。しかし、裏返せば、何も知らなかったからこそ行けた、とも言えそうです。
  インドネシアのジャカルタ空港にはシンガポールのチャンギ空港からインドネシア航空で行きました。どんなところかな、などと期待に胸を膨らませながら、空港に降り立ちました。すでに日本を出て、最初に香港で数日過ごし、そこからタイに行き、タイからシンガポールに行きましたので、それなりにある程度の経験をつんだつもりでした。しかし、思いがけない「事件」が空港で起きました。パスポートをチェックするところに何とか行き着いたのですが,官吏が私にパスポートをチラッと見ると、「マネー」と低く小さな声で言うのです。私はとっさに「ホワット?」とやや大き目の声で聞き返しました。すると「マネー、マネー」と繰り返しました。そこで、ちょっと間をおいてから、「ホワイ?」と聞き返しました。すると、相手は「これは空港税で、君は払う義務がある」といいました。そこで、「いくらか?」と聞き返すと、「サーティ・ダラー」(30ドル)だと言う。30ドルは日本でも大金ですが、当時のインドネシアでは日本の50倍か100倍ほどの価値があったでしょう。驚いて、相手の顔を見ながら、およそ1~2分ほどもみ合いが続きました。私は絶対に払う気はありませんでした。なぜなら別の列には外国人たちが並んでいても、誰も「マネー」を要求されているように見えませんでしたから。また、もし空港税ならまけさせることはできないだろう、そうだとすれば、これまでの空港での経験から、こんなに高い空港税をとるはずが無いと、とっさに考えました。もう問答は無用だと考え、じっと黙って1~2分立っていました。私の列の後ろの方を見ると、沢山の外国人が次第に怪訝そうに眺めていました。ついに、税官吏は、OK,と言ってパスポートに判を押しました。これがいい経験になって、その後はこうした事態が起きても、大丈夫と自信を持ちました。それと同時に、インドネシアは随分いい加減な国だな、という第一印象をもつことになりました。その後、何度かインドネシアには行きましたが、幸いにして二度とこうした事態はおきませんでした。
 私は日本を出るときから、早稲田大学で低開発国経済学を研究されていた山岡先生からインドネシアでは元日本軍の憲兵だったという
Tさんを紹介され、その方のお宅にお世話になることに決めていました。その方は日本の賠償金で貿易関係の仕事をしておりましたので、従業員の方が空港に車で迎えにきてくれました。ジャカルタ空港に着くと、新聞記者などが多数押しかけており、何か物々しい雰囲気でした。シンガポールの状況はどうか、軍隊の数はどの程度いるか、などと質問され、なぜそうした質問をされるのかさえわからず、したがって私に答えられるわけも無く、戸惑うばかりでした。いったい、何がえらく大変なことが起きているらしいが、何が起きているのであろうか。  
 
そういうわけで、マスコミ関係者が空港に押しかけている状況は事前にはまったく読めませんでした。後でわかったのですが、当時のマレーシアとインドネシアは激しく対立しており、特にインドネシア側から見ると、いつ戦争が起きてもおかしくない状況だったらしいのです。しかし、私は両国の関係がどうなっているのか、さっぱり知らないまま、対立国のマレーシアからインドネシアに行ったことになります。少なくとも、マレーシア側ではそれほどの騒ぎにはなっていませんでした。イギリス軍のキャンプものんびりしていました。それもそのはずで、1963年に出されたマレーシア連邦構想をインドネシアのスカルノ大統領は「イギリスが企んだ新植民地主義だ」とみなして、反発したことから対決政策(コンフロンタシ)が取られた理由だとか。私はスカルノ大統領が反米的で印中ソ的な人物だと言うことは知っていましたが、両国の間での対決政策のことはまったく知らずに渡航したのです。それが終了するのは、アセアン(東南アジア諸国連合)が生まれた1967年の8月のことで、このとき反米的なスカルノ体制から親米的なスハルト体制へと変わったインドネシアとマレーシアの間で外交関係が樹立されたのでした。 
 
もっとも、私がインドネシアに滞在する間には、国内ではそのことに関して、何も変わった様子はありませんでした。私は滞在中、主としてジャカルタ市内と、そこから比較的近いバンドンやボゴールなどの郊外のほか、周辺の農村に何度か出かけた程度ですが、ジャカルタを含めてどこに行ってものんびりした雰囲気でしたから、インドネシアとマレーシアの対立は空港以外にはまったく意識することはありませんでした。

2.日本の戦後賠償金で

 サンフランシスコ講和条約締結後、日本と東南アジアを中心としたアジア諸国との間で、戦後の賠償問題が発生していました。賠償の対象国はインドネシア、フィリピン、ビルマ(現在のミャンマー)、旧南ベトナムなどが中心でした。インドネシアとの間では、1958120日に賠償協定が調印され、日本は803880万円(22,308万米ドル)を支払うことになりました。これは上記4カ国中、フィリピン(55000万ドル)についで大きな賠償金でした。もちろん、当時の日本にはそうした多額の外貨があるわけではなかったため、日本企業が受注する形でのインフラ整備や船舶を初めとした物品の提供などが主なものでした。物品の提供には日本の商社や中小の貿易会社などが担当したようです。
 私はTさんの大きな屋敷に一部屋を与えられ、そこで10日ほどを過ごしました。滞在中、Tさんは親や兄弟を大事にするようにとか、友達を大切にすべきし、など家族や人間関係について、どうあるべきかを夜遅くまで聞かせてくれました。Tさんも従業員34人を雇う、小さな貿易会社を営んでいました。Tさんは50代半ばのようでしたが、まだ独身で、戦前からインドネシアに軍人として滞在し、戦争が終わってすぐにインドネシア独立運動が起きたとき、スカルノを助けるため現地に滞在し、一緒に戦ったのだそうです。ですから、Tさんは結婚する機会を失い、何とかして故郷新潟県で結婚相手を探したいと考え、私がお邪魔した年の暮れに嫁探しに日本行くと話していました。
 Tさんはスカルノにいつでも会える立場にいたようです。私が滞在中も、スカルノの部下の方が何人も出入りしていました。その中には、戦争で右腕をなくした人がおり、握手するとき、相手が左手を出したので、私も左手で握手しようとしたら、Tさんに握手するときは相手が左手を出しても、あなたは右手を出さないといけません、と注意されました。
 Tさんの机の上には、頭がつるつるの軍服姿の人物写真が飾られていましたが、それが誰かはっきりわかりませんでした。これは誰ですか、とTさんに聞くと、スカルノ大統領ですよ、という答え。ああそうですか。それがスカルノであることにはまったく気づきませんでした。実はそれより1年ほど前にスカルノ大統領が早稲田大学に来ました。彼は大隈講堂で演説をするというので、私も話しを聞きに行きました。そのとき、スカルノ大統領は帽子をかぶっていたため、彼が禿頭であることはまったく知りませんでした。そのことをTさんに話すと、たいていの人は知らないだろうな、と笑っていました。
 私はジャカルタ郊外の農村地帯に日本が賠償金で提供した繊維工場があるから見にいきませんかと、当時インドネシア大学に留学中のNさんから誘われました。郊外の農村の村長さんを知っているので、村長さんに会いに行きますが、そのついでに日本が賠償金で立てた小さな繊維工場があるので、それを見てみませんか、と言う。それは願っても無いことと思い、早速お誘いを受けて、車で2時間ほど離れた村に向かいました。
 広い水田が広がる中に、道路から数百メートル離れたところに小さな建物がぽつんと立っており、それを指差して、あれがその工場です、とNさんが言う。あまり工場らしくないな、と思いながら、みずみずしい雑草が生い茂るあぜ道を数百メートル歩いて工場に行きました。歩きながら、私は小さいころから雑草に異常に関心があるので、インドネシアの雑草は日本とどう違うだろうか、と思いながら、あぜ道の雑草を観察してみるとほとんど変わりがありません。昔、田舎に住んでいたころ見た田んぼのあぜ道の雑草とよく似た雑草がほぼ変わらずに茂っていました。日本からここまで遠くはなれ、しかも熱帯地方で見る雑草が日本と変わらないことに何か妙な気分になりました。やがて工場につきましたが、中からは何の音も聞こえてきませんので、不思議に思い、今は休んでいるのですか、と聞くと,Nさんが「実は機械が5台あるのですが、次々と故障し、誰も修理できないので、そのままになっているんですよ」と言う。中を見ると、工場は日本のミサワホームが建てたそうで、小さいがなかなか立派な建物でしたが、中ではかなり新しい機械が完全に止まったきりで、誰も人がいません。全部の機械が壊れてもう数年たつが、修理できる技師がいないので止まったきりなんです。日本に修理してほしいと頼んだのだが、修理してくれないため、宝の持ち腐れになっているのだ、という話。その後、これとまったく同じと言うわけではないが、さまざまな形でよく似た話はアジアのあちこちでずいぶん聞きました。賠償であれ、援助であれ、それが現地の人のためになると信じて実行されたとしても、日本から持ち込む機械や日本的な発想での援助が、現地の事情に合わなければ、こうした状況が生まれてしまう。真に役立つ援助と言うのは本当に難しい問題だとつくづく思い知らされました。

3.スカルノからの贈り物:ホテルとデパート
 インドネシアへの賠償金といえば、当時のインドネシアには不釣合いとも思えるほど豪華なホテルが思い起こされます。これは1962年に、スカルノ大統領が日本からの賠償金で建てたホテル・インドネシアで、ジャカルタのもっとも繁華な中央通りのタムリン通りにあります。現在はオーストリアのホテルとなり、名前もホテルインドネシア・ケンピンスキー・ジャカルタ(オーストリア)と呼ばれています。文字通り、以前よりはるかに高級な、5ツ星の豪華なホテルに生まれ変わっていますが、当時のホテル・インドネシアもジャカルタに唯一存在する国際級のホテルとして国民の目をひきつけていました。もちろん、高いホテルなので、とても私の身分では泊まれるものではありませんでした。
 もう
1つ、スカルノが19628月にオープンした国際級の建物に5階建てのサリナ・デパートがあります。このデパートもタムリン通りにあります。当時、このデパートで買い物ができるのは外国人かインドネシアのわずかな富裕層だったでしょう。特に外国人旅行者を当てにして、インドネシアの特産品、たとえばバティック、動物をかたどった木彫り人形などの民芸品、銀細工、籐細工などの装飾品が置かれていました。
 あるとき、私が通りを歩いているとこのデパートに行き着きました。別の特に買いたい物があったわけではないのですが、中に入ることにしました。かなり清潔な感じで、商品もいろいろ取り揃えており、見ていると楽しく、1時間くらいはすぐにたちました。見ると,ライチが安く売られているではありませんか。早速、両手で持ちきれないほどのライチをわずかな値段で買い求め、近くの空き地で食べてみることにしました。食べ始めてほんの30分もたったころでしょうか。お腹がちょっとおかしいな、と感じ始めました。私はもともと腸が弱く、ちょっと冷房が効いて寒いところに長時間いたり、冷たいものを多めに食べたりすると、腸の調子が悪くなります。これはまずいな、と思っていると、お腹がごろごろ言い始め、急に痛くなり、しばらく道端に冷や汗をかきながら、うずくまっていました。すると通りがかりの女性が心配してくれ、声をかけてくれたのですが、ほとんど言葉が通じません。黙って相手の顔を見ていると、外国人だと分かったらしく、通りがかりの人を呼びとめ、3人ほどで何か話していましたが、どうやら通りがかりのべチャ(人力車)を呼び止めて、病院に連れて行こうとしているらしい。そうこうしているうちに、ちょっと収まってきたので、私が手で大丈夫といったしぐさをしましたが、なかなか相手には通じません。結局、15分か20分ほどたった末に、私は立ち上がり、頭を下げて立ち去りました。インドネシア人の優しさを感じた瞬間でした。
 その後も、何度かジャカルタには行きましたが、このデパートを見るたびに、思い出され、一人苦笑したものです。このデパートも少しずつ発展し、今ではかなりの高級品も売られていますから、ここ数十年にインドネシアがいかに経済発展したかが分かります。最近では、数店舗を持ち、地下にはスーパーもでき、数年前には上海への進出も実現したようで、ある程度発展しているようですが、いまやサリナ・デパートの2倍もの広さのバザラヤ・デパートができ、競争が激しくなっていると聞きます。どこも商売は大変ですね。いずれにせよ、ホテル・インドネシアもサリナ・デパートも、今は亡きブンカルノ(スカルノ兄貴)から国民への心のこもった贈り物といったところでしょうか。

4.村長さん宅で

 先ほどの繊維工場からわずか数百メートル離れたところに村長さんの家があるので、行きましょうと言われ、暑い中をあぜ道や舗装の無い狭いでこぼこ道を二人でとぼとぼと歩いていきました。周りにはあまり家が無く、こんな淋しいところに村長さんが住んでいるのか、と思いながらついていきました。すると、これまた周りが田んぼと畑で囲まれた平屋建ての、あまり大きくない1件屋がありました。それが村長さんのお宅です、と言う。見ると、入り口のそばに高さが3メートル以上あるパパイヤの木が数本立っているのが見える。最初見たとき、実がついていなければ、それがパパイヤの木だとは分かりませんでした。何しろ初めて見た木ですから。
 
それぞれにパパイヤの実が大小10個前後なっているのが見えました。パパイヤですね、と言うと、Nさんがインドネシアでは大抵の家の周りにパパイヤの木を植えており、毎日それを必要なだけとって食べるんです、と言う。私は小さなとき農村にいて、庭や家の周りにざくろとか柿、びわなどの果物の木を植える農家が多く、季節にはよく取って食べた経験があったため、懐かしく思い出し、なるほどと合点が行った次第です。
 村長さんにパパイヤの木を育てるのは難しいですか、と聞くと、「なーに、楽なものです。ほっといても芽が出て自然に大きくなり、実がなるんですから」、と言う。特に手もかかりませんよ、と言う。そういえば、その後マレーシアに滞在しているとき、家内とよく散歩しましたが、あちこちの道端に沢山のパパイヤ、マンゴー、バナナなどの木が生えており、沢山実がついているのを見ました。マレーシアでも、インドネシアでのこの一件を思い出し、家内に話したものです。
 村長さんが、早速大きな、まだやや青みが残るパパイヤの実を取ってきて、料理して大きな木皿に乗っけて出してくれました。どうぞ食べてください、といわれ、日本で食べたら高いだろうな、などと思いながら、早速いただきました。新鮮でおいしかった。取れたてのパパイヤを食べるのはこのときが初めてでした。
 その後、村長さんには村での出来事に関する、いろいろな話を聞かせてもらいましたが、大分記憶が薄れてとても全部は思い出せません。しかし、以下の話だけはいまなお強烈な印象として脳裏に残っており、忘れることはできません。それは以下のような内容の事件でした。ある日の午後、若い白人男性が乗るスクーターが村を通りかかった。そのとき、村の若者がスクーターの前に立ちはだかり、時計をよこせといった。しかし、その男性は断って、スクーターで立ち去ろうとしたところ、若者が腕をつかんで引っ張った。するとスクーターはひっくり返ったが、白人男性が怒り、起き上がると、ひったくろうとした青年を数十メートル追いかけて行った。すると、村の仲間が数人出てきて、その青年の背中に、何人かがナイフを突き刺し、殺してしまった、というのだ。うそのような本当の話です、と苦悩の表情で語ってくれました。
 男性は2425歳のスエーデン人で、一人でインドネシアを旅行していたという。なぜ殺すところまで行ってしまったのであろうか。村長さんもほんとうに残念な事件だという。誰かが止めなかったんですか、と聞くと、暑い昼間は辺りにあまり大人がいないので、気づかなかったんだろうな、という。さらに、こういう事件は時々あるのですか、と聞くと、やあ、めったに無いんですが、たまに聞きますよ、と言う。それにしてもあまりにも衝撃的な事件です。これに類似した話はその後数年して訪問したスマトラ島で聞いただけで、めったに起きない事件ではないかと思いますが、インドネシア、特に治安が悪いと言われた中部ジャワに行ったときも、ちょっと似た話を聴いてぞっとしたものです。
 村長さんいわく、もし時計を取られた場合には、追っかけないで、誰か村の責任者に話してほしい、といっていましたが、それも言葉のできない外国人であれば、難しいことだろうな、と思わざるを得ませんでした。もしそれが自分であったら、どうしたろうか、と。

5.ボゴール植物園と「金日成花」

 ジャカルタに滞在中、あまり遠くではないのですが、結構いろいろなところに行きました。中でも、世界的にも有名なボゴール植物園は最も印象に残るところの1つです。この植物園はあまりにも有名であり、訪問した方も多いと思います。最近はインタネットでも詳しい話が出ています。ですから、植物園自体について詳しくは触れませんが、若干経験談なども含めて書き記しておきましょう。植物園はジャカルタから南に60km以上の距離の、車で1時間ほどのところにあります。面積は全体で110ヘクタールあるが、内部には1856年にオランダ東インド会社の総督の別荘として建設された、白亜のボゴール宮殿が併設されているので、これを除いても87ヘクタール程度あるそうです。結構広いですね。
 園内には観賞用、薬用、などの珍しい植物が数多くあり、その多くはインドネシアの代表的な植物からなるが、中には南米やアフリカ(マダガスカル)から移植されたパラゴムの木や油やしの木、などの植物もあります。現在では、植物の種類はなんと5,000種(15,000種との説あり)が栽培されており、東南アジア一帯にある輸入種はここを経由して広がっていったといわれます。ここは181216年の間だけイギリスが管理し、ラッフルズ夫妻が住んでいましたが、その後オランダに返され、オランダのジャワ島などの総監として着任したオランダ人ラインワルトが18175月、ここに植物園を開園し、園長になりました。彼は着任からわずか5年ほどで900種類もの植物を集めたといわれますが、その後2代目、3代目と続くうちに急速に拡大していきました。もともと、オランダがここに植物園を作った目的は農業の育成と輸出などに適した作物を見つけ出すことであり、その目的に合ったのはタバコとかお茶、コーヒー、キャッサバなどでした。 
 私が圧倒されるほどの樹木に覆われた、この植物園を見物して出てくると、門のところで案内人のような50代後半くらいの人に会いました。彼は私に近寄ってきて、片言の英語と日本語をしゃべりながら、「日本人ですね。私沢山の日本人に会いました。彼らはみな、名刺くれます。あなたもくれますか」と言う。私が名刺を差し出すと、ひとしきり職業は何か、なぜ来たのか、いつまでいるのか、などしつこく聞いてきました。しばらく話した後、自分が持っているという名刺の一部を見せてくれました。何枚くらい持っているのですか、と聞くと、アバウト・ファイヴハンドレッド(500枚)かな、と言う。全部が全部日本人ではないが、過半数が日本人らしい。その一部を見せてもらうと、私でも知っている有名な人の名前も何人かありました。中には、政治家、ビジネスマン、学者などなど。
 ボゴールといえば、ボゴール宮殿とスカルノとの関係も忘れがたいものです。それはスカルノが65930日に起きたクーデタで失脚した後、ボゴール植物園内にあるボゴール宮殿で70621日に亡くなるまでここに滞在したとされるからです。終身大統領といわれたスカルノがクーデタで失脚し、不遇のうちにこの宮殿で亡くなったとされるのですが、詳しいことは知られていません。
 聞いた話ですが、ここで、1つのエピソードを紹介しておきましょう。それはスカルノと北朝鮮の金日成(金正日のお父さん)との間にあったとされる、次のようなエピソードです。北朝鮮の金日成首相が654月にインドネシアを訪問したのですが、そのときスカルノは金日成を非常に尊敬していたため、金日成がいくところ必ずついていったそうです。あるとき、ボゴール植物園を訪問した際、スカルノは金日成に、著名な植物学者が長年かけて育て上げたというラン科の赤紫の美しい花を差し出し、これは1年に2回咲く珍しい花です、これにあなたの名前を是非つけたい、と申し出ました。あくまでも固辞する金日成に、その後もスカルノはどうしてもあなたの名前をつけたいと熱心に申し出、ついに金日成も同意し、「金日成花」と名づけられました。金日成の息子の金正日の名前をつけた「金正日花」が一時期、日本でも話題をさらったのですが、その前に父親の名をつけた花があったんですね。これは驚きです。
 スカルノは1~2年以内にこの花を北朝鮮に届けます、と約束したそうですが、5ヵ月後の65年9月30日にクーデタが発生して、不本意ながら失脚してしまいました。このため、この目的もついに果たされないままになっていました。金日成の訪問は、私がボゴールを訪問したわずか1ヵ月後の出来事でした。まさに当時のインドネシアは激動の時期でした。
 
ところが、話はこれで終わったわけでないらしい。その後、数年たって、金日成に付き添っていった随員がなんとかして「金日成花」を手に入れたいと考え、部下をインドネシアに派遣し、探したが、なかなか見つからかったらしい。しかし、必死に探した甲斐あって、ついに「金日成花」を栽培した植物学者を見つけ出し、花を北朝鮮に持ち帰り、風土に合うよう改良した結果、いまや「金日成花」は北朝鮮のあちこちで栽培され、根付いているそうです。暑いインドネシアの花が寒い北朝鮮に根付くとは、どういう改良をしたんでしょうかね。一度ぜひとも見てみたいものですね。 
 インドネシアでの思い出はまだまだ沢山あるのですが、長すぎると敬遠されそうですから(冗談)、今回はこのあたりでやめておくのが賢明と言うものでしょうね。

編集後記(印刷用pdf)

 今回のニュースレターはかなりバラエティに富んだものとなりました。巻頭言では小島末夫教授(国士舘大学)がイタリア旅行をする中で、日本でも話題になっています中国旅行者の問題を実際の見聞に基づいて書いております。彼らの本質をついており、日本に来る中国人旅行者についてもほぼあてはまる内容となっています。2番目はこれまた中国に関するもので、中国がとっている元の安定化のために中国政府が取る低金利政策にはジレンマがあると指摘するもので、相変わらず説得的です。童適平教授の指摘は卓越した論拠に基づくもので、極めて論理的かつ客観的といえるでしょう。
 3番目の辻教授の「兵団による新疆開拓団の歴史と現実」は同氏が近年、同地域への数度にわたる実態調査に基づいて書いたもので、極めて貴重な論考と言えるでしょう。ちょっと長い論考ですが、写真も豊富に使われており、是非一読をお勧めしたいものです。この地域に関するこうした透徹した論考は極めて貴重と言えるでしょう。
 4番目は文筆家の藤澤氏の台湾旅行記です.同氏はしばしばアジア諸国を旅行し、今回は台湾旅行の貴重な体験を文章にまとめています。すでに何度か「調査・研究・旅行記」に同氏のタイ旅行記が掲載されていますので、それらも合わせてご覧頂けば、さらに面白さを実感できることでしょう。これからも何度かにわたって、同氏の旅行記が掲載されますので、お楽しみいただきたいと思います。
  5番目は「ニュースの裏を読む」の13回目です。今回はマレーシア、中国およびタイで起きている重要なテーマを取り上げております。いずれもアジアで起きているニュースの中で突出して重要なものばかりです。
 最後は、本研究所代表が65年ごろ最初に訪問したときのいくつかの国の中から、今回はインドネシアを選び、そこで体験したことを中心に書いたエッセイ風の論考であり、今回が2回目に当たります。次はタイでの経験を書く予定であります。
 これらの記事を読んでいただけば、アジアについての見方や情報が確実に増すことでしょう。読者のみなさんもアジアでの経験やアジアへの関心を持つ方も少なくないことでしょう。皆さんの経験を踏まえて読んでいただけばきっと感じることが少なくないと思います。読者の皆さんからのご投稿も大いに歓迎します。皆さんの健康と幸せを祈ります。(KN


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