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アジア近代化研究所
IAMニュースレター

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IAMニュースレター第11号、2011年7月7日発行 目次

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  1. 巻頭言:野党躍進、シンガポール政治の分水嶺か(辻忠博)
  2. 上海のこのごろ(一):中国の震災報道を中心に(童適平)
  3. 胡温体制から習李体制への移行と対日政策(梁雲祥)
  4. 上海研修旅行と中国の金融改革(岸真清)
  5. 東マレーシアの魅力(2)ーサバ州 The Land Belpw the Windー(上原秀樹)
  6. ニュースの裏を読む(11)(長谷川啓之)
  7. 編集後記

T 巻頭言:野党躍進、シンガポール政治の分水嶺か
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辻忠博

アジア近代化研究所研究員・幹事、日本大学経済学部教授

 201157日,シンガポールで総選挙が行われ,与党の人民行動党(PAP)81議席を獲得して,第1党を維持,政権を継続することが決定したが,一方で,野党が6議席を獲得,改選前より4議席追加し,野党が大躍進を遂げた。さらに,集団選挙区で現職閣僚が議席を落とす大波乱も生じた。これはPAP一党支配体制の終焉を示す兆候なのであろうか。シンガポール議会は一院制で定数87議席。12の小選挙区と15の集団選挙区で5年ごとに総選挙が行われる。集団選挙区とは,36人の候補者がチームとなって選挙戦を行い,最大の得票を得た政党の候補者が全員当選するという仕組みである。マレー人やインド人など少数民族の意見を国政に反映させるのを建前として創設された制度である。今回の選挙戦では,野党が大きく議席を伸ばすのは難しいであろうということで,むしろ関心は,リーシェンロン首相の後継者となる第4世代の指導部を選ぶ選挙ということであった。その中には,元首相のゴーチョクトンが次期首相候補として明らかにしたヘンスウィーケアト(Heng Swee Keat)がいる。この人物は金融管理局の前長官で,このポストにはリーシェンロンも首相就任前に就いていたことがある。もちろん,今回の選挙ではタンピン集団選挙区から立候補し,当選している。一方で,野党は独立以来最多の83人の候補者を擁立し,選挙戦に臨んでいた。
 その結果は,PAPが最大議席を維持したという意味では予想を覆すものではなかったが,想定外の結果を生み出しもした。それは,PAP81議席を獲得したのに対して,野党である労働者党が6議席を獲得したこと,さらに,現職の有力閣僚であるジョージ・ヨー外相とリムフィーファ首相府相が集団選挙区で落選したことである。特に,ジョージ・ヨー外相の落選は東アジア共同体を実現し,自由貿易を推進するシンガポールにとっては大きな痛手となった。しかも,PAPの得票率は過去最低の60%に止まったのに対して,野党の得票率は全体で40%に達した。このような予想外の結果になった理由として,1975年以降生まれの若者(有権者の4分の1を占める)の中でのPAP一党支配に対する不満,物価高,住宅価格の高騰,外国人労働者導入による雇用減がPAP政権に対する不満として投票行動に表れたからであると地元マスコミは伝えている。
 確かに,独立後のシンガポール政治はPAPのほぼ独占状態であったといえるかもしれない。しかし,シンガポール政治にこれまで全く波風が立たなかったわけではない。むしろ現在とは比較にならないほど激しい闘いが繰り広げられたこともあった。1957年に結成されたPAPは英語教育エリートグループと共産系グループから成る全く異質な社会集団の共闘組織であった。したがって,党内でイデオロギー対立が起きるのは必至であった。1959年の英連邦内の自治政府総選挙でPAPが勝利し,リークワンユーが初代首席長官に就任すると,マレーシアとの合併を巡って対立が激化。1961年の補欠選挙ではPAPの共産系グループが野党候補を支援,これに対して,リークワンユーは政府信任案を議会に提出し,わずか1票差で可決。これでPAPの分裂は不可避になり,同年,共産系グループは社会主義戦線(BS)を結成。1963年の総選挙では,PAPBSの得票率が伯仲,政府はBSの有力指導者を逮捕し,支持基盤の労働組合や学生運動を徹底的に弾圧した。シンガポール政治にはこうした激しい対立の歴史もあったのである。とはいうものの,こうした弾圧によって,対抗する政治集団が無力化され,シンガポール議会はPAPによってほぼ独占されることになったのである。
 ところが,シンガポール政治の動きをもう少しじっくり見てみると,必ずしもPAPが国民の圧倒的な支持を継続して得てきたわけではないことが容易にわかる。それは,総選挙の獲得議席数ではなくて,得票率にある。独立後,初めての総選挙であった1968年こそ,PAPの得票率は84%に達したが,それ以降,得票率は逓減し,80年代半ば以降は継続して7割を切っていたのである。そして,それとの引き替えに,野党候補が当選するのであった。そのうちの1人が不屈の野党政治家J.B.ジャヤラトナムであった。ゴーチョクトンが首相として率いた初めての1991年の総選挙では,PAP61%しか得票できず,4名の野党候補者が当選した。その後,ゴー政権下でPAPの得票率は回復したが,次のリーシェンロン首相の下では再び得票率が低下。今回の総選挙では,独立後最低の得票率に甘んじる結果となったのである。それでもなぜPAPは議席の9割以上を独占してきたのか。それは,与党として小選挙区制の利点を活用することができたからである。
 では,今回の野党の躍進はシンガポール政治の分水嶺となるのであろうか。リーシェンロンは,シンガポール政治が新たな時代に入ったとして,国民の要望や新しい時代の要請に応えていきたいと,これまでの誤りを謙虚に受け止めている。また,落選したジョージ・ヨー外相も同様の意見を表し,PAPが変身するためにいかなる支援も惜しまないと述べている。もちろん,PAPは依然として議会で絶対多数を維持する安定的な政権与党であり,野党がシンガポール政治を動かすにはあまりにも勢力が弱い。したがって,5年後の次の総選挙の行方が重要になってくる。すなわち,その間,野党は今の勢いを維持し,国民の支持をどこまで広げられるのか。PAPは次の総選挙までに国民の要望に耳を傾け,支持を回復することができるのか,ということである。これからの5年間,この小国の政治からは目が離せない。

U 上海のこのごろ(一):中国の震災報道を中心に(印刷用pdf) 

童 適平(経済学博士)

アジア近代化研究所研究員、明治大学法学部教授

私は10数年前に日本に来てから、毎年、大学が休みに入ったり、所用ができると自宅のある上海に戻ることにしている。今年も3月から4月にかけて、上海に滞在した。アジア近代化研究所編集部の依頼を受けて、最近の上海の様子を何回かに分けて、報告することにする。今回は日本の大震災に対し、中国のメディアがどう反応し、報道したかを中心に書いて見よう。

1)私は2月始めに小さな手術を受け、医者に術後2週間は飛行機に乗らないように言われたので、いつもより、遅れて上海に帰った。今回の上海帰りの航空券はただであった。航空会社で貯めたマイレージを使用したからである。ただと言うのは語弊があるかもしれない。マイレージを使用する場合、燃油チャージや空港使用料などは支払わなければならない。東京―上海間の航路は成田空港―浦東空港の航路と羽田空港―虹橋空港の航路がある。普段、羽田空港は都内にあるが、虹橋空港も上海の旧市街地に近いので、成田空港―浦東空港の航路に比べ、料金はおよそ1万円くらい高い。だが、マイレージを使用する場合、必要なマイレージは同じであるため、羽田空港―虹橋空港の航路の席が早く埋まるのは当然のことである。今回もそうである。上海に帰る日時を決めたとき、羽田空港―虹橋空港はもう既に満席だったので、往きは成田空港―浦東空港で、帰りは虹橋空港―羽田空港ということになった。上海への帰りには日本製の電気炊飯器を持参することにした。多くの中国人観光客も電気炊飯器を買って帰るようだ。私が炊飯器を買って帰ったのは、関西空港の出発ラウンジの免税品売り場で電気炊飯器とデジカメを置いたところ、売れ行きがよく、2010年第一四半期の収益は赤字から黒字に転じたというテレビ報道を見たからである。炊飯器は妻のおじさんへのお土産である。値段は3万円を超えた。上海郊外のワーカーの月給に相当する金額である。結構高かった。同じ炊飯器は日本国内仕様であれば、約半値である。中国では、炊いたご飯が美味しくなると評判である。飛行機は定刻通り午後3時頃、上海の浦東空港に到着した。

2)去年、万博開催に合わせて、地下鉄2号線が全線開通して以後、公共交通機関を利用して、浦東空港から上海市内へのアクセスはリムジン・バス、地下鉄とリニアー、の三つの選択肢となった。随分、便利になったものである。上海の私の自宅は市の中心である徐家匯にあるが、そこまで行くのには、リニアーも地下鉄も途中乗換えがあるので、リムジン・バスは乗り換えなしで、また降りる停留所から自宅まで徒歩約10分の距離なので、最も便利だ。料金は去年2元(1元=12.5円)値上がりしても、まだ20元であり、走行距離は約50キロもあることを考えると、手ごろの値段だと思う。最も利用回数が多い方法である。しかし、荷物がある時には、徒歩で10分の距離だと、タクシーを利用することになる、初料金(12元)で済むが、トータルの出費は32元になる。地下鉄を利用すると、料金は7元で、円に計算すれば、なんと90円弱の安さだ。そして、私の自宅は駅に近いので、荷物があっても、トランクを転がして歩いても問題がないので、最も経済的な方法である。しかし、乗り換えを入れて地下鉄を利用する場合には約1時間半かかるので、リムジン・バスより30分余計にかかる。リニアーは最も高い。最新の技術なので、高いのは当然である。現在、運転中なのは浦東空港から市内の駅までわずか33キロの試験線路だけである。最高時速410キロで、約15分の間隔で運行されるので、最も早い方法である。中間には停留所がないので、空港から市内の駅までわずか8分で走行してしまう。料金は片道50元であるが、当日の飛行機のチケットを見せれば2割引にしてくれる。最近の利用客はほとんど飛行機の乗客なので実質40元であると考えてよい。開通したばかりのとき、多くの野次馬が殺到し、ダフ屋から1千元を購入して試乗したと言うエピソードもある。
 
いつものように、リムジン・バスを選択した。地下鉄は時間が掛かりすぎるだけでなく、荷物があるので、乗換えが面倒臭い。リムジン・バスだと、最後の10分はタクシーを呼べば、一番楽な方法である。しかし、リムジン・バスの停留所へ行ってみたら、時間帯が悪いせいか、次のバスまでは30分以上待たなければならないので、戻って地下鉄に乗ることにした。5,6分待ってから、電車に乗った。空港から最初の10駅の区間は路面を走る。何の理由なのか分からないが、あまりスピードが出なかった。竜陽路駅まで約33キロの距離であるが、走行時間は約45分間もかかった。上海はいつもの光景であった。数日間は外出しなかった。
 311日午後、上海にいた頃、勤めていた大学の上司L先生の自宅を訪ねた。L先生は台湾出身で、共産党の中国に憧れて、1949年に香港経由で中国大陸に渡り、香港で中華人民共和国の成立を迎えたそうだ。転々と職場を変えて、最後に大学教員の職業に落着いた。改革開放以後、何回も東京大学などの教育研究機関に研究員として研究生活を行ったことがある。若い時から台湾で日本語を習った。体で覚えたため、日本語も大変達者で日本人と変わらない。ひょっとしたら、中国語より日本語の方が上手かもしれない。とっくに定年退職したが、日本には依然として強い関心を持っている。先生は私の大学院修士課程の論文指導教授でもあったので、上海へ帰る時に、できるだけ、時間を作って訪ねるようにしている。少なくとも年に1回は自宅を訪問する慣わしになっている。訪ねるたびにいつも日本の最新状況を聞かれ、いろいろ質問される。

3)先生と話をしている間に、急に電話のベルが大きな音で鳴った。L先生は非常に元気だが、耳だけが遠くなったのである。2,3回鳴っても、別の部屋にいる奥さんは取らなかったらしい。L先生は別の部屋へ行った。すぐ戻ってきた。元大学の同僚からの電話だったそうだ。日本には大きな地震が起きた。早くテレビをつけて見るようにとの内容らしい。L先生の息子も娘も日本で暮らしているからだ。L先生はさっそく客間のテレビをつけた。中央電視台第4チャンネルはNHKテレビの番組をそのまま放送していた。宮城県海岸沿いの津波の光景を映し出していた。まるで子供の頃、遊びごっこで洗面器に入れた、折紙で作った船のように、車、船、コンテナが津波に持ち上げられて流されていた。世界の末日を描いたアニメ映画そのものであった。しかし、それは現実のできごとであった。暫く、L先生と一緒にテレビを見ていた。
 大自然を侮ってはいけない。人類は自然を征服するということを小さな時から教え込まれたが、現実はそうではないと言う印象が最初に湧いてきた。L先生は特に心配そうな表情も表さなかった。多分、地震国日本の地震に対する経験と対策を信じているからであろう。私も同じ感じを持っていた。逆に、最近取り沙汰されていた大震災がとうとうやって来たなあという、安堵感さえあった。
 この日の夜から、東日本大地震が上海テレビ局のトップニュースになり、それが数日間も続いた。
 14日の昼、広東にいる妻の妹から電話がかかってきた。福島原発事故で東京の日本語学校に留学している息子は中国に戻るべきかどうか、という意見を求めるための電話であった。息子と同じく日本に下宿している同級生は既に航空券を手に入れ、明日には中国に戻るそうである。すぐ、大丈夫だ、コンビニの品切れは地震のため、道路の寸断により物流が止まったからであろう、23日で回復するに違いない、などと早合点した説明してあげた。数日我慢すれば、大丈夫だ、中国に避難する必要はないと回答してやった。妻の妹も納得したようである。
 翌日、Oさんが訪ねて来た。Oさんは東京でITの会社を経営している。十数年前から上海に進出している。話題はすぐ福島原発事故に移った。話している間に、妻の甥のことを思いだした。さっそく彼の意見を聞いた。彼はすぐにでも避難したほうがよい、海水注入は最後の手段で、日本政府はもうお手上げである、事態はどう発展するか分からないが、避難するためにかかるコストと避難しないで放射能を浴びて後で払う健康上のコストとを比べれば、避難するコストを払うべきである、と言う。彼自身もさっそく東京に帰り、家族を連れて東京を離れて南に避難すると言う。上海からは電話だけで家族は聞いてくれないからである。Oさんの話を聞いて、慌てて妻の妹と連絡をとった。しかし、既に手遅れであった。日本から中国へ飛ぶ飛行機はもうどこの航路も満席である。結局、色々手を尽くして奔走した結果、広東で東京から香港への一席をやっと確保できた。料金は普段の3倍以上の約20万円近くであった。320日、日曜日である。上海はどんよりした天気。近年、車が増えたせいか、明るい日差しが見える日は年を追って減少している。

4)朝から上海テレビ局の財経チャンネルが連続して東日本大地震と福島原発事故を報道していた。それは夜の8時まで続いた。外国についてこのように集中報道したのは始めてである。これは中国テレビ報道の歴史上前代未聞の大壮挙である。2度の天安門事件の報道に匹敵するものである。それは折りしも、中東で起きた“ジャスミン革命”から、国民のまなこをそらす狙いがあるからだと言う人がいる。番組に出演した専門家の多くは元の同僚たちであった。中国の原発建設を非常に憂慮する態度を明確に表した専門家が一人いた。特に中国の原発は多く東南沿海地域に集中しており、経済の発達と人口密集の地域であるために、原発事故となれば、中国経済にも致命的な打撃を与えるだけでなく、計り知れない数の命を奪うことにもなる。そうなれば、中国経済の回復も不可能に近い。これを見て、経済成長最優先の中国の現状から見ると、かなり度胸を必要とする耳障りな意見であった。この昔の同僚に思わず敬意を払った。
 中国は言えば、2010年現在、運転中の原子力発電所は全部で6ヶ所、原子力発電機は11基あり、発電設備容量は1020kwhで、全発電設備容量のわずか1.06%にすぎない。日本と比べ、原発の比率は遥かに小さいが、現在、建設中の原発発電所は12ヵ所で、2020年までに発電設備容量は現在の4倍の4,000kwhまで拡大する計画が既に中国政府によって承認されている。ネット上の情報によれば、二酸化炭素排出量の削減と石油石炭価格の上昇により、昨年の10月には一気に7,000kwhまで引上げるべきだと出張する専門家の提案書が政府に提出されていると聞く。さらに、ネット上の未確認の情報によれば、建設準備中の原子力発電所はさらに25ヶ所もあるそうである。それも当然といえば当然である。中国経済は二桁の成長率を実現しているため、電力消費量も二桁の成長率が続いている。よく知られる北京―上海間の高速鉄道は今年開通する予定であるが、それ以外に地下鉄も建設と開通のラッシュである。現在、約30都市が急ピッチで地下鉄の建設を進めている。
 日本では今節電が進められている。日本は人口も減少し、車などに対する物的欲望も旺盛な状態から減退に転じているので、電力やエネルギーなどの需要は停滞している。そのため、“原発”を全部止めてもたいしたことにはならない。それにもかかわらず、日本人は真剣に節電に取り組でおり、簡単に今の電力不足を乗り越えると思う。
 しかし、中国は違う。2010年に中国の自動車販売台数は1800万台を突破したにもかかわらず、車の普及率はまだまだ低い。自動車と並んで、快適な都市交通、家電製品と新築マンションが象徴する“現代的生活”は憧れの的で、それはこれからである。エネルギーや電力の消費需要は今後も急成長の最中であり、原発に一線を引くことは中国政府だけでなく中国の国民にとっても極めて苦痛なことである。日本より、中国の原発問題はもっと注目すべきではないかと思う。そして、現在稼働中の6基の原発は広東省、浙江省と江蘇省にある。建設中の12基も広東省、福建省、遼寧省、浙江省、福建省、山東省と海南省にある。いずれも沿海地域である。
 福島原発事故から中国の人たちは原発の怖さをたっぷり知らされた。妻の友達はかなり以前から計画して楽しみにしていた桜が満開になる4月の日本への観光旅行の中止を余儀なくされ、キャンセルされた。姉の友達も予定していた東京、大阪の観光旅行が延期となった。中国人民銀行に勤めているZ君には、去年の10月に赤ちゃんが生まれ、彼に頼まれて、東京から明治の粉ミルクをずっと郵送してあげていたが、それも止めた。
 福島原発事故がなければ、今年の春は中国人の日本への観光旅行はブームになっていただろう。明治の粉ミルクも販路が大きく拡大していたであろう、と思う。


V 胡温体制から習李体制への移行と対日政策(印刷用pdf) 

梁雲祥(政治学博士)
アジア近代化研究所研究員、北京大学国際関係学院准教授

序論

中国は東アジアの大国の一つであり、その経済の発展に従って国際的な影響力もますます増大している。それゆえ、中国の政治や外交の変化に対しては、当然世界は注目するであろう。例えば、来年には現在の胡温体制から習李体制へと中国の政権は交代することになっている。新政権の担当期間は10年間と決められているため、新政権がいかなる国内政策を実行するかが注目されることは言うまでもないが、その対外政策についても国際社会でも大きな注目を浴びるに違いない。とりわけ、日本では新政権の対日政策についての関心が高まっている。まだ習李政権がどのような政策を打ち出すか、具体的なことは必ずしも明確ではないが、筆者の予想を加えながら、それらの点について、以下で簡単に検討し、分析してみたいと思う。

1.中国の政権交代

 ご承知の通り、2012年秋の中国共産党の代表大会と2013年春の中国全国人民代表大会で、現在の「胡温体制」(胡錦濤が共産党総書記で温家宝が国務院総理)から「習李体制」(習近平が共産党総書記で李克強が国務院総理)へと政権移行が行われることが決定されている。むろん、一般的にいえば中国の政治、特に中国の政権交代は非常な政治的な事態であり、その中でのやり取りや戦いなどが存在していてもおかしくないはずである。今回の政権交代も予想以上の異なった状況が起きる可能性がまったくないとは言い切れないが、例えば、今回の政権交代は初めて毛沢東やケ小平のような政治的な権威の指名のない状態での政権交代であるし、違った政治勢力の間で人事をめぐるやり取りも激しいだろうと想像できる。同じいわゆる「太子党」である習近平と薄来(今の中国共産党中央政治局の委員で、重慶市委書記)との間には競争があるという噂もある。そして、今の胡温も出来るだけ自分たちの勢力と影響力を今後に残したいと考えるであろう。だが、一般の予想では重大な変化が起きることなく、あるいは少なくとも表面上は政権交代がスムーズに行われるものと思われている。つまり、ポストケ小平時代の中国の政権交代は次第に事前に決定が行われ、それを守ることになっている。すなわち、一般論として言えば10年間に一回の政権交代が行われるというものであり、次のトップの指導者はこの10年間政権を担当することになっているが、それはあらかじめ決定されることになっている。
 現在の状況から見れば、今回の政権交代は、内部権力の配分はまだはっきりしていないが、通常どおり実行されるものと考えられる。中国の政治は伝統的に裏で決められることが多いが、最高レベルの人事の移動は概ね予定どおり事前に決定されることが多い。別の政治勢力との間で競争や対立があっても、政権を維持することが彼らにとって共通の利益であり、一般的に言えば権力配分のバランスを取ることができる。もちろん、もし現時点から政権交代の時までの間に中国社会で何か政治的な危機などが発生すれば、この均衡は破れ、人事が変わる可能性もあると思う。

2.新政権の支配基盤とその権力のバランス

  次の「習李体制」の支配基盤は一般に共産党の旧幹部の子弟たちと官僚受益者の二つの結びつきだとみなされている。つまり、いわゆる「太子党」と党官僚や技術官僚のような受益者が新政権の支持基盤なのである。この二つの政治勢力には若干相違があり、一般にその中の「太子党」の力のほうがより強く、彼らは党務と軍事と宣伝と人事の面で権力を握っているのに対し、官僚受益者の方は経済や技術の分野で権力を握っている。しかし、この二つの政治勢力はいずれも特権階層であって、政権安定と特権維持の面では共通の利益を持っており、通常、両者は相互に協力できるものと思われている。
 もちろん、政権の基盤を構成した「太子党」と官僚受益者の間では権力のバランスが必要であろう。それは指導者個人の能力と社会の政治的安定度によって決まってくる。特にいざ何か社会的な政治危機が発生すれば、「太子党」と官僚受益者の間にも矛盾が生じて分裂する可能性があるし、個人の素質や理念や利益などの違いに基づいて、「太子党」たちの間でも官僚受益者の間でも分裂する可能性があると考えられる。例えば、「太子党」たちの間では前の世代との複雑な関係があるため、相互に摩擦や衝突などが生じる可能性があると考えられる。
 一般的に言えば、新政権に対する国民の支持率はそれほど高いとはいえず、特にその中でも「太子党」たちに対する国民の支持率はかなり低いといえよう。それでも、今日の状況から見れば、社会の政治的状況が安定すれば、「太子党」でも官僚受益者でも権力のバランスを取ることができ、支配力を維持することが可能である。だが、何か社会的な政治危機でも発生すれば、このバランスは崩壊し、その政権から国民の利益を代表する指導者が出てくるかもしれない。

新政権が直面する重大問題及び対外政策との関係

以上で指摘したように、次の「習李体制」は順調に樹立出来るものと予想されるが、新政権が直面する中国の社会状況や政治と外交の状況は複雑であり、明暗にわたるさまざまな問題に直面するであろう。
 明るい面から見れば、新政権が直面する状況は中国の高度な経済発展により国内総生産(GDP)も大幅に増加し、外貨準備高は世界で最も多く、物質的な力は豊富である。その結果、いまや国際的な地位は大いに高まり、世界の大国の1つになっており、国民の生活水準もかなり向上し、国民の自信と誇りも高まり、ナショナリズムの意欲も高まった状況にある。しかし、新政権の直面する課題も少なくないであろう。そして、その中でも深刻な問題もいくつかある。例えば、経済発展をいかに持続させるか、環境破壊や社会における貧富の格差といった諸矛盾や官僚の特権とか腐敗、それに政治改革をいかに実現するか、さらには外交面での圧力など、重大の問題が山積している。
 新政権がこれらの問題にどう対応することができるか、さらにこれらの問題を解決できるかどうか、は新政権の外交政策とも密接な関連があると思う。つまり、今の開放的な国際社会においては、中国とほかの国々との相互依存関係は極めて深く、これらのいろいろな問題を解決するためにほかの国々、特にアメリカや日本のような西側の国々との協力関係を維持することは非常に重要である。確かに、中国と西側の国々とが全面的な協力関係を維持できるかといえばそうとはいえないであろう。時により、また問題によってはそれらの国々と対立した関係に立つ可能性も想定される。いずれにせよ、対日政策に関していえば、新政権のそれはかなりの程度、中国の国内の社会、経済、それに政治状況によって決まってくるものと思われる。

新政権の対日政策

そこで、次期新政権が取ると思われる対日政策についてもう少し詳しく考察してみることにしよう。新政権の対日政策は、一般的に指導者が持っている個人的な要素とか、政策の慣性や国内の社会、経済、それに政治状況、さらには日本自身が取る対中政策とか態度などによって決まってくる。それらの中で、個人的な要素とか政策の慣性といった、二つの要素は主動性と現実性があるためあまり大きくは変化しない。それに対し、国内の社会、経済それに政治状況、そして日本の対中政策と態度の二つの要素は新政権にとっては受動的な要因である。このため、それらは変化する可能性があるため、新政権は現実の状況に応じて調整する必要性がでてくるものと考えられる。
 新政権の指導者たちは「文化大革命」とか「改革開放政策」を経験しており、また現代の教育を受けたこと、また中国の国力が向上したことで、いっそうの開放的かつ寛容な態度をもって日本に対応するのではないかと考えられる。また、政策の慣性があって、中国自身の利益のためにも日本との関係を安定させ、貿易や技術輸入、地域の安全とか環境保護などの領域で、両国は協力する必要がある。この意味から言っても、新政権の対日政策は寛容と融和の方針に基づき、安定と協力を中心としたものとなろう。しかし、彼らの政治的権威は乏しいし、国民の支持率はあまり高くないことから、日本に妥協する可能性はあまりないといえよう。それでも、安定的な支配のためには出来る限り、日本との間での摩擦や衝突を回避しようとすることが考えられる。それは国民の反日感情が国内問題へと転嫁する心配があるからである。この意味でも、新政権の対日政策は安定を目的とするものといえるが、さりとて両国の間に存在している諸問題を全面的に解決し、中日関係をさらに推進するかといえば、それも難しいであろう。
 また、もし中国国内で何か社会的ないし政治的な危機とか動乱が発生しそうな状態が生じれば、あるいは強いナショナリズムを表すような事態が発生すれば、新政権の対日政策も少々強硬になるかもしれない。なぜなら、これは国内の政治の訴えを他に転嫁するか、支配の合理性を強調するために起きる問題だと考えられるからである。特に、日本側の対中政策や対中態度に何か友好的でない事態が生じれば、新政権の対日政策がもっと強硬になることも十分考えられる。ここで「何か友好的でない事態」というのは、具体的には、例えば、過去に起きた歴史認識問題とか、領土と海洋資源に関わる問題、さらには台湾問題やイデオロギーの問題、安全保障や軍事的信頼と日米同盟の問題など、さまざまな事態を指している。こうした事態が発生しない限り、新政権が特別強硬な対日政策を取ることはまず考えにくいと思う。

結語

以上見たように、胡温体制から習李体制による新政権がやがて誕生し、今後10年間にわたって政権を担当することに決まっている。習李体制の対日政策は特別な事件や変化がない限り、大きな変化はないと考えるのが一般的であろう。しかし、10年間といえば、かなりの長期であり、その間に内外で何事も起きないと言う保障はない。事実、中国が直面する課題は政治・経済・外交などすべてにわたって、少なくはないし、日本側にもさまざまな変化が考えられる。この10年間に、具体的に何が両国に起きるかを予想することは極めて困難である。直接的・間接的に内外のさまざまな要因が中国の対日政策に及ぼす可能性があるだけに、今後の両国とその周辺を取り巻く環境の変化には大いに注目する必要があろう。

W 上海研修旅行と中国の金融改革(印刷用pdf) 

真清(経済学博士)

アジア近代化研究所副代表、中央大学商学部教授

グローバル化が進展する中国において、国内の所得格差問題や農村部の問題は深刻である。まさしく、地域経済の活性化が喫緊の課題となっているだけに、地域のニーズに的確に応えるサービスを提供し得るしくみの構築が待たれるところである。この課題は、中国に限ったことではなく、アジア通貨危機、サブプライムローン問題の影響を受けた東アジア諸国、また東日本大震災からの復興問題に直面する日本に共通する課題でもある。しかし、ここでは、200811月、中央大学の学部横断型授業であるファカルティ・リンケージ・プログラム(FLP)の一環として行なった上海研修旅行の経験を参考にしながら、中国の金融改革を展望することにする。

上海のヒヤリングで感じたこと

グローバル化が各国の地域経済独自の発展に好ましからざる影響を与えるとの主張も多い。しかし、地域経済とグローバル経済の並存も、さらに地域経済発のグローバル化もあり得ると考え、それを可能にする地域金融システムを検討するのが、ここでの目的である。
 地域経済発のグローバリゼーションの可能性を求め始めたのは、上海でゼミナール研修旅行を行なったときのことであった。ゼミ生は日系金融機関を訪問してヒヤリングを行なう研修旅行計画を立てたが、その目的は、グローバル化と地域の活性化を両立させ、家計、市民の福祉を高める手段を考察するため、専門家に実際の業務を伺うことにあった。そして、アドバンテストやDRAMテスターのごとく地域発の企業が世界市場の主役になった成功例に着目して、地域と世界を結ぶ資金チャンネル構築の可能性を求めることにあった。研修そのものは数日にすぎなかったが、JETRO、野村証券株式会社、名古屋銀行、千葉銀行を訪問して、進出企業の雇用条件、進出企業の資金調達の方法、上海株式市場の状況、中国のIT産業の状況、中国の地方産業の業容等についてヒヤリングを行なった。そして、JETROおよび日系金融機関が、長江流域に進出する日系企業、中国の政府機関及び企業に対して情報の提供、相談などの支援業務を行なうことで、国両国間の投資や貿易の促進に貢献していること、また金融機関はそのために情報生産機能を強化することによって、現地のニーズに見合うサービスの提供を改善し続けていることを確かめることができた。
  また、野村証券のように、上海市の起債支援、リスク・キャピタルの提供、新規公開、M&Aの支援を行なうなど、日本と中国両国のグローバル展開に貢献していること、他方、名古屋銀行のように、進出を希望する地元企業に、現地の情報を始め、業務協力協定先・友好提携先を通じて、ビジネスの具体的成立を側面的に支援していることも分かった。
 しかし、当時の中国のIT産業の規模がまだ小さく国際的な展開が遅れていただけでなく、技術創造能力が弱いこと、中国の証券市場は非流通株が発行株式の6割以上を占める歪んだ市場であること、長期投資や機関投資家が不在であること、社債市場の発展が遅れているという構造的な問題に加えて、企業の情報開示の不足や不正行為などコーポレート・ガバナンスにかかわる問題が存在していることも、知ることができた。さらに、農村問題が深刻な状況にあることも分かった。
 奇しくも、上海研修旅行の直前、109日から12日まで開催された中国共産党「第17回第3次全国大会」は、中国の農民と農村をめぐる諸課題をとりあげ、農村経営、土地管理、金融などの農村改革を目的としていた。すなわち、2020年の農民の一人当たり平均所得を2008年の2倍に増やすこと、農村の組織建設を強化すると共に農民の民主権利を保証すること、農村の住民の教育、医療環境を改善することが、主な目的であった。
 中国において、金融・資本市場および農村・地域の問題が顕在化し、改革が要されることになったが、研修旅行を実施した2008年しかも11月は、サブプライムローン問題が世界の実物経済、金融経済に最も深刻な影響を与えていた頃でもあった。9月のリーマンショックの影響を受けて、世界全体の同年10月―12月期の実質GDP成長率(前年比年率)が大きく落ち込んだことは記憶に新しい。しかし、不思議なことに、研修の準備段階でも、ヒヤリングを行っているときでも、中国経済の先行きに関する悲観的な見解は聞かれなかった。それもそのはずであって、韓国−18.8%、日本−10.3%、ユーロ圏−7.4%、米国−5.7%と各国の経済成長率が軒並み大幅に落ち込んだ中で、中国のそれは6.8%と堅調であった。
 それだけでなく、北京オリンピックの閉幕にもかかわらず、その影響は話題にのぼらなかった。東京オリンピック後に不況を経験した日本と対照的に、いわゆる一極集中型の構造とは言えない中国の場合、オリンピック終了による影響は上海には限定的なものにすぎないと考えられていたからであろう。実際、南通市内の現地法人の社長を対象にして名古屋銀行が実施したヒヤリングによれば、服飾検品業界ではオリンピック終了の影響はほとんど問題にされず、物価上昇につれて雇用コストが20%ほど上昇すると見込まれることが懸念材料になっていた。また、アパレル業界では、売り上げへの影響を受けなかっただけでなく、増価税の還付が11%から13%へと高まったため利益がむしろ増加した。ただし、蘇通大橋開通に伴って、南通市の最低賃金が2類から1類へと上昇したことが懸念材料であるとされた。さらに、繊維機械メーカーでは、北京オリンピックとは関係なく、すでに7月頃から売り上げが減少しているが、その背景に米国の顧客が多く米国の景気冷え込みがあるとしている。

課題が多い金融改革

他国に比べて堅調な中国経済は、金融面に関しても、グローバル化とそれに伴う全国レベルの改革を実施している。まず、グローバルな展開に関しては、母国/受入国相互監督制度の強化や最低所要自己資本に代表されるバーゼル委員会のコアプリンシプルの尊重など銀行の国際化、そして、それを実施する人員の育成を重視するようになっている。しかし、中国の債券市場の発展は遅れている。香港通貨当局が為替基金証券を発行することによって債券市場の拡充に成功したのと対照的に、ベンチマークとなる金融商品が発行されていないことがその背景になっているように、利回りなど本来投資基準となるべき指標が機能していないことから、市場メカニズムが十分に機能しているとは言い難い。
 加えて、クロスボーダー取引のうち、とくに外国人投資家による国内債券への投資が重要であるが、実際に、外国人投資家が国内債券を取得することが認められているかどうかが問題になる。たとえば、2004年に日本銀行とマレーシア中銀が共同で実施したサーベイ調査(竹内淳(2006「アジア諸国における債券のクロスボーダー取引阻害要因」『日本銀行調査季報』冬(1月),pp.3541.)によれば、中国の場合、200212月に適格外国機関投資家(QFII)制度が開始されたものの、QFIIは、@中国国内の金融機関に人民元を扱う特別講座を開設した上で、国内証券会社を通じた取引を条件としていること、A投資した資金およびその収益の国外への持ち出しが、クローズエンド型で設立後3年間、その他の型で同1年間、禁止されているため、ファンドマネージャーの能力を制約すること、BQFIIへのライセンス付与の透明性に疑義が存在していることなどの課題を残こしている。
 次に、全国レベルの金融改革に関しても、銀行だけでなくノンバンクの規制と監督を重視するようになった。その理由は、1986年に、投資信託公司、ファイナンス公司、リース会社などのノンバンク金融機関の設立が認められていたが、韓国のマーチャントバンクやタイおよびインドネシアのファイナンスカンパニーと同様、内部コントロールが弱かったため、バブルを発生させることになったからである。  そのため、中国政府は1993年以降、不動産バブル崩壊がもたらした不良債権処理に取り組んでいたが、さらにアジア通貨危機を機会に、金融リスクの防止・解消を目的とした金融セクター改革を進めることになった。その後、2001年のWTO加盟に伴い金融セクターの開放が必要とされたため、国際基準に沿ったルール作りと国際競争力をもつ金融機関の育成を軸とした金融改革に取り組むことになった。    WTO加盟に際して、弾力的な金利政策を採用する一方、預金準備率を引き下げなど市場メカニズム尊重型経済運営を行うようになった。しかし、1999年までは、外国銀行に対して、人民元業務を認めていなかったので、バブルと不良債権の発生は外資流入の結果ではなく、国営企業の改革の遅れが最大の要因であったと考えることができる。ところが、財務会計原則が新しい産業やリストラ企業の資産の計算に不適切なこと、財務報告が不適切なこと、さらに地方政府の役人の干渉が行われることなどの問題に加えて、金融機関の資金不足、破産した金融機関の売却や証券化のための流通市場が存在していないという金融機関自身の問題が内在していたため、不良債権処理を遅らせることになった(Cai E-sheng (1999), “Financial supervision in China: framework, methods and current issues.” BIS policy Papers No.6.
    そこで、国有企業と中央政府・地方政府の介入を避け、金融機関の経営効率の改善を図るため、中央銀行の監督体制の強化や商業銀行のリスク意識の高揚およびモニタリングに主眼が置かれることになった。すなわち、1998年の証券法によって、中国人民銀行、中国保険監督委員会、中国証券監督委員会の3つの主要監督局が、それぞれ3つの型の金融機関とその業務活動を監督しながら、監督機能の強化を目指すことになった。同様に、1999年には、中国人民銀行の総行が金融政策を担当する一方、分行が金融監督業務を担当する分業体制を敷く組織の変更が実施された。また、不良債権の処理を目的として、中国商工銀行、中国建設銀行、中国の農業銀行、中国銀行の4大国有銀行ごとに資産管理公司を設置すると共に、証券市場の発展を目的として、証券会社と基金管理会社に対してインターバンク市場が開放されることになった(China Society of Monetary Economics(2000, Academic Almanac of China’s Finance and Banking.)
 
しかし、喫緊の課題は、農業や中小企業、またベンチャービジネスを育成する金融システムの整備が遅れていることである。その基本的な要因は、大企業すなわち国営企業に優先的に資金が配分されたことに求められる。中国の場合、中小企業は非国営企業とほぼ同義語であり、郷鎮企業、個人企業、三(外)資企業によって構成されている。他方、中国の農村金融は、農村合作基金会、互助組織(「会」)、親戚・友人のインフォーマル金融と、政策的金融である農業発展銀行、商業銀行としての中国農業銀行、協同組合的機関である農村信用社のフォーマル金融によって構成されている。この中で、農村信用社は、1994年と1996年に農業発展銀行から分離した農村金融の最大の機関であるが、都市商業銀行的な性格を持つ農業銀行と異なって、市場ベースでの経営が難しい零細資金需要に応える目的を持っている。  1990年代末頃から、国営企業すなわち大企業の不良債権比率が高まったため、国有商業銀行の中小企業向けの貸出比率は一時的に増加したことも事実である。しかし、それまで飛躍的な成長を遂げ農村部のリード役であった郷鎮企業が、厳しい市場競争の激化に対応できなくなったことが、農業銀行、農村信用社の業績を悪化させると共に、農家や中小企業による資金調達のインフォーマル金融機関依存度を高めた一因である。
 しかし、農家や中小企業が商業銀行から資金調達するのを難しくしている基本的な要因は、政策金融の主対象とはなっていない中小企業向け融資の高い取引コストによる。コミュニティをベースとした融資であれば、情報の非対称性を緩和することで取引コストを低めることができようが、中国の場合、グループ貸出などコミュニティを土台とする融資がゆきわたっていないため、取引コストを高めるものと思われる。また、また農村部の中小企業が各地に点在することが規模の経済のメリットを薄め、取引コストを高めることになる。この状況の中で、都市・農村間の経済格差は、一層、深刻になった。そこで、中国共産党中央指導部は、2000年頃から、3農問題(農業、農村、農民)の解決に向け、農村金融改革に取り組むようになった。たとえば、商業銀行に関しても、全国的な国有商業銀行だけでなく、都市信用組合を核とする地方銀行が設立された。同様に、農村部では、農村信用社そのものが再編されることになった。
 ところが、大多数の農村信用社の経営は深刻な状況にある。これを克服すべく農村信用社を合併して県連合組合が設立されたが、所有権が不明確であることから内部管理を難しくしている。それだけに、市場経済を貫徹する企業金融と相互扶助としての組合金融の適切な組み合わせが今後の課題となっている
岡崎久美子(2010)「中国農村金融制度改革の現状と課題:銀行業金融機関の再生と三農政策に呼応した取組みの中間評価」日本銀行金融研究所『金融研究』第29巻第2号

地域密着型金融システムの確立

 地域経済に根ざした金融機関として、マイクロファイナンスをイメージすることができるが、中国の農業金融の担い手になり得ると考えることができよう。マイクロファイナンスとは、既存の金融機関にアクセスが難しいマイクロビジネスなどを対象とした小額融資のことである。しかし、貧困層向けの補助金的な無担保融資を行なうマイクロクレジットとは異なって、非営利事業も営利事業も共に行なっている。
  マイクロファイナンスは、協同組織金融機関が主な機関であると考えることができる。協同組織金融機関はコミュニティバ ンクとも呼ばれるが、各国に存在している。たとえば、日本の協同組織金融機関には、信用金庫、信用組合、農業協同組合、漁業協同組合が含まれる。中国は、農業信用社が代表的な存在である。しかし、これらの機関は、収益性を尊重すると共に相互扶助という理念が求められていることで共通している。
 しかし、協同組織金融機関もその他マイクロファイナンス機関も、営利目的と非営利目的を峻別した上で、他金融機関との協業を行なうことによって、収益性と互助性を両立する可能性があるものと思われる。

 まず、営利目的に関しては、商業銀行との競争が激化している中でどのように競争力を高めるかが課題になるが、たとえば、地域の特性を活用したニッチ生産のためのニッチ融資を行なうことで競争力を高めることができよう。営利ビジネスの資金調達の一例として、コミュニティ・クレジット(国土交通省計画局ホームページ(http://www. kokudokeikaku.go.jp/share/doe_pdf/qqo.pdf) ) をあげることができる。コミュニティ・クレジットとは、地域社会において互いに信頼関係にある企業等が、相互協力を目的に資金を拠出し合い連携することで構成員個々の信用より高い信用を創造し、金融機関からの資金調達を円滑化すると共に、地域の資金を地域に還流させるものである。すなわち、地域社会の信用を担保にしたローンであることが、特徴になっている。
 次に非営利ビジネスの場合、高度医療や環境関連プロジェクトのように社会的な貢献が期待できるものであれば、地方政府、地域金融機関、市民の協業によるコミュニティ・ファンドだけでなく、住民参加型のミニ地方公募債のように市民の直接的な参加にも、一層、期待が掛かることになる。ミニ地方公募債そのものは、他の債券同様、投資機会を提供することに変わりがない。しかし、仮に他のタイプの債券に比べて低い利回りであったとしても、債券の発行目的に共鳴した購入が行なわれていることに着目できる。中国の場合も、住民自身の参加意識の高揚につれて、地域金融の整備が促進されるもと推測できる。


       X 東マレーシアの魅力(2) 

−サバ州:The Land Below the Wind

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上原 秀樹 (農学博士)

アジア近代化研究所副代表、明星大学教授

1.はじめに

サバ州は、3月から4月にかけて乾季の時期になることから、東南アジア最高峰のキナバル山への登山客またはエコツアー客には、この時期のツアーが好まれている。キナバル山を中心に東西に経緯30度の範囲内には南アジアのインドからインドシナ半島諸国、東南アジア島嶼国、長江以南の中国南部、韓国、北海道を除く日本列島が位置するが、この地理的範囲内をモンスーンアジア地域という。特にキナバル山が位置するボルネオ島(カリマンタン)は、世界でも「生物多様性」の豊富さで知られている。したがって、世界遺産として登録されているキナバル山周辺の国立公園内も動物種、植物種の「種の多様性」が豊富である。キナバル山の名称の語源は、サバ州の少数部族であるKadazan Dusunの言葉で、キナCinaは中国、バルは未亡人を意味するという。Kadazan Dusunの民話によると、昔、南シナ海で漂流してきた中国の王子とこの地Ranauの村の娘との民話の中で、夫婦になった後中国に帰郷した王子をキナバル山から王子の帰りを毎日一途に待ち続ける女性をたたえたことにその名前の由来があるという。女性の永遠の愛と誠実に夫に遣う美しさを表現したのがキナバル山の名前であろうか。別の民話では、語源がAki Nabaluで死者の魂が登る場所で「死者の聖地」とも呼ばれている(以上は、現代アジア事典を参照)。本稿では、サバ州の魅力を主に歴史的観点からひも解いて整理して紹介してみたい。

2.歴史的ロマンに満ちた北部ボルネオ:サバ州

The “Land Below the Wind” この名称は北部ボルネオ地域(North Borneo)、すなわちサバ州に与えられた名誉ある呼び名である。アメリカの著名な作家、アグネス・キース女史(1901~1982)は、第二次大戦前にイギリスの保護区としての北部ボルネオの最大都市であったサンダカン市を中心に北部ボルネオで5年間居住した経験を持つ。彼女は夫に勧められたこともあり、深いジャングルで覆われたこの熱帯の地で得られた豊かな経験を基に、1939年にLand Below the Wind (Boston, Little Brown and Company, November)(『ボルネオ―風下の国―』三省堂、昭和15年)を著した。この著書がベストセラーとなり、本のタイトル名がサバ州の代名詞となった。それがその名称の由来である。
 The Windとは、特にボルネオ島の北部に位置するミンダナオ島以北のフィリピン諸島を強烈な暴風雨で襲い、東から西に向けて通過する台風のことを意味する。したがって、land below the windとは、台風ベルト圏外の「暴風雨から開放された平穏な大地」と意訳できる。それゆえに、サバ州を含むボルネオの熱帯多雨林は1億年以上の世界最長級の歴史を持つにもかかわらず、今日まで多種多様な動植物の生息を安定的に維持することができ、「生物多様性のホットスポット」となりえたのであろう。今日でも5070m級の世界で最も背丈のあるフタバガキ科の樹木の生態系が深く豊かな熱帯多雨林の森を形成している。しかしながら、70年代から90年代にかけて、これらフタバガキ科が輸出用南洋ラワン材として伐採され原生林の面積が縮小されてきた歴史があることは悲しく、残念なことである。
 このベストセラーとなったLand Below the Windが第二次大戦中にボルネオ地域の捕虜収容所所長として赴任することになる広島県出身の菅辰次中佐に愛読されていたことで、家族とともに捕虜となっていたアグネス・キース女史に収容所内での執筆を継続させるきっかけを与えることとなった。彼女は家族とともにサンダカン市の沖合に位置するベルハラ島で8か月間の捕虜生活を送った後、サラワクのクチン市近郊の収容所に送られた。大戦中北部ボルネオを統治した他の日本軍の兵士にもボルネオ地域を知る貴重な資料として読まれたようである。さらに、彼女が1947年に著した別のベストセラーの名著で映画化されたThree Came Home (Boston, Little Brown and Company, April)では、北部ボルネオを支配していた日本軍による彼女と家族に対する捕虜としての扱いが克明に描かれており、興味深い。Three Came Homeは、アグネスが捕虜収容所内で菅辰次から特別に配慮され渡された紙と鉛筆の日誌がもととなっている。
 アグネスが結婚した相手のヘンリー・キースもまたボルネオ島の森林とのかかわりが深い英国人であった。彼は、戦前・戦後を通じて北部ボルネオの農務局及び森林局長官としての経歴を持つ人物であった。ボルネオの内陸部とその周辺地域に詳しいヘンリーに同伴して得た旅の経験は彼女の執筆材料を豊かにしたに違いない。彼らが戦後1947年に建築しおよそ5年間住んだ「アグネス・キースの家」は、サバ州博物館と連邦政府によって修復され、今日ではサンダカン近郊における観光スポットの一つとなっている。
 さらに、アグネス・キース女史の東南アジアへの想いに影響を与えた人物として父親を挙げないわけにはいかない。彼女の父親は今日ではアグリビジネスの世界的なコングロマリットとして位置づけられるデルモンテ社の創始者の一人であった。デルモンテ社は、フィリピン諸島を拠点にパイナップル、バナナ等の栽培から加工・輸出とプランテーション経営を行っているが、2011年からはサラワク州とサバ州でも生食用パイナップルの栽培を始める計画を持つ。アグネスの東南アジアへの思い入れに対し、父親の職業と活動が大きな影響を与えたことは間違いないであろう。 もう一つ、サバ州にロマンを感じさせるものとして、その州名の由来をあげておこう。サバ(Sabah)州はマレーシア連邦全域の中で最も北東部に位置することから、その名称が持つ言葉の意味は「日が昇る」または「朝方」である。ここでは、マレーシア国民に明日の希望をもたらす州として19629月、シンガポール、サラワク州とともにマラヤ連邦に組込まれたのではないかと、推測できる。この朝日を満喫できるのが、キナバル山である。
 日が昇る、またはRising Sun(日の出の国)といえば、日本の代名詞としても使用される場合が多いが、第二次大戦直前までの日系企業と日本人が英領「北ボルネオ会社」の統治下にあったサバ地域の経済開発と発展に果たした役割は極めて重要であり、宗主国のイギリスに勝るとも劣らない社会・産業基盤を残した。この視点からの分析に関し、マレーシア人研究者の最近の研究報告を以下に挙げておくSabihah Osman, “Japanese Economic Activities in Sabah from the 1890s until 1941,”Journal of Southeast Asian Studies, March 1, 1998。戦後イギリス政府はサバ州において反日教育を展開しただけでなく、日本人の財産・遺産を没収または焼却し、日本人全員を本国に強制送還したため、貴重な物的資料が失われてしまった。しかしOsmanによる論考は、戦後数少なく点在した史実を網羅・集約し、客観的な視点から日本人がサバ州の発展に果たした役割を整理・分析している。このことから、貴重な文献としてここに挙げておきたい。
 無償で片道乗車券を与える必要があった中国からの労働者の誘致条件に対し、日本からの労働者は、主に自己負担で渡航用の船賃をねん出しなければならなかったこともあり、「北ボルネオ会社」は日本からの労働者の受け入れには積極的であったといわれる。これに対し、英国の本国政府は、海上覇権の戦略的見地から、日本人労働者を呼び寄せるには反対であった。しかし、日本人・日系企業と「北ボルネオ会社」の共通の利害が功を奏し、多くの日本人労働者がタワウ地域を中心に移り住んだ。タワウ市を中心とした林業、漁業、マニラアサの製造業などの産業基盤の構築に貢献した企業として、日産系の天然ゴム農園(タワウゴム農園=久原農園)と三菱グループ系を挙げることができる。三菱系グループの久保田農園は、1918年には沖縄から42人の労働者を受け入れている。日本人によって開発された主要な産業基盤とインフラの遺産は、日本が敗戦国となり、その後植民地政策を開始した戦勝国のイギリスに没収され、残念ながら現在では計り知れないものとなってしまった。この日本人がサバ州の開発に果たした役割については次回のニュースレターで紹介することとしよう。

3.サンダカンにみるロマンから悲劇の街へ

 
すでに述べたように、サバ州のイメージはロマンを感じさせるものが多くあるが、それとは対照的に、英領北部ボルネオの時代に首都として位置づけられたサンダカン市は、悲劇を象徴する街でもある。サンダカンについては先の「東マレーシアの魅力(1)」で山崎朋子の著書『サンダカン八番娼館』と関連させて紹介したように、日本からの「からゆきさん」(娼婦)の悲劇の物語が描写されて日本人に大きなインパクトを与えた。1891年英領北部ボルネオのセンサスでは71人の日本人娼婦が確認されている。さらにもう一つ、サンダカンは、もともとスールー語で、「質に入れた土地」を意味   するようである。要するに、イギリス人の銃器の密輸業者であったウィリアム・コーウィーが当地を支配していたスールーのスルタン(王)から貿易港として地理的に有利な立地条件を備えているサンダカンの土地を借りて、「質に入れた土地」として名づけたもので、ロマンを感じさせるものとは言い難い。
「東マレーシアの魅力(T)」ですでに述べたが、サンダカンとラナウ間の「死の行進」、「ラブアン玉砕」に加え、サンダカンの悲劇が最高潮に達したのは、第二次大戦中に連合軍から集中爆撃を受けた時であろう。また日本軍が応戦しサンダカンを焼き払ったことで街が廃墟と化した。そこで、戦勝国のイギリスは、戦後は英領北部ボルネオの首都を南シナ海に面したコタキナバル市(当時はジェッスルトンと呼ばれていた)に移すこととなった。州都のコタキナバル市には、市の南部を起点に1896年に建造された北ボルネオ鉄道が南方に延びている。2009年以来運休中であったが、20117月から再開を予定しているので、車中で昼食をとりながら鉄道の旅を満喫することができる。車窓からボルネオの風を受けながら、アグネス・キース女史も経験したであろうロマンを感じることができるのではないか。

4.コタキナバルと関連する写真の紹介

       

1)世界遺産「キナバル国立公園」近くに   2)コタキナガル市港湾内の早朝の魚競市設けられた少カダザン族の土産物屋。            数民族、 20008月、400amころ撮影)。
ただし、日常生活用品と白菜などの温帯野菜
加え生鮮果実も販売している20008月撮影)             

       

3)サメはフカヒレ用に解体してから持ち帰る       4)朝競市では魚を調達する多数のフィリピ
 (
20008月、400amころ)。            ン系女性も参加する(20008月撮影)。

          5)サバ州は、フィリピンのミンダナオ島      6)ミンダナオ島ダバオ市郊外におけるフィ

  との関係が深い。ミンダナオ島には、日系      リピン日系人会のメンバー(19998

  23世の住民も多い(19998月撮影)。      撮影)。日系人であることに誇りを持つ。

                               

Y ニュースの裏を読む(11(印刷用pdf) 

長谷川 啓之

アジア近代化研究所代表 

  今回の「ニュースの裏を読む」は第11回目です。これまでさまざまなアジアの国を取り上げて参りました。当然のことながら、アジアには数え切れないほどのニュースや出来事が絶えず発生しています。それらの中から、今回は北朝鮮の「経済開発10か年戦略計画」、南シナ海での領有権争いを巡る問題、タイの総選挙とその結果、の3点に焦点を当てて、その背景を考えてみることにしましょう。

(1)北朝鮮が20振りに「国家経済開発10ヵ年戦略計画」を出した意味とは? 最初に北朝鮮を取り上げましょう。朝鮮中央通信は2011115日、北朝鮮政府が「国家経済開発10ヵ年戦略計画」を採択したと報じました。それによれば、金日成生誕100年の2012年には強盛大国の大門を開くとし、国民の生活水準を高めることを目指しており、その基礎はできたとしています。さらに、2020年には先進国の経済水準に達する確固とした展望が開かれたと豪語しています。しかし、その内容は詳しく報道されていません。この国家的な計画が発表されたのは、1987~93年の「第37ヵ年計画」から数えて20年ぶりのことで、この計画が実現する可能性は小さいだけに、その真意は理解しがたいというのが、多くの人の共通した感想かと思われます。
 それはそれでいいとしまして、この記事を報道した26日の『朝日新聞』によると、韓国の企業銀行経済研究所が独自に把握した計画概要は、以下の通りである。「農業の開発、北東部の経済特区・羅先や北西部の新義州など5カ所での物流産業団地の建設、電力3千万ワットの生産、空港や港湾の建設、高速道路3千キロの建設、などだ。必要な投資は1千億ドル規模で外国企業には法人税減免や、当局による事業保障などの支援も想定している。」こうした考え方は北朝鮮経済がいかに農業やインフラなどの基礎的な分野で遅れているか、それを解消するには外国企業に頼むしかない、ことを示しているともいえでしょう。しかし、果たして北朝鮮が満足できるような外国企業の助けは得られるでしょうか。また多くの国民が餓死する状況の中で、経済発展どころではないとも言えるでしょう。まず国民の空腹を癒す必要があるわけで、その点は指導者の意識にも一応はあるでしょうが、自ら実現すべき農業開発やインフラ整備を、どうやって実現するつもりなのでしょうか。
 北朝鮮政府は1998822日の『労働新聞』(社説)紙上で、北朝鮮の経済政策の最終国家目標に強盛大国の実現を提示しました。強盛大国とは主体の社会主義、首領中心、自力更生に基づいて、政治、経済、軍事、思想、中でも経済を活性化し、自立経済の建設を目指すことで、すべての面で実現すべき強大な国家のことです。さらに、金正日は991月の「共同社説」で、近い将来、すべての分野で最上の威力を持った社会主義強国を作り上げると主張しています(詳しくは、長谷川啓之監修『現代アジア事典』を参照)。
 もちろん、当時から見て「近い将来」に北朝鮮が強国になったと考える人はいないでしょう。つまり、経済発展するには北朝鮮の政治・経済的環境はまったく不十分でありますが、われわれから見ればその原因も明白であるにもかかわらず、北朝鮮政府はわかっていないのではないか、とかんぐってしまうわけです。つまり、今回の「国家経済開発10ヵ年戦略計画」でいかに勇ましいことを主張してみても、国民が最低生きていくために必要な食料さえ確保できない状況で、工業化などとうてい実現の可能性はない、といわざるをえないわけです。それにもかかわらず、なぜこうした計画を出すのかでしょうか。
 それにはさまざまな憶測や見方があります。たとえば、「実現性より、世襲を進める中で住民に『希望』を示すメッセージ」なのだとか、「20年という時期を示したのは、12年に強盛大国、という目標を事実上後退させた」にすぎず、「世襲の正当性を経済の実績で示そうとする」ため、などなどです。これらの指摘はいずれもある意味では正しいというべきでしょう。しかし、最近、金正日が中国のあちらこちらを視察に行ったという事実との関連で考えるなら、まず北朝鮮が本当に経済発展のメカニズムを理解していないのではないか、自分の考えで経済発展する自信がないのではないか、と考えざるを得ません。またチュチェ思想に基づいて、政治・軍事優先のやりかたで経済発展が可能と考えていなければ、こうした計画自体が出てくることはありえないというべきでしょう。
 もちろん、国民をごまかすことはできても、外国の目をごまかすことはできません。さらに、この計画を実現するには、外国、特に韓国、アメリカ、日本、中国などの協力が不可欠でしょう。しかし、現段階では中国以外に積極的に協力する国はまずないでしょうから、中国頼みで可能と考えるしかないわけです。かりに中国に期待するとしても、中国一国で北朝鮮の経済発展を担うにはあまりにも荷が重過ぎますし、中国自身、自らの利益に合致しないことを積極的に実施する気はないに違いないでしょうから、そうした発想またあまりにもナイーブというべきでしょう。言うまでもないことですが、まず北朝鮮自身が政治や外交を改革しないままに、いかなる経済開発計画を作成してみても、経済開発論の観点から見て、結果は明白であり、無意味な試みに終わるとしか思えません。経済発展はそれほど簡単にできるものではないことを北朝鮮の指導者はもっと知るべきでしょう。

(2)南シナ海での領有権争いをどう見ればいいだろうか

 ここ数年にわたって、南シナ海の南沙諸島(またはスプラトリー諸島とも言うが、ここでは日本でより一般化している南沙を使う)と西沙諸島(またはパラセル諸島とも言う)について、中国、ベトナムを初め、東南アジア諸国との間で領有権を巡って争いが続いています。つまり、近年、前者については中国、ベトナム、フィリピン、台湾、マレーシア、ブルネイの6カ国の間で,後者は中国,ベトナム、台湾の間で争われています。ただし、前者で全面的に領有権を主張しているのは6か国中、自国からより遠い、中国、ベトナム及び台湾であり、その他のより近い国はその一部の領海と排他的経済水域を主張し、島によっては実効支配が行われています。特に、西沙諸島については、実質上、中国とベトナムの争いといっていいでしょう。 最近のニュースを見ると、紛争に最も強く関わっているのは、それぞれの諸島とは地理的には遠く離れた中国とベトナムの争いといえそうです。ところで、これらの諸島はどのような島々かといえば、いずれも極めて小さな島の寄せ集めにすぎず、人間が住める陸地部分はほとんどなく、いずれにも人は移住していません。どちらかといえば、これらの諸島は貿易船が航海する際には、座礁の恐れがあるだけだといわれるほど、あまり価値が認められていませんでした。ところが、20世紀後半以後、突然注目され始めたのは言うまでもなく海洋資源(たとえば石油資源など)をはじめ、領海(12海里)とか排他的経済水域(およそ370km)の経済的価値が注目され始めたからです。これらの経済的価値以外にも、その海域においてシーレーンとしての南シナ海に大きな影響力を行使できるという戦略的な意味もあるでしょう。日本のタンカーにとっても、この海域は中東からインド洋を経て、日本にいたる重要な海域となっており、どの国がこの海域を支配するかで、大きな影響を受ける可能性があるだけに、関心を持たないわけには行かない状況なのです。かつて日本も1939年に軍事戦略的意味を求めて、これら諸島を支配下に置いたことがあります。
 ところで、これら2つの諸島には若干の相違があります。南沙諸島は100以上の小島や岩礁などからなっており、海抜は最高でも4mで、面積は合計してもわずか10平方kmにすぎず、人間が長期に滞在することはできません。西沙諸島も小さな島や岩礁から成っており、主な島では面積150haのパットル島やボアセ島があるが、前者でも海抜9mにすぎません。南沙諸島に関する中国の動きは80年代後半以後かなり強引な遣り方で実効支配を試みつつあります。中国が19882月に、軍事侵攻を行い、ベトナム軍を排除し、南沙諸島の中のいくつかの島を占領し、925月には南沙諸島の南西のはずれにある浅瀬で石油探査をする権利をアメリカの私企業に認めると発表し、ベトナムなど多くのアジア諸国を驚かせました。さらに、95年にはフィリピンが支配していた島の1つであり、排他的経済水域と主張するミスチーフ礁に軍事建造物を設置しました。それにもかかわらず、南沙諸島における中国の優位は確立しておりません。
 これに対し、西沙諸島では中国が複数の港を建設し、軍を駐屯させており、事実上の実効支配を行っています。その背景には、西沙諸島は中国の古い文献に中国の領土として登場しており、それが中国の領有権主張の正当化の最大の要因となっています。こうした主張は日本との間で紛争となっている尖閣諸島(中国名は釣魚島)問題も同様の理屈です。
 中国の西沙諸島への接近は19世紀末から活発になり、1909年に清朝が艦隊を派遣し、西沙諸島の中のボアセ島に旗を立てました。また太平洋戦争時に日本が南沙諸島と西沙諸島を占領しましたが、敗戦で撤退すると、両諸島に中国(当時は中華民国政府)は軍艦を派遣し、47年には西沙諸島の中のウッディ島に軍を送り、占領しました。その後はさまざまな混乱などの紆余曲折がありましたが、1956年積極的に西沙諸島の領有を主張する南ベトナムがその西半分を占領し、中国は東半分を占領しました。ベトナム戦争末期の19741月には、中国は西沙諸島の西半分に軍を派遣して、ベトナム軍を排除し、中国による実効支配が確立しました。こうしたやり方にベトナムが納得するはずもありません。
 中国は92年領海法を制定し、南沙諸島の中国領有を正当化しました。これに対し、ベトナムは南沙諸島をベトナム中南部の省に所属するものとしています。しかし、中国もベトナムもこれら諸島に住民を住まわせたことはほとんど皆無であるだけに、双方ともその主張には説得力に欠けるとする見方が国際社会では一般的でしょう。それに対し、南沙諸島の一部に近いフィリピンは49年南沙諸島の一部の領有を主張し始め、70年代から80年代にかけて、軍を派遣して実効支配の数を拡大してきました。マレーシアも70年代初めから南沙諸島の一部の領有を主張し始め、80年代には軍を派遣して実効支配を始めています。こうして、南沙諸島を巡る紛争は複雑な様相を呈しており、簡単には解決しそうもない状況となっています。
 そこで、この問題を共同管理すればいいのでは、などの意見がすぐ出てくるのですが、それ以外のいかなる方法にせよ、いずれも双方にその気が無い限り不可能でしょう。むろん、話し合いで解決することができれば理想ですが、現実は極めて困難な状況です。そうだとすれば、結局力で解決しようとする国が出てくる可能性がありますが、それも結局は失敗するしかありません。そのことを念頭に置かない指導者はグローバル化や地域協力の時代に地域の繁栄と平和を維持することができないばかりか、自らの国益を守ることさえできないわけですから、ふさわしくないといわざるをえません。しばらく事態の推移を見守る他はない、と言うのが現状であり、短期の解決を急がないことでしょう。他の領土問題の場合にも、軍事力を使うかほのめかして、実効支配を狙う国がありますが、それは恒久的な解決からはほど遠く、そうした拙速なやりかたは、最終的には高いコストを支払うことになるということを知るべきでしょう。

(3)揺れ続けるタイの政治:貢献党の勝利で、タイの政治は安定するでしょうか?

 73日の総選挙で野党・貢献党が事前の予想通り260以上の議席〔総数500〕を獲得して圧勝し、タイで初の女性首相が誕生することになりました。これでこれまで揺れ続けたタイの政治は安定するかどうかが今後の大きな焦点になるでしょう。タイの政治が揺れ続けてきた原因は何と言っても、タクシン元首相に関連した、さまざまな要因(これをタクシン要因としましょう)ですが、それがこの選挙で無くなるならいいのですが、無くなるどころか拡大する可能性すらあるからです。
 そこで、「タクシン要因」とは何かを簡単に見てみましょう。まずタクシンとは何者かですが、彼は元首相で2006年にクーデターで追放され、現在は海外(ドバイ)に滞在中といわれます。タクシン氏は1949年チェンマイで客家系の華人の名家に生まれ、警察士官学校を出て警察局に任官した後、アメリカに留学し、学位をとって帰国しました。その後、警察官を辞めて、実業家に転進して成功した後、政治家になり、愛国党を結成して2001年の総選挙で政権を勝ち取り、首相に就任しました。タクシン氏は97年のアジア金融危機後のタイ経済を回復させるために、主として一方で低所得層や農民の所得水準や福祉を引き上げ、他方で経済成長を高め、輸出を拡大する政策を実行し、かなりの成功を収めました(詳しくは、前出の『現代アジア事典』を参照)。ここまでは極めて順調でした。
 ところが、06年、彼の親族に対する不正疑惑が持ち上がり、野党がボイコットをする中で総選挙が行われ、愛国党が勝利しましたが、軍事クーデターが発生し、タクシン氏は追放されてしまいました。しかし、これに納得しないのがタクシン自身はもとより、彼を強力に支持する低所得層や農民からなるグループです。彼らがなぜ支持するのかといえば、一般に言われる理由は以下の通りです。タクシン氏を支持するのは貧困層や農民層などを中心とした、タクシン政権によって恩恵を受けた人々であり、彼らがその後の反タクシン派政権では恩恵を得ていないからだ、と言うのです。確かに、現政権のアビシット政権は都市中間層、富裕層、国軍・警察、王族、司法などによって支持されているといわれるように、低所得層や農民がタクシンを支持するのはある意味では間違いない事実でしょう。しかし、それだけでは片付けられないのではないかと思います。
 その理由を説明する前に、このように大多数の国民が支持するにもかかわらず、タクシン氏は何度も帰国を試みながら、結局果たせないでいます。こうした状況の中で、73日に現政権のアビシット首相は総選挙を決断しました。この選挙にタクシン氏の妹で18歳年下のインラック・シナワット氏(1967年タイ北部チェンマイで華人系の家に生まれ。タイ通信最大手のAIS社長など、ビジネスの世界で活躍するも、政治経験はない)が野党の貢献党から首相候補として立候補し、見事に圧勝したわけです。もちろん彼女が首相に選ばれれば,タイ政治史上、初めての女性首相になるわけで、画期的なことでしょう。彼女がどのような政治的手腕を発揮するかは未知数ですが、政治を安定させるには、周りの支援を受けて、なんとかタイ政治をやりくりし、対立の元を断ち切ることが不可欠でしょう。
 そこで、問題になるのはタクシン氏をどう扱うかです。『朝日新聞』(11626日)によれば、選挙前、インラック次期首相は恩赦は法の支配に基づき、和解をなすにはどうすべきかを決定するとし、それには和解実現に向けてアビシット政権が設立した委員会(「独立真実和解委員会」)の判断に基づいて行うとしています。選挙後、タクシン氏自身も「状況を見きわめたい。急いではいない」(『朝日新聞』74日長官)と語っているといわれます。いずれも正当な意見でしょう。
 しかし多くの見方では、インラック氏が余程の政治力を発揮しない限り、貢献党の圧勝でタイの政治的混乱が収まるとは考えていないことでしょう。そこで、そう考える背景を考えて見ると、容易ではないことがわかります。まずタイの政治が古い体質から抜け出せていないことです。古い政治とはさまざまな要素からなっていますが、主要なものを上げれば以下の2点に集約できると思います。1つは、「カナ政治」と呼ばれる、エリート層を中心にある種のグループを形成し、彼らが一体となって政治を動かす構図です。もう1つは何か不満があれば、軍事クーデターで政権を崩壊させる構図です。こうしたタイ政治のやり方は明らかに近代的ではなく、現実の変化を反映していないと言うべきでしょう。
 つまり、タイが民主主義の国であろうとすれば、一般庶民の力をあいかわらず無視し、一部の特権階層だけが政治や経済を動かすのではなく、豊かになり高等教育を受ける人が多くなった、農民を含む一般庶民の地位をもっと重んじ、大多数の国民の支持を基盤とした政治を行う必要があります。要するに、タイの国民が求めているのは真の民主主義的な政治をすることであり、特権階層を中核とした旧態依然とした政治方式に国民は不満を募らせていることを認識する必要があるでしょう。現実にはいわゆる着実に近代化・民主化がタイ社会に深く静かに浸透してきているのに、それを無視した政治を行っても、多くの庶民は納得しないでしょう。これまでの「カナ政治」はもはや通用しなくなってきているのです。グローバル化や情報化が進んだ現在の世界で、何らかの民主主義体制をとる限り、現実を無視した政治はもはや長続きしません。与党民主党の敗北も結局はこうした政治的流れを無視し、多数の国民の支持を失ったからであり、仮に貢献党が再び何らかの不正を行ったり、タクシン氏の処置を誤れば、いかに国民の大多数の支持が得られたとしても、再び軍の介入を招き、野党に政権が移る可能性もあるでしょう。いずれにせよタイ史上最も民主的といわれた「97年憲法」を定着させられないままに、特権集団が伝統的な「カナ政治」にしがみつき、またこれまで18回も繰り返してきた軍のクーデターで腐敗した政権をつぶしてみても、大多数の国民の利益を無視する限り、タイの政治的安定は得られないと考えるべきでしょう。タイの経済発展やグローバル化の進展は、伝統的な「政治的混乱」→「クーデター」→「軍による暫定政権」→「新政権」→「総選挙」→「政治的混乱」、と言う伝統的な政治サイクルを無効にしつつあることを認識する必要があるでしょう。

編 集 後 期(印刷用pdf) 

 今年も毎日暑い日が続いています。5月には梅雨入りし、7月早々には梅雨明けと言うことになり、異常な状況ですね。経済は停滞し、政治は混乱し、社会は沈滞気味です。こうした状況をどのように脱却するのでしょうか。世界はこのような日本をどう見ているのでしょうか。2〜3年前あたりから日本の政権交代が頻繁に行われるようになりましたが、考えて見ると、これもすべての民放のテレビが内閣とか政党の支持率を毎週発表するようになったことと大きな関連があるように思えてなりません。一種の「支持率政治」といっていい状況なのではないでしょうか。こういうことをやっている国は世界のどこにもないでしょう。内閣を批判する場合、必ず枕詞に内閣の支持率が何%なのに、管総理は云々、と言う。これがあるべき民主主義なのでしょうか。
 こんなことを考えながら、今回のニュースレターも編集して見ました。できる限りアジアの動きを皆さんに知ってもらいたい、それには興味をそそり、わかりやすく、面白く、を前提にやってみました。それでは難しい話はやめるのかと言えば、そういうわけではなく、専門的な文章を読みたい方には「eJournal」も用意していますし、「IAMレポート&アナリシス」、「研究・調査・旅行記」なども用意しております。ニュースレター以外のものは不定期に、つまり原稿が集まり次第公開することにしていますので是非そちらも見ていただきたいと思います。 特に、写真入りの旅行記はなかなか面白いですよ。
 前置きが長くなりましたが、今回のニュースレターはご覧いただけばすぐにお分かりですが、最近の注目すべき動きをいくつか取り上げました。まずシンガポールの与党の支持率が大きく下がり、独立以来圧倒的な支持率を誇ってきた人民行動党がピンチに立っている状況を辻忠博氏に巻頭言で取り上げていただきました。2番目は中国の動向を知る上で、北京や上海の内部からの情報が不可欠でありますので、それを上海出身の童適平氏に書いていただきました。これは2〜3回程度続く予定です。3番目は、中国の政治の動きと言いますか、来年には行われる政権交代が日中関係にいかなる影響を及ぼすか、と言った、多くの日本人にとって大きな関心事について、中国の日本政治専門家の梁雲祥氏に書いていただきました。なお同氏がわが研究所で最近示唆に富んだ講演をしていただきましたので、その講演記録が近く『アジア時報』に掲載されます。それも合わせて読んでいただけるとわかりやすいかと思います。4番目は中央大学の岸真清先生(アジア近代化研究所副代表)が2008年に学部横断型授業の一環として行った、上海での研修旅行の経験を参考にしながら、中国の金融改革の問題を鋭く分析されたものです。先生の長年の経験や豊富な知識を基礎に、大変時間を割いて、熱意を込めて書いていただきましたので、是非じっくり味わっていただければ、と思います。5番目はアジアの魅力シリーズの1つで、ニュースレター第6号(2010年8月15日号)で書いていただいた「東マレーシアの魅力」の2回目です。東マレーシアは太平洋戦争中の日本軍との関連も深いところです。写真入で紹介されていますので、是非呼んでいただき感想をお寄せください。最後に、今回の「ニュースの裏を読む」では北朝鮮が出した20年ぶりの「国家経済開発10ヵ年戦略計画』が持つ意味、南シナ海での領有権問題、タイの総選挙、の3つを取り上げました。いずれも最近話題になったトピックスばかりです(文責:HH」。


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