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Asian Modernization(IAM)
  

アジア近代化研究所
IAMニュースレター

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IAMニュースレター第12号、2011年9月10日、 目次
無断転載禁止。著作権は各著者にあります。
  1. 巻頭言:ブラジル・セラード開発の意義(溝辺哲男)
  2. ニューハーフ・イン・タイランド(藤澤すみ子)
  3. アジアと私(1):アジア研究とアジアとの出会い(長谷川啓之)
  4. シンガポール大統領選挙と多様化する国民意識(辻忠博)
  5. ムンバイから見たインドの近況報告(上原秀樹)
  6. ニュースの裏を読む(12)(長谷川啓之)
  7. 編集後記

T 巻頭言:ブラジル・セラード開発の意義 (印刷用pdf) 

 溝辺 哲男(農学博士)

アジア近代化研究所研究員・日本大学生物資源科学部准教授

ブラジル・セラード農業開発への協力

少し古い話になるが、日本が1970年代後半から20年以上にわたって、不毛の地と呼ばれたブラジル中西部に広がるセラード地帯(総面積約2億ヘクタール)の農業開発に協力し、同地帯を世界有数の穀倉地帯に仕上げたことは意外と知られていない。その頃日本は世界的な穀物価格の高騰により、大豆を中心とする輸入食料が逼迫し、アメリカ一辺倒の穀物輸入体制の見直しを迫られていた。このため日本は、ブラジル政府の進めるセラード開発に協力して、世界への食料供給の増大を開発目標に掲げ、官民合同による「日伯セラード農業開発事業(プロデセール事業)」を1979年にスタートしたのである。このプロデセール事業は、3期、22年にわたり、日本側が351億円を投入して2000年に終了する。この間にセラードの原野を34.5haの農地に転換することに成功したのである。その後、プロデセール事業の成功を目のあたりにしたブラジル人農家、アメリカの企業農家、さらには多国籍穀物メジャーが次々に開発に乗りだし、2001年時点で約6,000haが全く新たに開墾され、世界有数の農業生産地帯へと変貌を遂げたのである。

世界一の農産物“純”輸出国

現在、ブラジルの大豆、トウモロコシの生産量は、いずれも世界第2位であるほか、サトウキビ、砂糖、コーヒー、オレンジ、牛肉など多くの農畜産物の生産量が世界第1位となっている。また、2008年のブラジルの農産物輸出額は554億ドルに達し、輸入額は79億ドルであった。差し引き475億ドルが純輸出額となった。これは2位のアメリカを195億ドル上回っており、ブラジルは世界最大の農産物「純」輸出国となっているのである。この点も日本では案外と知られていない。
 農産物輸出に最も貢献しているのは大豆製品(大豆粒、油、粕)であり、総輸出額の27%を占めている。大豆(粒)生産は、セラード開発が始まる1970年代後半までは、800万トン前後であったが、2010年には7,500万トンに達した。9,000万トンを生産するアメリカに肉薄しており、今後数年で追い越すとも言われている。ブラジルが世界の食料需給を左右する存在とまでなった要因は、1970年代までほとんど手つかずであったセラードの原野が農地となり、一大農産物供給地帯へと変貌したことによる。

セラード開発の意義

記憶に新しい2008年の世界的な穀物価格の暴騰は、一時的におさまったようにみえたが、昨年の中半頃から、再度値上がりに転じている。大豆の価格は、2008年に1トン当たり609ドルと最高値を記録し、翌年には320ドルまで低下したが、今は既に580ドル(20117月)にまで上昇している。米、小麦、トウモロコシも似たような価格の動きをしながら値上がりを続け、食料価格は高止まり基調にあるといえる。
 食料の輸入依存率が高い日本にとって、セラード農業開発による食料増産は意義深いものがある。例えば、大豆の場合、日本は消費量の90%以上を輸入に頼り、その量も毎年440万トン(20002008年の平均)に達している。そのうちブラジル産大豆の日本への輸出量は20%程度であり一見、小さいようにみえる。しかし仮に、ブラジルの大豆生産が現在よりも少なければ国際市場価格は今よりも高騰し、日本は高い対価を支払うことになる。また、セラード農業開発は、大豆だけではなく、トウモロコシ、コーヒー、綿花、畜産物(鶏肉、牛肉)の増産をもたらしており、日本人の食生活や食卓はセラード開発の恩恵を多面的に受けているといえる。
 また、食料価格の高騰で困るのは日本だけではない。食料が慢性的に不足しているアフリカなどの開発途上国にとっては生命にかかわる深刻な問題を抱えることになる。2010年の飢餓人口は93,000万人で、前年に比べて約1億人減少した。FAOは、その主因を前年に比べて穀物などの食料価格が低下したためと指摘している。一方、最近の中東諸国での動乱や暴動も食料価格の上昇がその発端といわれている。
 食料価格をいかに安定させるか。そのためには、農地も含めた有限な農業資源をいかに効率よく活用して、安定的な食料供給体制を構築するかが求められる。それは、地球規模での食料安全保障体制の確立に向けての大きな課題(グローバルイシュー)であるともいえよう。今から30年以上も前に、世界の食料需給の緩和を開発目標に掲げて挑んだセラード開発の実績と成果を踏まえ、日本とブラジルが協力して、新たな国際協力を展開し、世界的な課題に対応することは、日本の世界貢献の面から大きな意義があると考える。

U ニューハーフ イン タイランド(印刷用pdf) 

藤沢すみ子

アジア近代化研究所会員、エッセイスト、

エマウス・メディカル・ジャパン株式会社代表取締役 

デパートの風景は、日本もバンコクも大して変わりはない。きらびやかな装飾、身なりをきちんと整えた店員たち、清潔な売り場。値段の交渉をせずに買い物できるのは気持ちがいい。
 化粧品売り場を通りかかったとき、大柄な若い女性店員に目が留まった。にこやかに化粧品の説明をしている。腰のあたりまで伸びた黒髪は、よく手入れされていて、つややかだ。黒いミニスカートから長い脚がまっすぐにのびている。きれいな足のラインだけれど、女性にしては大きい膝小僧と筋肉質な太ももが気にかかった。

誰かに似ているのだが、その「誰」かが思いだせない。思い出さないと気分が落ち着かない。商品を探すふりをして、化粧品売り場の前を行ったり来たり。やがて、彼女が、客に背を向けて商品棚に手を伸ばした。その瞬間、昨夜行ったニューハーフキャバレー「カリプソ」のダンサーの顔と動きが脳裏に浮かびあがった。ガイドが、「ダンサーたちは、昼間は別の仕事についている」と言っていた。やはり、女性ならではの仕事に就くのだな、と妙に納得。
 カリプソのショーを観たとき、人類には男性と女性だけではなくニューハーフという性があるということを、教科書に書くべき時代がきたのかもしれない、と思った。

彼らというか彼女らは、強烈なナルシシズムのなかで、美しさを追求する熱心さが半端ではない。女性より目鼻立ちがはっきりしているし、筋力も体力もあるから、舞台に立った時の見栄えがいい。ダンスのメリハリが際立っていて迫力がある。彼らといっしょに舞台に立ったら、どんなに容姿端麗で技術の高い女性であっても見劣りするだろう。好奇心の塊のような私には、彼ら(彼女ら?)について知りたいことが山ほどある。中でも、クラシック好きの私が、もっとも興味深いことは、タイにはどういう演奏をするニューハーフミュージシャンがいるのだろうか、ということ。

ピアノ等の大型楽器は、まだまだ一般家庭には普及していないと聞いた。タイがどんどん発展して、才能教育にも力を入れるようになったとき、どれほど美しいニューハーフ音楽家が量産されるか、想像はどんどん膨らんでいく。
 ショパンコンクールや、チャイコフスキーコンクールで、華やかなロングドレスをまとい、女性として出演し、男性にしか出ないメリハリのある音色を奏でる。また、オーケストラの団員となって、白いブラウスに黒いロングスカートを着て第一バイオリンを奏でる。あるいは、チュチュを着て、トウシューズを履き、鍛え抜いた女性を凌駕するテクニックと表現力のあるバレリーナとして舞台に立つ。他のどんなプリマにも負けないバレエジャンプが見られるはずだ。
 近い将来、ベルリンフィルの演奏会でベートーベンの交響曲演奏後に指揮者とがっちり握手をするのも、パリのオペラ座で白鳥の湖のオデット姫を踊るのも、タイのニューハーフかもしれない。もちろん、演奏・演技だけではなく、見て楽しめる超美形ばかりだ!

私は、元々オカマと言われる人種に興味があった。なぜ、そういう道を選ぶのか、深層心理を知りたくて、数年前、好奇心の強いモノカキ志願の仲間たちと一緒に、新宿のオカマバーを探検したことがある。恐る恐るドアを開くと、雑然として薄汚れた空間が目に飛び込んできた。店内の人々の視線が一斉に我々3人組に向く。図々しく中に足を踏み入れてドアを閉めると、中の一人が眉を寄せながら、何人? と訊く。我々の中間の一人が3本指を見せると、店の一番奥のテーブルに案内された。

私たちはぴったり膝を寄せ合って、ホステス?を待った。しなを作りながら、我々のテーブルに就いた青年は、椅子に腰かけるなり不機嫌そうに眉を寄せ、いきなり「あたし、オンナが大嫌いなの」と毒づく。互いに顔を見合わせるモノカキおばさんたちの前に、分厚いカタログをつきつけた。

「あんたたち、こんなところへ来て、何のつもり?」

そう言いながら彼が開いたページには、男の写真と、時間と値段の表があった。相当ヤバイ所に来たのかもしれない。そう思うと、逆に腹が据わった。テーブルがいくつかあって、それぞれに「ホステス」がついていた。もちろん客は全員どこから見ても男だ。ホステス?のほうは、女性らしい服装をしている者、ジーンズにTシャツ姿の者、化粧をしている者、していない者、と風体は様々だったが、動作にシナを作るところは皆同じ、生物学的に男であることも同じだ。
 勇気を奮って来たのに、収穫なしに追い返されるのはごめんだ。怒鳴られてつまみだされるのを覚悟で、モノカキのはしくれであることや、小説やエッセイを書くために取材させてほしい、ということを話すと、驚いたことに、彼は素直に納得し、我々のインタビューに答えてくれたのだ。
 彼の顔は今でも思い浮かべることができる。カリプソのダンサーたちのように自分の美しさに自信を持って陶酔しきっている雰囲気ではなかった。顔色もわるく、表情に影があった。彼は23歳だと言ったが、体つきからして十代の少年にしか見えなかった。相当体力の要る仕事だから、自分の年齢になると管理する側に回るのだと、淡々と語った。
 タイのニューハーフたちのからりとした明るさとは対象的だ。新宿の裏の顔とタイの表の顔とでは比較するレベルが違うし、オカマとニューハーフとは別もの、と言われればそれまでだが、そこまで探索するほどの勇気と若さがないのが残念だ。
 タイでは、いっとき、ニューハーフは徴兵から免れられるというルールがあったと聞いて、やっぱり、と手を打った。いくら女性の心を持って生れてきたとは言え、相当費用をかけて、さらに相当痛い思いをするには、それ相応の代償があるはずだと思っていた。同類が多ければ、勢力も強くなるし、自信を持ちやすくもなる。思いを共有できるという事実は、精神の安定をもたらす。安心感は、仲間を増やす。ニューハーフが増産される工程が少し見えてきた。
 一方、徴兵免除を狙ってニューハーフになったのに、結局、法が変わって兵士にならざるを得なくなった彼女たちの心情はどんなものだろうか。また、一時の思い込みでニューハーフとなったはいいが、何の因果か、うっかり女性に恋をして、男に戻りたい、と後悔することはないのだろうか。
 化粧品売り場の売り子に刺激され、デパートでウインドウショッピングするどころか、ニューハーフたちへの興味が深まるばかり。せっかくのデパート探検なのに、タイ式ディスプレイが心に残らない。やけに大きな扇風機が、あちらこちらで、くるくると回っていた。

V アジアと私(1):アジア研究とアジアとの出会い (印刷用pdf) 

長谷川 啓之

アジア近代化研究所代表

1)アジア研究のきっかけ

私がアジアに関心を持ち、生涯の研究対象に選んでから、早いものでもうすぐ50年が経過する。初めてアジアを訪問したときのことがおぼろげながら、昨日のことのように思い出される。人から、「あなたが何十年も前にアジアに関心を持った理由とかきっかけは何ですか」とよく聞かれる。私にとっては、こうした質問なり疑問をもたれるたびに、なぜだろうかと考えてしまう。質問する側からすると、やはり明治維新以来、「脱亜入欧」的発想が身についてしまった日本人としては、確かに早期にアジアにのめりこんだことが不思議に思えて当然であろう。

そこで、私自身にも決定的な理由ははっきりしないが、こういうことかなと言える理由を考えてみたいと思う。私がアジアに関心を持ち始めた、直接的なきっかけの1つは何と言っても1960年代に大学院の修士課程と博士課程で経済成長論を学んだことではないかと思う。当時、日本の経済学界は数理経済学とか新古典派経済成長論が全盛だった。いずれも数学を駆使してモデルを構築するというもので、数学ができなければ、経済学を学ぶ資格は無い、かのような雰囲気だった。この伝統がいまなの多くの人に経済学=数学の応用、であるかの印象を与えてしまったのではないかと思う。これは大きな間違いです。数学より重要なのはむしろ第1にアイデアや概念の創出とか事実を知ることだと考えるからだ。現場を知らず、アイデアや概念が無いのに既成の理論に数学を当てはめるだけでは、独創的な理論も見方も生まれないからだ。アジアを何度か回って、大事なことは、アジアの人に会って話し、政治、経済、社会を自分の目で見ることだった。アジアの現場から文献には無い、多くのことを学ぶことができた。日本について考えるきっかけも得た。
当時は、アメリカのロバート・ソローやイギリスのJ.E.ミードを代表とする欧米の経済学者や、宇沢弘文、稲田献一などの日本の経済学者が中心となって、アメリカのいくつかの専門の経済誌に毎回のように新たな新古典派成長モデルが登場していた。宇沢弘文氏や稲田献一氏はいずれも従来は数学が専門の学者で、特に宇沢氏は東大で数学を学んだ後、アメリカに渡った人だから、経済学は数学の応用問題のようなものだったろう。数理経済学は日本人に任せておけ、と当時アメリカでは公然といわれていたとの噂を聞いたことがある。そのくらい、日本の理論経済学=数理経済学、といった雰囲気だった。
その宇沢氏がその後、新古典派批判をするのだから、面白い。大学院では、私の指導教授もアメリカの学者が書いた、若干数学を使った経済成長論の本を使って講義をしていたし、他の理論経済学者も新古典派の成長論を使って講義をしていた。
当時、多くの大学院生や若手の経済学者がそうした動きに関心を持ち、学会でも活発に議論され、日本の学会誌や専門雑誌をにぎわせていた。それもそのはずで、当時の日本は高度成長期の真最中であった。下村治、金森久雄といった官庁エコノミストが日本経済の高度成長を唱え、強気の議論を展開していた。ケインズ経済学派のハロッド=ドーマー・モデルと呼ばれる経済成長論を単に適用したにすぎない下村理論がノーベル賞をもらうのではないか、などと噂される時代だった。今から考えると、ノーベル賞の意味を専門家でさえ、ほとんど理解していなかったのではないかと思える。
こうした雰囲気の中で大学院時代を送ったため、私も最初はすっかり新古典派やケインズ派の成長論の魅力に取り付かれてしまい、新古典派成長論を中心とした修士論文を書いた。しかし、博士課程に進む段階で、新古典派の成長論を勉強すればするほど、私が研究生活を続けるとすれば、生涯をかけて研究する意味は何なのかに重大な疑問を感じるようになった。第1に、宇沢氏や稲田氏のように数学が強いわけではなく、また単なる理論を理解し、覚えるだけでは物足りず、次第に欧米理論を受容するという、単なる受身のやりかたへの関心も急速に薄れていき、代わって現実から出発したいとの気持ちが芽生えてきた。つまり、新古典派の理論はアジアにも当てはまるのだろうか、もし当てはまるのであればなぜアジアは発展しないのであろうか、さらには数学で表現できない現実があるのではないか、自分には理論はわかっていても現実については何も知らないのではないか、経済を含む社会科学の問題を数学や統計を当てはめるだけで簡単に解けるものだろうか、などなど、次々と疑問が湧いてきた。ところが、こうした疑問にきちんと答えてくれる人は当時誰もいなかったため、一人で悶々と悩む日々が続いた。

2)アジア研究への疑問と関心

そこで、まず自分が置かれた現実である日本とかアジアについて知る必要があるのではないか、と漠然と考え始めた。そのきっかけにはこれまた漠然としているが、沢山の要因が絡んでいたように思う。たとえば、日本がなぜアジアを侵略したのだろうか、アジアの人たちは日本をどう思っているのだろうか、また当時はベトナム戦争が始まったばかりで、ベトナム戦争反対の運動も盛り上がっていたため、ゼミでも何度か話題になり、そのこともアジアを考えるきっかけになったように思う。
 もっといえば、日本の経済成長は果たして例外なのだろうか、アジアに経済発展は無理なのだろうか、もしそうならその理由はなんだろうか、などという気持ちもあった。このようにある意味で、アジアが比較的身近に考えられる状況があった。しかし、大きく分けて、私には2つの重要な疑問があった。1つはアジアを研究することで、学問は成り立つであろうか、との疑問だった。この疑問は長く私の心を支配した。これには2つのことが関わっていると思う。1つは欧米の理論を勉強する意味は、日本では発達しなかった経済理論が欧米では欧米の現実に基づいてほぼ完璧なまでに発展し、非欧米のわれわれは明治維新以来、それを学ぶことこそ研究であるという伝統が存在すること。もう1つは、アジアの現実を知ることは欧米の理論を学ぶこととはまったく異なる意味があることだ。「アジアやアフリカの研究など研究ではない」と先輩に言われた、という話をある友人から聞いたことがある。恐るべき独善だと思う。アジアやアフリカの研究は、欧米の理論と同様に現実から理論を作る上で決定的に重要であり、逆に欧米の理論だけを学ぶのはその理論を使って現実を見るだけで新たな理論は生まれない。その意味で、両者はまったく異なる問題意識に関わっていると考えた。このことに気づいて以来、私はアジア研究に没頭することになった。ロンドン大学である講座に出席したこともそのきっかけの1つだった。そこではイギリスの博士課程の学生、学者や国連職員など、発展途上国、特にアジアやアフリカの研究者たちが中心になって、毎週開かれる研究報告会や講演会で、時にロンドンを訪れる発展途上国の政治家、役人、それに研究者を呼んで徹底的な討論をするものだった。
 アジアの研究の中で生じたもう1つの疑問は「日本だけがアジアで成長したとすれば、それはなぜか」ということだった。これには諸説あるが、いずれも私には納得できなかった。あるとき、友人に「君はイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』を読んだか」と聞かれた。当時ベストセラーになっていた、今は無き山本七平氏が書いたと本だが、まだ読んでいなかった。面白いよ、ということだったので、早速買って読み、大変関心を持った。それ以後、沢山の日本人論を読んだが、中でも中根千枝氏の『タテ社会の人間関係』など、内外の研究者が書いた数冊が私の関心を刺激してくれた。これらの本を読んでいる間は、私のアジア研究や経済学研究とは結びつかなかった。だが、その後ロンドン大学(LSE)に留学している間に、徐々に両者は結びついていき、欧米社会と非欧米社会での大きな歴史的・文化的相違が経済に影響しないはずはないと考えるようになった。
 
アジアの問題に戻ると、当時、大学院のゼミは経済政策論や理論経済学を対象にしており、そこには8名の修士課程のゼミ生の中に、台湾からの留学生が2名と香港からの留学生1名がいた。彼らからある程度台湾や香港について知ることはできた。彼らに中には、中国語を教えようか、といってくれた人もいた。
 しかし、アジアをもっと広く知りたいとなると、簡単にはわからない。当時アジアについての文献を探しても、適当なものは見つからなかった。欧米、特にアメリカには発展途上国、特に南米諸国の開発を論じたさまざまな文献があることは後ほど知ったが、アメリカにもアジアに特化した文献はほとんど存在しないようだった。日本では、わずかにオランダのブーケが書いた『二重経済論』やイギリスのファーニバルが書いた「複合社会」論などが知られている程度だった。もちろん、特定の国の経済や歴史などの文献を除けば、アジアの社会や文化を論じた日本語の文献はほとんどなかったといえるでしょう。もっとも日本が植民地化していた台湾、韓国、それに中国に関して、歴史や民族などに関する、特定の角度から研究した文献はあるにはあったが。 こうして文献でアジアを知りたいとの願望は充足されないまま、直接アジアに行ってこの目で確かめたい、という願望が日に日に募っていった。ついにアジアに出かける機会がやって来た。652月から3月にかけてのことで、私は当時大学院の学生だった。アジアについての何の知識も無く、私は無謀にも始めての海外旅行なのに、ひとりで行くことになった。無知ゆえに、何らの不安も感じなかった。だが、実際には道中さまざまなことがあり、今それらのことが走馬灯のように頭を駆け巡っている。それらの一部をこれから書くことにしたい。

3)シンガポールとの出会い:「タルボット・ハウス」

私はまずマレー語とかインドネシア語を勉強したことがなかったため、アジアの研究をするとしたら多少はわかる英語である程度通じるシンガポールとマレーシアにしようと考えていた。しかし、当時はまだ特定の国の研究をしたいとは思わず、「アジア」を知りたいと考えていたため、できる限り多くのアジア諸国を見たいとも思っていた。そこで、上記の国に近いタイ、インドネシア、フィリピンを訪問することにした。他にはついでという事もあって、友人のいる香港や台湾、そして独立前の沖縄などを訪問したが、それらの国または地域のことは別の機会に書く予定だ。このため、これから何回かにわたって最初に訪問したシンガポール、タイ、インドネシアでの経験を中心に紹介したいと思う。順序から言えば、タイが先だが、最も関心を持ち、最も印象深いシンガポール(それに当時はマレーシア連邦からの独立以前)から始めようと思う。ただし、最初に訪問してからすでに50年近くが経過するため、かなり記憶が薄らいでいるので、ところどころ具体性に欠けるきらいがあるが、勘弁していただきたい。
 1965年3月当時はまだシンガポールはマラヤ連邦から独立しておらず、シンガポールにはイギリス軍が滞在していた。当時のシンガポールとマレーシアの間は自由に往来でき,私も若干だが、マレーシアにも行った。後で知ったのだが、当時の両国は独立を巡ってさまざまな確執があった。そのことについては、機会を見て取り上げたいと思う。
 さて、私にはこれといって知り合いも無いまま、タイを経由してシンガポールに行った。私にとって初めての熱帯の国であるタイは今後取り上げる予定だが、強烈な印象を私に与えた。バンコクには最も暑い午後2時ころに着いたため、町には人の姿をほとんど見かけず、まるでゴースト・タウンのような感じを持った。初めて見る熱帯の国だった。そのことがタイから行ったシンガポールやインドネシアでも役立った。
 シンガポールのホテルは旅行代理店に頼んでオーチャード通りにあるメリタス・マンダリン・ホテル(現在マンダリン・オーチャード)を予約し、ただ一人知っているHさん夫妻に連絡を取り、日本からは香港とタイを経由してシンガポールに行った。現在のチャンギ国際空港は1981年に開港した、大きくて、立派な空港だが、当時はまだ古くて狭い空港だった。空港の名前は記憶に無いため、調べてみると、当時はバヤ・レバー空港といい、現在も空軍基地として利用されているそうだ。
 Hさん夫妻は日本で知り合ったのだが、奥さんは日本人、ご主人は日本に留学経験のある華人の方だった。マンダリン・ホテルは高級ホテルで、かなり高かったことを覚えているが、他に安いホテルがあることも知らず、仕方が無くそこに落ち着いたのだった。ホテルに着くと、早速Hさん夫妻がやって来てくれた。ご夫妻によれば、「このホテルは高すぎるから、キャンセルした方がいいよ、私たちが別の安いところを探しておいたから、そこに移るように」、と指示された。そのため、マンダリン・ホテルには1泊しただけで、ご夫妻の意見に従って、安い宿泊所に移ることにした。それはYMCAが経営する「タルボット・ハウス」(以下、「Tハウス」と呼ぶ)という名前の、ある種の民宿だった。民宿と言っても、かなり立派なものだった。なぜかこの名前だけはよく覚えている。その後も、滞在中このご夫妻には何度もご主人が運転する車であちこちに連れて行ってもらい、当時の日本領事・春日さんを紹介してもらった。Hさん夫妻は無知で未経験の私を大いに助けてくれ、シンガポールについての知識と経験を少しずつ増やすことができた。春日さんにも大変お世話になった。
Tハウス」の館長は60歳そこそこのイギリス人で、シンガポールに来る前は神戸のYMCAに勤めていたとのこと。そのせいか、日本人でただ一人の私に、館長は大変やさしく、気遣ってくれた。毎朝、宿泊客全員と館長とが大きなテーブルを囲んで、朝食をとるのだが、館長は必ず私に声をかけてくれた。よく眠れましたか、昨日はどこに行きましたか、今日はどこに行きますか、今晩は9時からお茶の会を開きますので、ぜひ参加しませんか、などと誘ってくれた。手紙を出したいのですが、と言うと、ここに切手がありますよ、とすぐに出してくれる。館長にはなんでも相談することにした。 ある晩、館長の誘いに従って、お茶の会に出席した。「Tハウス」の2階に会議室があり、いつもはそこで若者たちが1時間でも2時間でも、ジュークボックスで音楽を聴きながら、陶酔したように歌い、ダンスをしていた。当時はビートルズが大流行しており、特にイギリスの若者の心を捉えているようだった。始めて見る光景に、私も見とれていた。その会議室である夜、会合が開かれた。そこには外部から30代から60代くらいまでのイギリス人男女合わせて20名前後が集まっていた。最初は何をするのかと思い、じっと話を聴いていた。どうやら、特別な目的はない様子で、手作りのクッキーなどを食べ、紅茶を飲みながら、9時に開始し11時過ぎまでひたすらしゃべることが目的らしい。話の詳しい内容はほとんど忘れてしまったが、たとえば、当時はやっていた女性のミニスカートをどう思うか、などが話題になっていたことだけははっきりと覚えている。もっとも、当時はマレーシアとインドネシアが対立(コンフロンタシ)状態でしたので、その話も出ていたと思うが、政治的な話はあまり出なかったように思う。

4)蚊の大群に悩まされ・・・

11時過ぎになって会合が終わり、そろそろ部屋に帰ろうかと思っていると、30代半ばと思われる一人のイギリス人男性が話しかけてきた。何をする人かと聞くと、ビジネスマンだという。「これからマレーシア側にある私の家に来ませんか」という。なぜそんなことを言うのか理解できないでいると、館長が近づいてきて,「○○さんは今夜あなたを家にお連れし、明日マレーシアを案内したい、といっています」と言う。とっさに答えられないでいると、館長が「大丈夫です。いい経験にもなるから行ってきなさい。」と言う。あまり気乗りはしなかったが、それでは仕方がない、とあきらめて行くことにした。彼の家はおよそシンガポールから100kmほど離れた農村地帯にあった。ほとんど車が通らない、夜中の高速道路を、彼の大型車は時速100km以上の猛スピードで突っ走っていった。車の外にはジャングルやうっそうと茂った樹木が車のライトで見えるだけだった。1時間ほど彼と話しながらの、爽快な夜のドライブを楽しむうちに、彼の邸宅に到着した。
 それが現在のマレーシアのどのあたりだったのか、さっぱり分からなかった。その後、30年ほどして、私はマラヤ大学(UM)とセランゴール産業大学(UNISEL)で教えるために、2000年から2001年にかけてマレーシアに滞在することになり、当時を思い出しながら車であちこち走った。しかし、そこがマレーシア半島の南端であることしかわからず、結局どのあたりだったのかさっぱり見当もつかなかった。今回(今年8月)にマレーシアを訪問し、知人に話したら、当時のことはよく分からないとのことだった。彼の家に着いても、誰も出てこないところを見ると、どうやら彼は独身らしい。他に人は誰もいないようだった。彼に聞いてみると、今は夜中だから誰もいないが、マレー人のお手伝いさんが2人いるとのことだった。夜なのでよくはわからなかったが、かなり大きな木造の屋敷で、いくつもの部屋があるようだった。端っこにある部屋を指して、「今夜は、この部屋に泊まってください。ゆっくり寝てください。明日の朝、私が起こしに来ますから。」と言って、彼は出て行ってしまった。
 そこで、ほとんど使われていないらしい、がらんとした10畳ほどもある部屋に大きなベッドが1つぽつんとあり、その上に毛布が置いてあった。電気がどうなっているのか、部屋がどういうつくりなのか、細かいことはさっぱりわからず、いざと言うときどうしたものかと、不安を感じながら、疲れて眠かったため、電気を消して真っ暗闇の部屋に鍵をかけ、早速寝ることにした。ところが、ベッドに横たわって、10分もすると、ものすごい泣き声をたてて何かの大群がやってきた。最初は何がなんだかわからなかったが、考えてみたら、ここは熱帯の国であり,蚊に違いないととっさに悟った。追い払っても追い払っても、やって来て体中あちこちを次々と刺すのだ。これにはほんとうに参ってしまった。蚊に刺されたらひょっとしてマラリアにかかるのではないか、マラリアの予防注射を打ってこなかった、どうしたらいいだろうか、などと、最悪の事態を予想しながら不安で頭がいっぱいになった。必死で考えても、何もいい案が思い浮かばない。何とか○○氏に連絡したい。ところが彼がどの部屋にいるのかさえもわからない。真っ暗やみの中で、何度か呼んだが返事がない。仕方なく、毛布を頭からかぶって寝ることにしたが、暑くて寝られない。ここに来たことを心から後悔しましたが、いまさらどうしようもない。
 蚊の泣き声におびえながら、当初は体中をぼりぼりかいていたが、いつの間にか蚊にかまれながら、疲れて寝てしまった。数時間寝て、朝起きてあちこち見てみると、腕や足、顔などいたるところ血だらけになっており、○○氏も「どうしましたか」などとのんびりしたことを言う。幸いマラリアにはかからずにすんだが、今では思い出したくもない、命がけの体験だった。


5)イギリス兵と

Tハウス」には安く泊まれるとあって、当時20歳前後のイギリス軍の兵士や将校がたくさん泊まっており、欧米からの旅行者も結構たくさん泊まっていた。日本人は自分だけだったので、珍しがられたらしく、何をしに来たのか、とか、仕事は何をしているのか、などとあちこちで聞かれた。彼らとはすぐに親しくなった。カナダから来た学生とイギリス人の若者が、今からヨットに乗りに行くが、一緒に来ないかなどと誘ってくれたが、気乗りがしなくて断ることにした。ようやく海外に出られた自分にとっては、ずいぶん優雅な若者がいるものだと思わずにはいられなかった。
Tハウス」には1週間ほど滞在していたので、滞在期間中に経験したエピソードらしきものを2〜3紹介しておこう。毎朝5時半頃になると、チャイナ・ドレスを着た若い女性が一人ずつのベッドを回って、「ティ オア カフィ?」とかなり大きな声で、聞きに来る。最初は何を言っているのか理解できなかった。こうした習慣は日本には無いため戸惑うほかは無かったが、そんな習慣がイギリスにあることを知り、びっくりした。欧米人は、大抵は「ティ」とか「カフィ」と答えるが、私はほとんど一度も頼まなかった。第1、ベッドで起き掛けに紅茶やコーヒーなどを飲む習慣がない日本人にはそうした欲望がわくはずもなかったから。特に、私は日本でも外国でも、朝起きて何かを口に入れる前には必ず何度もうがいをしないと、なぜか口に入れることができない。わざわざ飲みたいわけでもないコーヒーを飲むために、眠くて仕方がない中をベッドから起きてうがいをしに行く気にもなれなかったため、結局一度も頼まなかった。変な日本人と思われたかも。
 滞在期間中、毎日のように夜遅く寝て、朝はできるだけゆっくり寝たいと思っていたため、朝早くから起こされること自体、あまりうれしくなかった。毎日夜更かしをしていたのは、滞在2日ほどたったころ、20歳前後の若いイギリス兵たち数人と親しくなり、将校も含めて4〜5人と付き合い、毎晩のように遅くまで飲み歩いていたから。もっとも当時の私自身はそれほど酒が強いわけではなく、ただなんとなく付き合っているという程度だったが。彼らは5〜6人が連れ立って徒歩4050分ほどのところにある馴染みのバーに毎晩のように食事が終わってから、歩いて行く。そのバーといえば中はほとんど真っ暗で、目の先30センチも見えないほど暗い部屋に男女がぎっしり座ってだべりながら、飲み続ける。黙っていると、誰が隣にいるのかさえわからないほどでした。バーの女性も暗闇の中で、私の顔に自分の顔を近づけて来て、「あなたはアイリッシュか」などと聞く。日本人がいるとは思えなかったのか、それともイギリス兵と一緒だったので、勘違いしたのだろう。
 あるとき、イギリス人が、「そうだ日本人女性がいるぞ」と言う。すると、他の女性が「××ちゃん、こっちおいでよ」とその日本女性を呼ぶ。すると、暗闇なので、どこからかは不明だが、日本人女性がやって来て、私に「日本人ですか」と聞く。「そうですが、いつから、どうしてここにいるんですか」と聞くと、「シンガポールには戦前からいて、そのまま終戦になっても日本には帰らないで、シンガポールにいるのよ」と言う。そして仕事が他にはないから、ここでずっと働いているの、時々、日本人のお客さんが来るので、相手をしているんです、などと言う。いろいろな話をしたが、今はほとんど憶えていない。もちろん、暗かったせいもあって顔もほとんど記憶が無いが、40歳前後だったように思う。ときどき、飲んだ帰りにみんなでだべりながら歩いていると、あちこちから「カモン。ステイ・ヒア」などと言う大きな声が聞こえる。誰かと思ってみると、頭に白いターバンを巻き、ひげを生やしたいかついインド人が鉄砲を持って、店の前に簡易ベッドを置いて寝転んでいる。彼らは用心棒に雇われた人たちだ。近づくと、いろいろしゃべる。話し相手になってほしいらしい。ひとしきり話しているうちに、すぐに時間が経ってしまい、「Tハウス」に帰ると夜中の12時を回っていた。こうした光景は香港でも見たことがある。
 先ほどの女性に限らず、アジア各地で戦後になっても帰国せず、男性ならそのまま現地の女性と結婚するなどして、滞在し続ける人にあちこちで出会ったが、彼らの心境というか、心の内を聞かせてもらう機会はついぞなかった。彼らの表情や顔色は陽に焼けて現地の人たちとほとんど変らなかったが、それでもどこか現地の人とは違うものを感じたものだ。彼らの心境は複雑だったろうと思う。
 イギリスの若者にはときどきショッピングに付き合ったり、誘われてイギリス軍のキャンプにも行った。キャンプの中にはたとえば、レストラン、プール、売店、喫茶店、新聞、雑誌、タバコなどの販売店、娯楽場などなど、ほぼ何でもそろっていた。あるとき、イギリス兵がキャンプに行こう、と言うのでついて行き、中にあったプールでひとしきり泳いだ後、食事しコーヒーを飲み、音楽を聴いた。売店にも行った。イギリス軍がスエズまで撤退したのは、65年の9月のこと、シンガポールがマレーシア連邦から独立するのもこの年の8月のことだから、私が滞在したのはそのわずか半年前のことだった。

6)オーチャード通りの今昔

 その後、何度もシンガポールには行ったが、行くたびに変化し、あっという間にシンガポール最大の繁華街オーチャード通りは急速に美しく、立派なビルが建ち、華やかで豪華になっていった。最近のオーチャードどおりは世界でも最も長く、1年中夏が続くため、年間を通じて人口密度が最も高いショッピング・ストリートであろう。全長2kmほどの道を観光客がすきまなく歩く姿はニューヨークで見る風景にどこか似ているが、東京やロンドンでもこれほど年中にぎやかなところはないだろう。世界中の都市はどこも似ていると言う人がいるが、似ている部分もあれば、似ていない部分もある。たとえばロンドンのコベント・ガーデンあたりは伝統と格式が生きており、歩くだけで実に楽しく、美しい。私が大好きな町の1つだ。歩いているだけでリラックスした気分になる。ちょっと裏通りに入ると、コーヒー・ショップやパブがあり、骨董屋さんから古本屋さんまであり、コーヒー・ショップの主人と話すのも実に楽しい。何度でも訪れたい町だ。
 オーチャード通りはおそらくどこの都市より豪華でにぎやかで、安全で観光客向きだが、商売熱心な人が多く、ショッピングには向いているが、伝統や格式となると寂しい。それでもオーチャード通りにはそれなりの魅力があって、何度でも歩いてみたいところだ。
 65年当時のオーチャード通りを思い起こすと、いかに現在のそれとの違いが大きいかがわかる。たとえば、シンガポールは雨季になると毎日雨が降る。雨があがったあとでも,オーチャード通りの並木の下を通るのは難しい。なぜなら木々の葉にたまった雨水がぽつぽつと絶え間なく落ちて来るので、そこを通るときには気をつけないとたちまちぬれてしまうからだ。65年当時のオーチャード通りはまだ舗装されていなかったため、革靴で歩くとすぐに濡れて汚れてしまう。今では考えられないがシンガポールばかりか、アジアを訪問する場合には、しばしば長靴を持参したものだ。今のきれいな舗装道路を見ると、うそのような話だ。通りにはネオンサインもほとんどなく、暗くて、建物は低く、古く、そして人通りも少なく、車もほとんどなくて静かだった。言葉で表現するのはちょっと難しいが、当時歩いたバンコク、ジャカルタ、香港などと比べて特に大きく変わったことはなかったが、やや遅れていたように思う。ちょっと裏通りを歩くと、犬がけだるそうに寝転んでおり、郊外に出ると、沢山の露店があり、そこで食事したり、ショッピングしながら歩くのも楽しかった。いまや政府の指示ですべて撤去させられてしまったため、雰囲気はがらっと変わってしまい、かつての面影がなくなり、きれいにはなったが、残念な気もする。
 いまはシンガポールのどこからでもオーチャード通りに簡単に行ける。バスやタクシーはいうまでも無いが、何と言っても便利なのは地下鉄だろう。縦横に走る地下鉄は便利だ。車なら渋滞するが、地下鉄なら予定通り目的地に着けるから。
 最近もときどきオーチャード通りを歩くが、当時はオーチャード通りを散策することはほとんどなく、ただ所要があって歩いた記憶しかない。写真だけは沢山取った。そのときの写真が手元に残っているが、小さくて写りが悪いため、今年8月に訪問したときとってきた写真の中から数枚を掲載しておこう。オーチャード通りの建物も名前も表面は変わったが、同じ場所に同じような店が残っているところもある。オーチャード通りのはずれの方にはかつて「アンパン」を売り出して有名になった「ヤオハン」があったが、今はショッピング・モールに変わり、もはやその跡形もないのは寂しい限りだ。「ヤオハン」は日本のスーパーとしてアジアで最初に成功したが、そのきっかけが当時は珍しかったアンパンを毎朝1500個ほど売りだし、買い物客が殺到したため、整理券を発行したと聞く。その「ヤオハン」もいまは消えてしまった。
 オーチャード通りの真中辺りで、私が最初に泊まったマンダリン・ホテルの隣は長い間空き地だったが、今やそこには高級デパート・イメージの高島屋が建ち、周辺には有名な高級ホテルや豪華なビルが立ち並び、かつては日本人観光客を当て込んで建設した高島屋や伊勢丹が構えており、フェラガモ、エルメス、ルイ・ヴィトン、シャネル、プラダなどの高級ブランド店がいかにも高級なイメージを与えている。しかし、最近は日本人客もめっきり減り、代わって大陸からの中国人や欧米人が増えたように思う。かつての安いものを買って歩いたショッピング通りも余程のお金がない限り、楽しくなくなってしまったように感じる。もっとも、いまやシンガポール人の一人当たり所得(購買力平価で)は日本を越えたともいわれるだけに、金持ちの欧米人、最近の中国人、そしてシンガポール人には気にはならないかもしれません。それにしても、日本人の姿が少ないのはやはり寂しい。

    

夜のオーチャード通り     若きベンチャー・ビジネスマン夫妻と

   シンガポール議会          最も古くて格式あるホテル・ラ                   ッフルズ

W シンガポール大統領選挙と多様化する国民意識
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辻 忠博

アジア近代化研究所研究員・監事、日本大学経済学部教授

 2011827日、シンガポールで大統領選挙が実施された。57日には総選挙が行われたので、2011年はシンガポールにとって選挙の年であるといえよう。投開票の結果、シンガポールの第7代大統領に元副首相のトニー・タン(Tony Tan)氏が就任することになった。任期は91日からの6年間である。
 シンガポールの大統領は基本的には儀礼的な存在にとどまるが、政府資金の使途に拒否権を発動できる権限を持っている。その意味では、大統領はシンガポール国民を代表するとともに、国民の財産を管理するという役割も担っているのである。こうした重責を務める大統領を選ぶ選挙は6年ごとに行われることになっている。出馬するには一定の条件を満たさなければならず、大統領選挙委員会が候補者になるのを希望する者に対して資格審査をしている。その資格には、総選挙と同様に供託金を納めることに加えて、法定機関または資本金1億シンガポールドル以上の企業の会長かCEO(最高経営責任者)を3年以上経験しているという条件があるのが特徴といえる。
 シンガポールにはこれまで6人の大統領が就任している。初代大統領(ユソフ・イシャク、Yusof Ishak)から第2代大統領(ベンジャミン・シアーズ、Benjamin Sheares)、第3代大統領(デヴァン・ネア、Devan Nair)、第4代大統領(ウィー・キムウィー、Wee Kim Wee)までは、政府が大統領を任命してきた。1991年に憲法が改正され、大統領選挙が公選制に移行することになった。この新しい制度の下で1993年に実施された大統領選挙では、副首相を経験したオン・テンチョン(Ong Teng Cheong)が総投票数の54.22%を獲得して、元高級官僚のチュア・キムヨー(Chua Kim Yeow)を破り、第5代大統領に選出された。しかし、深刻な病魔に見舞われたオンは一期限りでその座を降りることになり、1999年に第6代大統領を決定する選挙が行われることになった。それに立候補したのが現職のナーザン(S.R. Nathan)である。同氏は1955年から行政に携わり、1990年には駐米大使を務めた高級官僚であった。同選挙には対抗馬が現れず、結局、無投票当選でナーザンが第6代大統領に就任し、任期満了の6年後も再び無投票でナーザンが大統領に再選され(正確には、候補者資格を得たものがナーザンのみであったということ)、現在に至っている。このように、大統領公選制が導入されたものの、現実には複数の候補者の中から国民が選択するということには必ずしもなってこなかった。
 しかし、今回の大統領選挙の特徴はこれまでとは全く異なる様相を呈し、手に汗を握る選挙となったのであった。そもそも今回、大統領選が行われることになったのは、現職のナーザン大統領の任期満了に伴うものである。しかし、大統領選出馬について態度を保留していたのを覆し、71日に明確に高齢のため(自身は現在87歳)出馬しないことを明言したことで、誰が候補者になるかという話題に一気に火がつくことになったのであった。そこで、国務資政(senior minister)のジャヤクマール(S. Jayakumar)や前外相で5月の総選挙で落選したジョージ・ヨー(George Yeo)など様々な名前が取りざたされては、消えていった。実際、彼らはマスコミの取材に対して即座に不出馬の意向を明言したわけではなかったし、特に、ジョージ・ヨーは落選直後に大統領選出馬の意向を問われた際にきっぱりとその可能性を否定したにもかかわらず、自身のブログでその可能性について真剣に検討していると表明したと伝えられたことにより、与党側の公認候補者選びは混迷している様子であった。大統領は中立の立場でなければならないという大統領選挙規定から、いかなる政党にも所属してはいけないことになっている。しかし、候補者がいかなる政治的背景を持っているのかということは自明であることから、本稿では与党候補者などという表現を用いている。
 大統領資格審査の結果は811日に公表されたが、申請書提出者6人のうち、2人が資格を有しないと判断され、4人が最終的に大統領選挙の候補者として選挙戦を戦うことが認められた。資格なしと判断された2人のうちの1人はアンドリュー・クアン(Andrew Kuan)で、JTC公社(インフラ開発の中心的企業)のCFO(最高財務責任者)を務めた経験を持つ。しかし、大統領選挙委員会は、CFOCEOと同等の地位と経験を有しないということで同氏には大統領選挙候補者になる資格はないと判断した。実は、クアンは前回の大統領選挙にも立候補すべく資格審査を受けたが、その時も同じ理由で資格審査を却下されている。もう1人はウーイ・ブンユー(Ooi Boon Ewe)で、人民自由民主党(People’s Liberal Democratic Party)の党首として5月の総選挙に臨んだが、落選。そこで、今回の大統領選の資格審査を申請したが、資格基準のいくつかの免除を求めたことで資格なしと判断された。結局、残った4人は以下のとおりである(出馬表明の時期が早い順に紹介)。
 まず、タン・チェンボク(Tan Cheng Bock)。彼は医師であると同時に、チュアン・ハップ・ホールディングズ会長を務めているが、元は与党人民行動党(PAP)の国会議員であり、26年間シンガポールの国政を担ってきた一人である。4人の中では最も早い527日に出馬表明をし、大統領選に強い意欲を示していた。同氏は現役時代、与党議員でありながら、歯に衣着せぬ物言いで、政府批判を全く恐れない大物政治家として人気があった。次に、タン・キムリアン(Tan Kim Lian)。シンガポールの御用労働組合である全国労働組合会議(NTUC)傘下の協同組合組織の保険会社であるNTUC IncomeCEOを務めた。資格審査では、協同組合形式の会社が資本金1億シンガポールドル以上の企業に相当するかどうか議論があったが、資格ありと判断された。彼もPAPの国会議員としての経験があり、選挙区の支部長を務めたこともあるが、時折、シンガポール民主党(Singapore Democratic Party)や国民団結党(National Solidarity Party)の活動に同調することがあった。63日に出馬表明をした。
 第3の候補者は、トニー・タン(Tony Tan)である。シンガポール政府投資公社副会長、シンガポール・プレス・ホールディングズ会長、華僑銀行(OCBC)CEOなどを歴任したが、元副首相など政府の要職を経験し、シンガポールの国政に尽力してきたことには議論の余地はない。実はトニー・タンとタン・チェンボクは年齢が同じ、国政に入ったのも同期で、しかも、2人とも与党の大物政治家ということで、これまでの大統領選挙戦では見られない状況となった。トニー・タンの出馬表明は623日とタン・チェンボクにほぼ1か月遅れであったが、政府のお墨付きを得ているものと一般的にはみなされていた。
 715日に出馬表明をした最後の候補者は、これもまたシンガポールの大統領選挙史上初のことであるが、野党出身のタン・ジーセイ(Tan Jee Say)である。彼は11年間の公務員時代の長くを貿易産業省で過ごし、ゴー・チョクトン(Goh Chok Tong)副首相(当時)の筆頭私設秘書を務めたのち、資産運用会社の地域経営責任者(CEO相当の地位)を経験した。また、5月の総選挙では、シンガポール民主党から出馬し、落選している。野党候補者の中では、唯一立候補資格を獲得したが、周囲からは職歴からして候補者としては不適切ではないかともささやかれていた。
 これらの4人で行われることになった大統領選挙は、偶然にもすべての候補者の姓が同じであることから、「タン氏の戦い」とも言われて、マスメディアが投票行動について様々に予測した。それによると、1つの見方は、与党PAP支持者の票がトニー・タンとタン・チェンボクに流れ、野党支持票はタン・ジーセイとタン・キムリアンが分け合うという構図であった。もう1つの見方は、トニー・タンと他の3人との戦いというものであった。大統領選に対する国民の関心は高く、有権者約227万人のきわめて多くが実際に投票所で一票を投じ、投票率は94.65%を記録した。即日開票の結果、基本的には与党支持票はPAPの元大物議員に流れたとはいえ、それぞれの得票数は伯仲し、トニー・タンが74万票を獲得したのに対して、タン・チェンボクも74万票に迫り、野党候補者のタン・ジーセイも約53万票を獲得した。27日夜、ストレイツ・タイムズ紙がトニー・タンとタン・チェンボクの差は7600票と速報したところ、タン・チェンボクが票の再集計を要求した。大統領選挙規定では、上位二名の得票率の差が2%未満の際には再集計を求めることが認められており、これを受けて、大統領選挙委員会はすべての票の再集計を許可、最終的に各候補者の得票数が確定したのは翌日28日の午前425分までずれ込んだ。最終結果は、トニー・タンの得票率は35.19%、タン・チェンボクは34.85%とその差はわずか0.34%、得票数で7269票でしかなかった。野党候補者のタン・ジーセイが25.04%を獲得したことは健闘したといえよう。
 このように、今回の大統領選挙の様相はこれまでとは一変し、5月の総選挙を再現させるかのような盛り上がりを見せることになったのであった。政府お墨付きの候補者は安泰であるという神話の崩壊、与党候補者同士の競り合い、野党候補者に対する支持の高まりは、いずれもシンガポール独立後に実施された総選挙や大統領選挙では見られるものではなかった。トニー・タンと最後まで競り合ったタン・チェンボクは、自身の出馬が国民に考えさせるきっかけを与え、国が認めた候補者を追認するのではなくて、自分たちが欲する候補者を自ら選択する責任があることを知らしめることができれば本望であると、選挙結果確定後の敗戦の弁で支持者に対して述べている。今回、まさにシンガポール国民は自らの意思を投票行動に反映させたのである。IAMニューズレター第11号(2011715日刊)の巻頭言で、PAPは国民の信頼回復を実現できるか、野党は総選挙の勢いを拡大させることができるかが今後のシンガポール政治の行方のカギを握る、と筆者は述べた。今回の大統領選挙では、与党票は有権者の7割に達したとはいえ、その票はほぼ等しく二分され、各与党候補者はそれぞれ35%前後の得票率にとどまった。その一方で、野党候補者は有権者の25%の票を得たのである。国民の政治に対する意識が多様化していることが、5月の総選挙で具体化され、その勢いは未だ衰えていないことが今回の大統領選で明らかになった。PAPに寄せられてきた絶大な信頼の翳りとPAPに代わるものに対する支持の拡大は単なる流行ではなく、国民の真の願いかもしれない。

X ムンバイから見たインドの近況報告(印刷用pdf) 

上原 秀樹 (農学博士)

アジア近代化研究所副代表

明星大学教授

著者は311日の大震災直前に、中国でも投資活動を行っているある著名なアメリカ人の投資家と話す機会を持つことができた。その時彼に、経済成長が著しいインド国内で投資活動を実施しない理由は何か聞いてみた。彼は、投資顧問会社を経営しながら社会貢献も目指しているが、米国ヒルトン財団(Conrad N. Hilton Foundation)が提供するグローバル的な「人道主義賞」の2011年度の受賞候補リストにも名を連ねたことがあり、米国の慈善団体でも知られている人物である。冒頭の質問に対し、彼曰く、「あまりにも汚職、賄賂がひどいので、投資を控えているのだ」。そして彼はうんざりした顔で次のように続けた。「すでに上海を拠点に中国でも事務所を設け、投資活動を行っているが、インドと同じで、賄賂が横行しているので、規模を縮小し、昨年から事務所は部下に任せている」という。
 ところで著者は、今年8月初旬にインド最大の金融・貿易都市であるムンバイ市(特にムンバイ北部のThane地域)近郊において中間所得層を対象に、文部科学省科研費による食料消費と家計の実態に関するアンケート調査を行ってきた。当時滞在中のホテルでは、毎晩のように多数のテレビ番組で放映されていたのは、ムンバイ名物のボリウッド映画ではなく、インド議会における「汚職防止対策法案」に関する白熱した討論であった。当然ながらこれらの番組に見入っていたが、残念ながらムンバイ滞在中は、その法案の結末を知ることはできなかった。しかし帰国直後に、以下のようなニュースが流れた。
 2011828日の時事通信によると、「現代のガンジー」と呼ばれるインドの著名な社会活動家であるアンナ・ハザレ(Anna Hazare)は、中央政府のすべての公務員を汚職捜査の対象とするなど、より強力な法律すなわちJan LokPal Billの制定を求め、首都ニューデリーで大規模ハンスト集会を続けてきた。ハンガーストライキに参加したのは、もちろんアンタッチャブルなどの底辺層ではなく、マスメディアを中心とした知識階層の一般市民がほとんどである点に注目すべきであろう。中国同様にこのハンストの拡大にも携帯電話を含むネット情報が果たした役割は大きい。しかし、インド議会が827日夜、アンナ・ハザレが求めている厳格な汚職対策法案の一部を「原則的に承認する」との決議を採択したことを受けて、彼自身は13日間にわたって実施していたハンストの終了を宣言したのである。これによってインド主要都市に拡大しつつあったハンストによる社会運動はひとまず収束してきている。
 しかし国際的NGOTransparency Internationalが公表している腐敗認識指数の世界ランキングでみる限り、2006年以降2010年までの指数(最高指数10は腐敗がほぼ皆無とみなす)は3.43.5と停滞し、世界ランキングでも70位から87位まで徐々にその順位を落としてきているのがインドである。同期間において、インド経済の実質GDPのパイが25%以上拡大した分、賄賂・腐敗が末端の公務員まで拡大しているのではないか。例えば、Transparency Internationalによると、過去1年間に公共サービスを受ける際に賄賂を支払った経験があるインドの家計は、全世帯の54%にも上るという調査結果を出している。この54%の中には、賄賂を受け取った家計も多数存在するであろう。
 さ
らに、次の図で示した著作権の侵害に関するインド政府のデータを参考にしていただきたい。それによると、インドはパキスタン、ベトナム、中国などよりも低いものの、世界でも著作権侵害の著しい国の一つとなっている。さらに、The Economic Times 2011811日)によると、政治家と官僚を中心としたインド国民のスイス銀行への預金は徐々に減少しているもののその額は世界一だという報告を行っている。つまり、今回のJan LokPal BillLokPalはサンスクリトで一般市民を守る意味を持つ)の法案が通過し、独立的な捜査・監視機関がインド議会によって創設されても、インド社会の根底に深く根付く賄賂・腐敗の意識をなくすのは容易ではない。ガンジーのように非暴力主義によって国民共通の敵である外国人を追い出し独立を勝ち取ることができても、彼に倣って、非暴力主義でアンナ・ハザレが汚職対策法案を勝ち得て成立させても、その法律による規制だけでは多言語社会で人種的にも完全には一致しない自国民の意識をそう簡単に変えることはできないのだ。今後は腐敗撲滅に向けて、より困難な戦いの時代がインド社会では待ち受けている。

19376月生まれ74歳の独身アンナ・ハザレは、ムンバイを州都とするマハラシュトラ州の出身で、幼少のころは貧困ゆえだいぶ苦労したようである。Transparency Internationalの情報によると、元軍人でもある彼は、インド軍から支給されるペンションだけで質素な生活を送っているが、州都のムンバイ市を拠点に社会運動を進めている。彼は、「穀物銀行」も手掛け、食料増産と農村社会開発を成功させた。特にRalegan Siddhi村の事例ではインドだけでなく世界的にもその名が知られているが、2008年度には公共サービスで貢献した人物に与えられる世界銀行のJit Gill Memorial Awardを受賞している。アンナ・ハザレの世銀からの受賞の背景には、12億を超えるインド人の70%以上が農村で暮らしかつ貧困層を形成していることがあげられる。農村においては、それだけの人口を支える食料増産と安定供給が求められているのである。さらに、ITのみに限定せず、インド経済の製造業部門とサービス部門を持続的に発展させるためには、都市部労働者に対し安価な食料を安定的に供給することが必要であり、それゆえ農業・農村開発に関する適切な政策的対策が最も重要な位置づけとなっている。しかし、アンナ・ハザレを支援し、汚職対策法案の成立に向けてハンスト集会に参加・支援したインド国民のシン政権と政府に対する不満と感情は複雑で、汚職問題のみに集約されるような単純なものではない。社会構造の問題から人種および政治・経済的な問題まで実に様々な要因が絡み合っている。本稿では、日本のマスコミでも取り上げられたインド富裕層の「食べ残し問題」とここ数年の食料価格の高騰およびインフレに対する国民の不満が表面化した政界の腐敗をきっかけに、ハンストを拡大させた背景の一つとして挙げておこう。「食べ残し問題」は、経済発展に伴う貧富の格差拡大の実態も表面化させることとなったが、富裕層の台頭と食料需給のアンバランスが食料価格の高騰を招いている。このことについて、以下のGDPの実質成長率と食用穀物生産および消費者物価指数の変化率を表した図(出典:Statistical Yearbook of India, 2010)を参考に少し説明を加えておこう。

 上の図中では、消費者物価指数が2008年の9.1%から2010年は二ケタ台の12%まで上昇しているのに対し、GDP6.7%から8.5%、穀物生産は1.3%から5.3%まで(ただし2009年はマイナス)の成長にとどまっている。要するに、この3年間に、高い経済成長率(国民所得の上昇)とともに食料需要は増大しているが、しかしそれに見合うような食料生産の増大にはつながっていないことが明らかとなっている。過去数ケ月間においても生鮮野菜類を中心とした食料価格が高騰し、食料インフレ率は9%台であることが報道されている(Wall Street Journal, 201169日)。この数年間の降雨量は十分に確保されているにも関わらず、食料の生産が追い付かないのである。インドでは承知のようにベジタリアン(菜食主義者は全体の31%)が多い。また肉を食べる人たちも菜食が中心で、肉食量は限られていることから、玉ねぎなど野菜類の高騰は、特に労働者階級の一般市民の家計を直撃している。
 
60年代半ばから90年代にかけては「緑の革命」、米・小麦の高生産性二毛作体系(藤田幸一「インドの農業・貿易政策の概要」)で食料増産は成功を収めたものの、ここにきて、経済発展と所得増に伴う需要の急激な拡大に対し、適切な生産刺激策が打ち出されていないのが現状である。2008年時における食料価格の高騰では最低支持価格政策で難を乗り越えたように見えるが、膨大な財政負担を強いられるこのような政策が半永久的に継続できるはずがない。

Y ニュースの裏を読む(12(印刷用pdf) 

長谷川啓之

アジア近代化研究所代表

最近も、アジアで発生したニュースは数え切れないほどある。その中の最大のニュースは何と言っても、中国の新幹線追突事故とそれに対して当局側が見せた対応であろう。そのことについては、他で詳しく論じる予定なので、ここではそれ以外のニュースに注目し、それらの背景を論じてみたい。

1.インドの汚職はすごい?

(1)インドの腐敗度は?

「汚職批判でハンスト」と言う記事が出たのは『朝日新聞』の今年65日の朝刊である。この記事では、まず次のように報じている。「巨額汚職が相次ぐインドで、取り締まりの強化や海外に蓄財された資金の回収を求め、ヨガの大家スワミ・ラムデブ氏が4日、無期限のハンガーストライキを始めた。支持者ら数万人が全土で呼応してハンストを始めた」、と。そこで、政府はハンストを思いとどまるよう説得したが、その要求内容が極端なため交渉は難航しているようだ。その内容とは、汚職への死刑の適用、不正資金の退蔵を防止するため、高額の紙幣の廃止などとされる。

 インドでは以前にも、社会運動家のアンナ・ハザレ氏が強力な汚職監視機関の設置を求めて無期限ストに入り、それを多くの有名人らが支持したため、政府は要求を丸呑みする事態となり、ハザレ氏は現代のガンジーと賞賛されているという。ラムデブ氏の行動はハザレ氏の行動に影響されたものとも言われる。

 インドが有名な汚職大国であることはちょっとインタネットを見るだけですぐに分かる。しかし、日本では汚職といえば中国、中国といえば汚職、といったイメージが付きまとう。しかし、トランスペアランシー・インタナショナル(TI)が95年以来発表している有名な汚職バロメーターによると、世界180か国中、腐敗への認識度でインドはタイと並んでほぼ一貫して84位であり、中国はインドよりややいいが、それでも79位である。ちなみに、第1位は09年度で、ニュージーランド、2位はデンマーク、3位はシンガポールで、日本は17位、台湾37位、韓国39位である。アジアの主な国を見ると、マレーシア56位、インドネシア111位、ベトナム120位、フィリピン139位、カンボジア158位、ミャンマー178位、などとなっている。これを見ると、インドよりひどい国はいくらもあるといえよう。つまり、多くのアジア諸国がかなりひどい汚職にまみれていることが分かる。そうした中ではむしろインドはいい方といえるかもしれない。しかし、それもどれだけ信頼できる情報が表面化しているかによるかもしれない。 インドでこの1〜2年の間に起きた大きな汚職事件だけを見ても、周波数の割り当ての入札を操作したとして、不正金額最大の携帯電話汚職が発覚し通産大臣が辞任(1011月)する事件が発生している。さらにムンバイ中心の一等地に立てられた高層マンションを特権階級が不正に取得したとして問題になった住宅疑惑、10年国際スポーツ大会の建設費や施設を巡って起きた汚職事件、複数の国営銀行の幹部らが民間の金融機関に不正に融資したとして、8名が逮捕された不正融資疑惑、などがある。
 むろん、これらは金額から言っても、社会的影響から見ても、放置できない大きな社会問題であるが、上記の腐敗度認識指数からはいわば政治家や公務員の腐敗度が分かるというだけで、いわば公式の数値である。インドに政治家や公務員の腐敗のひどさを支えるのは、特定の政治家や公務員だけの問題なのではなく、幅広く浸透した国民の腐敗風土が社会に蔓延していることを示すともいえる。かつてスエーデンのミュルダールが指摘したように、インドは腐敗社会なのである。たとえば、学位を尊重するインド社会で最近はやっている腐敗に、ちょっと金を出せば、何もしなくても学位(学部、修士、博士までの学位)が取れるという話がある。工業化が進むにつれて、どこも学位があれば就職や出世に役立つとして、多くの人が何もしたくないが、カネならあるという人に学位は大流行なのだ。
 筆者も短期間のインド滞在中に、ある青年と話したとき、以下のような話を聞いた。彼はデリー大学を出たエリート・サラリーマンである。彼は時々地方への出張を命じられる。その際、交通費や日当などが出るそうだが、帰るとどれだけ実際にかかったかを書類にして会社に提出する必要がある。そのとき、上司からの指示があり、実際より10%とか20%水増しした金額を受け取ったことにさせられる。その結果、実際より多くの所得を得たとして、より多くの税金を支払わされることになり、差額は言うまでもなく上司の懐に入る。

(2)腐敗の原因は?このような汚職が蔓延する原因は何であろうか。一般に、これだという単一の理由を挙げるのは難しいが、腐敗を最初に科学的な研究主題にすえたスエーデンのG・ミュルダールの腐敗論がその1つの回答を与えてくれる。彼によれば、腐敗の根本的な原因は軟性国家(ソフト・ステート)にある。軟性国家とは「基本的な改革を制度化し社会的規律を強いる能力も意思もない」国家のことである。インドは確かに世界最大の民主主義国家といわているが、それは自ら勝ち取ったものではないため、国家が規律ある政治を行う能力に欠けているというわけである。そのことがまたインドにはさまざまな問題があるにもかかわらず、国家は解決できないでいる。ミュルダールによれば、腐敗の主要な原因には植民地時代およびそれ以前から受け継ぎ、根を下ろした制度とか態度、複合社会のインドでは社会全体より宗教的・言語的・種族的起源ないしカーストに基づく家族、村または集団に対して忠誠心を持つため、縁者びいきが生まれ,道義心を薄くする役割を果たしてきたこと、などである。しかし、ミュルダールによれば、これらは静態的な見方に過ぎない。むしろ独立後、こうした道義心が希薄で腐敗した政治家や役人がそのまま引き継がれ、彼らに裁量的統制権が与えられたため、腐敗が腐敗を呼ぶ、因果関係的悪循環が生まれてしまった、と言う。そうだとすれば、軟性国家を克服しない限り、もはや救いがたい状況であるともいえよう。それでは誰がそれを実現できるのか。
 問題なのはインドが今も近代以前の社会であり、法治国家と言うより人治とか人間関係に縛られた、さまざまな共同体が集合した社会だということである。そこに民主主義的な政治体制が与えられても、腐敗した政治家や公務員が自ら徹底した道義心や規律ある制度を生み出す可能性は小さい。こうした状況下で経済発展すれば、甘い汁を吸う機会が増えることから、ますます腐敗を助長する可能性が高くなる。これと類似するのは中国であるが、近年では多くのアジア諸国もほぼ類似した状況にある。
 これら諸国でしばしば耳にするのは、腐敗はむしろ「経済発展の潤滑油だ」、と言う言葉である。このため彼らの理屈は「経済発展さえすれば安泰と考える政治・経済的指導者、車やいい家に住みたいと考える一般大衆」の構図が存在しており、腐敗を無くすことはむしろ経済発展を抑制することになるため、腐敗はむしろ必要悪だということになる。これに対し、ミュルダールは短期的にはそうであっても、やがて腐敗が経済発展に害悪になると言う。そのことを認識できる指導者がいないため、当面、アジア諸国が腐敗から脱出する方法は見つかりそうもない。結局、腐敗が「経済発展の潤滑油」でなくなるときが来るまで問題が解決されることはないということであろうか。インドにも腐敗と無関係な大多数の庶民がいるだけに、これではいかに経済発展しても貧しい人ほど浮かばれそうも無い。

2.ASEAN外相会議と南シナ海問題

(1)ASEAN外相会議の背後で揺れる領土問題

今年のアセアン外相会議(AMM)を初めとする一連の会議が719日から23日にかけて、インドネシアのバリ島で行われた。この会議はアセアン加盟10カ国の外相会議が中心であることは言うまでも無いが、対話国として域外の10カ国(日本、韓国、中国、インド、アメリカ、EU、カナダ、ロシア、オーストラリア、ニュージーランド)が参加する拡大外相会議(PMC)も重要な意味を持つ。基本的にアセアン外相会議が中心であるが、その会議の後で拡大外相会議が行われ、それと前後してさらにアセアン地域フォーラム(ARF)が行われるというパターンが定着している。ARF1993年の拡大外相会議で新設が決まり、19947月バンコクで第1回会議が開催された。ここに参加するのは拡大外相会議参加国に加えて、パキスタン、パプア・ニューギニア、東チモール、モンゴル、北朝鮮で、合計24カ国と1機関である。最近では毎回、多くの国と機関が参加する。今回も、外相会議と拡大外相会議が開催され、地域の安全保障問題を議論するため、会議最終日の23日にARFが開催された。
 今回のAMMの最大の焦点はアセアンの複数の国と中国との間で緊張が高まっている南シナ海での領土問題を巡る対応について話し合うことである。この問題は、主として中国が近年経済力の拡大を背景に強大な軍事力を使って領土権を主張していることから起きている。このため、一方でアセアン加盟国側は一国では対応しきれないため、アメリカを巻き込んだ中国包囲網をどう構築するかを構想しており、他方で中国はその包囲網の切り崩しに躍起になっている。そのために、中国側はアセアンの枠組みでの話合いをなんとか脱却し、二国間での協議に持ち込むことと、アメリカなど外部の関与を無くすことが急務だと考えている。

(2)対立深まるアジア地域

他方、このところフィリピン、ベトナムなどを中心に中国に対抗して権益の確保を狙おうと、自らも軍事力を拡大すると同時に、アメリカよりの姿勢が目立っている。特に、たとえばフィリピンのように、南沙諸島のリード・バンク海域で今年3月に石油探査船が 中国の哨戒艇2隻の妨害を受けており、フィリピン政府は実効支配を確実にするため軍事力の強化に努めている。中国よりだった前政権と違って、現在のアキノ政権は一度は解消した、米比の戦略的関係の復活へと動き始めている。こうした動きに中国側も反発しており、双方の妥協はますます難しい状況となっている。ベトナムも一方で、本年度の国防費を大幅に増加させ、潜水艦などへの予算を増加させて軍事力に強化を図り、他方ではカムラン湾に米空母が寄稿するなど、事実上アメリカとの連携の強化へと動いている。
 そこで、アセアン側と中国とはなんとか話合いを継続したいと考えており、今回の外相会議に合わせて、中国はAMM開催直前に予定外の高級事務レベル協議をアセアン側に提案し、アセアン側がこれを受け入れたため、その開催が決まり、中国とアセアンの次官級の高級事務レベル会議が20日に開催された。そこでは、2002年に両者が合意した「南シナ海行動宣言」を法的拘束力のある行動規範に高めたいとして、アセアン側は11月のアセアン首脳会議までに中国との間で行動規範の策定について合意を得たいとしている。両者は、今後どう協力するかについてのガイドラインを作ることでは合意している。
 問題は法的拘束力のある行動規範を策定できるかどうかである。もちろん、アセアン側は行動規範策定に向けた協議を早急に始めたい考えであるが、中国側は消極的であるため、協議そのものが開始できるかどうか危ぶむ声が強い。協議の結果、中国側が妥協すると考えている専門家はほぼ皆無であろう。
 もう1つの陰の主役であるアメリカもアセアン側に立って中国をけん制しようと必死であるが、それにはその介入が中国を納得させられるかどうかである。しかし、現段階ではアメリカの理屈は中国によって否定されている。アメリカの理屈とは、南シナ海は航行の自由が保障されなければならない、と言うものである。だが、中国に言わせれば、アメリカは部外者であり、航行の自由には何の支障も無い、ということになる。アセアンとの間で協調関係を模索しつつも、南沙諸島での実効支配を拡大しつつある中国にアメリカが神経を尖らせ、なんとか中国封じを狙うアメリカに中国が反発する構図は少なからず危険を伴う。
 
いずれにせよ、中国が強大な力を誇示すれば、それを認めない国同士が協力して、類似の勢力を形成することになり、中国がいかに強大になったとしても、少なくとも中長期的には勝手なことをするわけにはいかなくなる。双方とも、結果的に力づくでの解決は長期的に高くつくことを知るべきである。こうした状況を打開するには、もっとアメリカも中国も幅広い、長期的な視野と寛大さに基づく、話合いでの解決策を模索する必要があろう。

3.2050年はアジアの時代か:日本はなぜだめなのか

(1)主役は中国とインドか
 アジア開発銀行(
ADB)は201182日、『2050年までのアジア経済』(ASIA 2050Realizing the Asian Century)と題する報告書を公開した。全体が145ページに上る報告書である。この報告書の詳しい内容はインタネットで見ることができるので、大雑把な紹介と私の意見を簡単に書くことにしよう。
 まず、報告書はおよそ40年後のアジア経済を展望するものだけに、かなりその信憑性には疑問も感じられるが、それはそれとして、報告書が提示している主要な内容をざっと見るとしよう。まず、40年後であるだけに、@うまくいった場合(現在の好調が続く場合)と、Aうまくいかなかった場合(つまり中所得のわなに陥った場合)では大きな格差が生まれる可能性を想定するのは当然であろう。すなわち、2050年に前者ではGDP(国内総生産)はアジア全体で148兆ドル、後者では61兆ドルと約2.43倍の格差が生じるとみる。そうすると、世界全体のGDPは前者では292兆ドルであるため、アジアは世界の50.6%を占め、後者では32%を占めることになる。つまり、うまくいけば50年後にはアジアの時代が確実になると想定される。現実はその中間であるとしても、アジアが40%前後を占めることになり、それでも2009年現在で、アジアは24%2010年では27%)を占めるにすぎないため、かなりの前進であることは間違いない。 そうなるとどこかが減少することになるが、大幅な減少が見込まれるのは地域では北米24.5%15%、ユーロ28.1%18%、国では日本8.7%3%と想定される。全体としてのGDPが成長する結果、一人当たりのGDP(ただし物価を考慮した購買力平価PPPで示した場合)も大きく変化する。2010年のIMF(国際通貨基金)の推定によるGDP(購買力平価)を、主要な国についてみると、アメリカは47,284ドル(7位)、日本は33,805ドル(24位)、韓国29,836ドル(25位)、インドネシア4,394ドル(119位)、中国7,51993位)、インド3,339ドル(125位)、ベトナム3,134ドル(126位)などである。経済発展がうまくいった場合、2050年にはアメリカが98,600ドル、日本66,700ドル、韓国107,600ドル、インドネシア37,400ドル、中国47,800ドル、インド41,700ドル、ベトナム33,800ドルになると予想される。つまり、アジアで注目されるのはまず韓国が10万ドルに達し、アメリカを超えて世界のトップレベルに達すること、中国やインドが4万ドルを超え、ほぼ現在の日本のレベルに達することである。
 韓国の水準は2010年現在の数値で比較すると、第1位のカタール(88,559ドル)、2位のルクセンブルグ(81,383ドル)、3位のシンガポール(56,522ドル)をはるかに超えた豊かな社会の実現を予想させる。またデータは無いが、アジアの多くの国も4万ドルを超えるものと思われるから、現時点での4万ドルを超える国は、世界10位のオランダ(40,764ドル)と並ぶことになる。さらに2050年の世界のGDP36,600ドルが想定されるため、ベトナム以外の多くのアジア諸国が世界の平均レベルに達することになる。 こうして2050年には完全にアジアの世紀を迎えることになるが、その主役は言うまでもなく中国とインドであり、それにインドネシア、日本、韓国、タイ、マレーシアの7カ国が加わってアジアの時代を演出するものと推定されている。この7カ国のGDPの合計は2010年の14.8兆ドルから2050年には132.4兆ドルであり、アジア全体の148兆ドルのうちの89.5%を占める。
  こうした結果が正しいか否かを正確に判断するには、そうした結果が出てくる背景要因や推定方法を厳密に検討する必要があるが、ここではそれは不可能である。そこで、いまはいくつかの疑問を提起するだけに止めておこう。第1に、40年先を予測する場合に必要な条件は何か、である。10年先を予測することさえほとんど不可能に近い。たとえば、経済要因だけが確実で、他の要因は与件ですむか、ということである。中国共産党の独裁体制は40年間安泰と考える人も、朝鮮半島も同様に、40年間不変であり続けると考える人も極めて少ないであろう。いまや伝統的な経済学が想定するように、経済が独立に存在して、政治や社会情勢を与件と考えるのは、少なくとも欧米先進国以外では非現実的ではないだろうか。またうまくいく場合も、その確率やいかなる条件がクリアされなければならないか、などをもっと明確にした方がいい。もちろんADBの報告書がそれらをすべて無視しているわけではない。たとえば、所得の不平等や領土問題での対立、国内での貧困とか社会的信頼の崩壊、エネルギー問題などである。それらがうまく解決できるかどうかで、2つのシナリオを想定するわけである。しかし、それらの多くは経済問題に過ぎない。

(2)日本はなぜだめなのか

さてますます減退すると見られる日本について少し考えて見よう。日本経済はこのまま行けば、世界のGDP3%を占めるに過ぎない、と報告書は言う。まず日本のGDP2050年には現在の約9%から3%へと低下する。すでに多くの専門家が日本経済の停滞・縮小を予想しているが、中国や韓国がよくて、日本はなぜだめなのか。疑問を感じる人もやはりそうかと感じる人もいるであろう。あるいは、日本経済はなぜ90年代以後、20年以上にわたって停滞を続けるのか。この問題を解決しないで、日本経済の復活も大震災以後の日本経済の再生も無いことはほぼ予想できる。
 そこで、私が考えるのは経済の停滞と政治の停滞との関連性である。55年以後の自民党一党の支配体制は高度成長を実現させ、2度の石油ショックを乗り切るまでは成功したといえよう。ところが、バブルの発生とその解消以後の自民党政治はまさに後手後手に回り、さまざまな失敗を繰返した。つまり長期ビジョンや方向性を作り出せなかった。短期的な失敗の中には、財政出動の問題(too little, too lateなど)もあるし、小泉政権以後、規制を緩和すればするほどいいとする市場経済至上主義が支配し、アメリカ型の経済が正しいと勘違いしてきた。つまり、長期ビジョンが背後に無いために、短期の政策も適切さを欠いたといえよう。これが間違いであることは、シンガポールや韓国の経済を見れば明白なのである。これらの国が日本より優れているとすれば、それは長期的ならびに短中期のビジョンの整合性を根底に政策を遂行する政府の指導的な役割にこそある。それができるのは政府のリーダーシップである。それは政府が単に経済に介入することではなく、政府や指導者のアイデアとかその実行力に基づいて、政治も経済も強力に推進する能力のことである。
 アジアで長期的に成功する国々を見ると、グローバル化した世界で、政治が市場経済をよりよく活用するために必要な、さまざまなアイデアを考え、率先して民間企業を後押しするばかりか、方向性やシナリオの明示、意思決定の早さ、透明性、指導力を発揮することを通じて、国民をリードし、経済の活性化を生み出す。単に、規制緩和をし、市場経済化すれば経済は活性化するのではない。つまり、競争さえすれば経済は活性化すると考えるのは幻想である。まず政府は率先して、世界の市場を活用しながら、民間企業や個人がやる気を起こし、活動しやすい環境を作り、競争に勝てる企業や人材の育成を図ることこそ重要である。それにはたとえば悪平等主義を排除する必要がある。それらができるのは政府であって、民間ではない。そのことは明治維新、戦後経済の復興、を見れば明白である。それは発展途上国だからではなくて、日本がアジアと言う非西欧社会の一員だからである。
 
もう1つ言えば、規制緩和や市場経済は個人の活動が前提である。たとえば、TPPに参加する場合、重要なことは農業をどう生かすかである。ところがどう生かすかを考えるなら、日本の農家や農業をどうする必要があるのか、それには政府は何をまずしなければならないのか、を考えないで、ただ規制緩和をすれば自然に競争がおき、活性化すると考えるとすれば、失敗して当然である。つまり、日本の農業の現状は自ら活性化する力は無いことを表しているからだ。問題はもっと根本的なところにある。多くの問題は共通点を持っているだけに、ドラスティックな改革ができるかがカギである。
 こうした認識を持てば、日本政府の政策や態度もおのずから見えてくるはずだ。折りしも、日本は政権交代期である。トップには野田氏が指名され、党内の融和とか野党との連携などがしきりに言われるが、問題は別のところにある。それは誰が立とうが新政権に山積する問題への適切な認識や、これまでとは違った、アイデアに満ちた適切な政策が打てるか、が問われている。日本の将来は国民の潜在力を引き出す政府の指導力にかかっているのである。

 編 集 後 記(印刷用pdf) 

ニュースレター第12号を公開します。およそ2年前に開始したわがアジア近代化研究所(IAM)のニュースレターも早いもので、12回目を数えます。この間には数多くの、主にアジアに関する話題を取り上げ、報告や説明、解説、分析などを加えて、本ホームページないしニュースレター、レポート&アナリシス、などで公開してきました。わが研究所はアジアを名前に出していますが、数回前の編集後記でも触れましたように、アフリカや中南米なども近代化と言う点でアジアと同様の問題を抱えているため、徐々にそれらの地域の問題にも拡大していく予定です。さらには世界で起きている問題でも、アジアに関連ないし共通する問題であれば、今後徐々に取り上げることも考えています。たとえば、最近の中東などで起きているジャスミン革命についても、当然アジアの近代化と深く関連する可能性があります。アジア諸国を訪問すると、少なくとも表面的に観察される都市やその住民の思考や行動は世界のどこにいっても酷似していますその意味で、地域で区別することはあまり意味を持たなくなっています。そのため、わが研究所も「近代化」(特に、工業化や民主化)に注目しながら、アジアを始めとする発展途上国の問題を考察し、分析していくつもりです。要するに、グローバル化が進む現在では、もはやアジアに限定するのでは不十分と言っていいでしょう。
 そこで、今回は巻頭言としてアフリカや南米に詳しい専門家・溝辺哲男准教授にブラジルのセラード開発について書いていただきました。是非お読みください。 2番目は「ニューハーフ・イン・タイランド」と言うエッセイを藤澤すみ子さんに書いていただきました。これまでに、彼女はタイを始め、多くのアジア諸国を訪問し、次々とエッセイを書く、売り出し中のエッセイストです。一方で、アメリカの新薬開発企業の日本社長を務めながら、他方で執筆活動もするという、現代風のスーパー・ウーマンです。彼女がこれまでに書いたエッセイは「レポート&アナリシス」の「調査・研究・旅行」の項に掲載しています。今後の彼女の活動には注目すべきでしょう。
 3番目は本研究所代表がアジアとのかかわり始めたきっかけやアジアとの出会いについて書いた論考です。彼がアジアと関わり始めて、すでに46年以上がたちます。これは今後数回にわたって、インドネシアやタイなどについても書く予定ですので、毎回読んでいただけると、1965年当時のシンガポール、マレーシア、インドネシア、タイなどの様子がある程度分かり、アジアに関心を持つ人には役立つことでしょう。
 4番目は数日前に行われたシンガポールの大統領選挙とそれが国民意識の変化を反映するものであることを分析したものです。すでに辻教授は先ほど行われた総選挙に、シンガポール国民の意識の変化は反映されていることを前回のニュースレター(第11号)で指摘しています。総選挙では、与党の人民行動党の後退が明確となりましたが、今回の選挙結果を見るとそのことがさらにはっきりしており、政権与党には大きな改革が必要な状況となっています。シンガポールの政治指導者は変化に敏感で、必要な改革は断固として実行する能力を持つだけに、この半年〜1年ほどの間に、シンガポールの指導者が国民の意識の変化をどう読み取り、いかなる政治改革をするか、注目されます。政治改革が経済発展に大きな影響を及ぼす可能性があるだけに、当分、シンガポールの動きから目が離せません。
 5番目は今夏、インドのムンバイで調査を行った上原教授が目撃したインドの腐敗に対するアンナ・ハザレ氏の運動とその背景にある複雑な政治・経済・社会的要因との関連を指摘している。腐敗は単に一部の特権階層だけの問題として取り上げても解決しないというのが上原教授の指摘であり、もっともなご指摘でしょう。腐敗と貧困や物価上昇との関連性、また経済発展が必ずしも貧困層にまで行き渡らないことが民族やカースト制度なども関連するということです。これらの問題も同時に解決しなければ、インドの腐敗問題は解決できない可能性があります。この問題と「ニュースの裏を読む(12)」とをあわせて読んでいただけば、インドの腐敗の根が深く、単に腐敗を指摘するだけでは何ら解決に結びつかないことがお分かりでしょう。
 最後に、今回の「ニュースの裏を読む」はインドの腐敗問題、アジア開発銀行の
2050年のアジア経済、アセアン外相会議と南シナ海問題を取り上げています。是非読後感をお寄せください。(文責KN                           

                         


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