NPO
The Institute of
Asian Modernization(IAM)
  

アジア近代化研究
IAM
ニュースレター


IAMトップページへ戻る IAMニュースレターのページへ戻る
IAMニュースレター第10号、2011年5月10日発行 目次
無断転載禁止。著作権は各著者にあります。
  1. 巻頭言:日本の復活はアジアを知ることである(長谷川啓之)
  2. 毛沢東は高層ビルを見上げる-私の延安紀行(田口佐紀子)
  3. 朝鮮半西南端の港:木浦市と日本との関係(中)(永野慎一郎)
  4. 胡錦濤訪米後の中米関係(梁雲祥)
  5. ニュースの裏を読む(10)(長谷川啓之)
  6. 編集後記

    Ⅰ 巻頭言:日本の復活はアジアを知ることである (印刷用pdf)

長谷川 啓之(経済学博士)

アジア近代化研究所・代表

 最近、改めてわれわれ日本にとってアジアとはいかなる存在なのか、つまりアジアの特質とは何か、アジアと日本はどのような関係にあるのか、日本とアジアはどう違うのか、などについて考える。もっとも、ここで念頭にあるアジアとは、主として北東アジア(日本、韓国、中国、台湾)と東南アジア(ほとんどがASEAN諸国)、つまり東アジアのことである。改めてアジアをなぜ考えるのかというと、どうも日本人は相変わらずアジアより欧米を向いており、アジアについて正確な理論的知識を得ようとしていないのではないかとの疑問を感じるからである。たとえば、日本の学者はアジアを研究し、学ぶべき対象と見ているであろうか。そして庶民にとってアジアは経済的にかなり日本より貧しく、遅れた存在でしかない、とする見方から脱却できているであろうか、と感じる。そうだとすれば、それは日本の経済や社会の停滞に深く関連してくることに注意を喚起したい。
 アジアの研究は学問にあらず、といわれたとあるアジア研究者から聞いたことがある。これは一種の欧米コンプレックスであり、いつまでたっても、相変わらず学問とは欧米社会を真似ることであるとする、明治維新以来の誤った学問観ではないかと感じる。
 これでは、日本人のアジアへの見方は戦前と少しも変わっていないし、学問とは何かがわかっているのかとの疑問すら感じる。さらに深刻なのは、アジアへの正しい認識の欠如が、長期的に日本がアジアで生きていく上で大きな障害になるのではないかと思われることである。そんなことは無い、それは思い過ごしにすぎない、アジアのことはわかっている、などといわれるかもしれない。そうした見方に対し、いくつかの事例を上げて、筆者の言いたいことを述べてみたい。
(1)まず、感じるのは日本の学者の多くは大学で欧米理論を学び、欧米に留学し、欧米に出かけて文献や資料を集め、欧米のことには精通している人が多いが、日本を含むアジアについての現実的・理論的な知識は、ほとんど持ち併せていないように感じる。結果的に、前提がまったく異なる欧米の理論を鵜呑みにして、欧米の側から日本やアジアを見ることになる。また統計を使ってアジアを分析すればアジアが理解できたと勘違いする研究者が非常に多い。欧米の理論がある種の普遍性を持ち、優れているとしても、それだけを学んでアジアや日本がわかるはずが無い。欧米の理論でアジアや日本を見るのでは理論と現実の因果関係が逆転しているといわざるをえない。
 欧米とアジアとの決定的相違についての知識も関心も無い人が多い。欧米だけ知っているだけでは偏った知識になり、科学的思考からはほど遠い。なぜなら科学はまず総合性・普遍性を持つべきものだからである。ましてや日本は典型的な非西欧社会の一員である。それなのにアジアの時代だとして、アジアに出かけ、資料だけを集めて、アジアについて書く。その目的と論理は何であろうか。それだけで、本当にアジアを理解できると考えているのであろうか。アジアが知らなければ日本はわからないし、日本がわからなければアジアもわからない。さらにいえば、アジアを知らなければ欧米もわからない。

(2)こうした問題が起きる1つの背景要因として、日本は経済発展して、欧米にキャッチアップしたと勘違いしていることに原因があるのではないか。確かに、産業構造、改良技術、GNP(国民総生産)などの経済面では欧米に追いついた。しかし、これは量的にキャッチアップしたにすぎず、質的にもキャッチアップしたわけではない。キャッチアップには2つの側面があり、もし日本が欧米にキャッチアップしたと主張したいのであれば、質的な側面でもキャッチアップしたといえなければならない。質的側面でのキャッチアップを示す1つの事例は、欧米の最大の特徴である科学的・合理的精神を共有できているか、欧米を知って自分自身はどう変わるか、である。

(3)日本経済が停滞している原因の1つは70年代以後、日本にベンチャー企業が生まれず、したがって大企業も生まれていないことである。ベンチャー企業といえばシリコン・バレーを思い出す人が多いに違いない。多くの専門家が日本にはシリコン・バレー型のベンチャー企業は生まれないと考えていながら、その理由を解明していない。専門家には漠然とした理由はわかっていても、確とした理由はわかっていないのではないか。たとえばベンチャー企業には2つの型があり、日本にはその1つのシリコン・バレー型ベンチャー企業は生まれなくとも、もう1つのアジア型ベンチャー企業なら、シンガポールをみればわかるように、一定の条件を満たせば生み出せるはずである。それには言うまでも無く発想の大転換が必要であるが。
 独創的なアイデアや科学技術を次々と生み出し、シリコン・バレー型のベンチャー企業や世界的大企業を生み出すには科学的精神が一部の科学者ではなく、社会全体に浸透していることが不可欠である。それを欠く日本にシリコン・バレーやマイクロソフトを生み出す人物が生まれる可能性はない。つまり、科学的精神を欠く日本から独自の理論やアイデアを次々と生み出す可能性はほぼ皆無なのである。そうだとすれば、シリコン・バレー型ベンチャー企業の輩出を期待して、日本経済の活性化を目指すとすれば、その試みは成功しないといわざるをえない。

(4)「次はパックス・ジャポニカの時代だ」などと浮かれている間に、日本経済は奈落のそこに突き落とされてしまった。なぜこうした事態が起きたのであろうか。それは突き詰めていくと、やはり日本人の科学的精神の欠如にあるといえる。欧米と日本を含むアジアとの間には多くの類似点があり、相違点は決して多くは無いが、そのわずかな相違点こそが決定的に重要なのである。その中核こそが科学的精神であり、それは問題の発生以前に問題を先読みし、問題が起きてしまえばすぐに欧米理論を当てはめるのではなく、自ら徹底的に解明し、分析し、理論化する姿勢を示すことである。つまり現実から出発し、理論とか仮説へと向かう方法である。これは80年代にアメリカが日本との競争で敗北した際に採用した方法であり、それこそが科学的精神の現われであると同時に二度と失敗しないための、正しい解決法であり、90年代にアメリカ経済が復活した原因でもある。いまや、多くのアメリカの大企業でかなり常識化していると聞くが、停滞が始まった90年代以後、日本の大企業、政府、専門家はこの当たり前のことをどれだけ実行してきたであろうか。
 科学的精神の欠如は日本もアジアも同じであるが、アジアと日本との決定的な相違の1つは日本人の多くが自分たちはアジアの人たちとは違う、日本はアジアよりはるかにアメリカに近く、社会や心理、そして思考様式さえほぼ完全に欧米化されたと勘違いし、アメリカの方式を模倣すれば、アメリカのようになれると思い込んでいることである。たとえば、規制緩和や市場経済化だけが日本経済を活性化する、などとして、それを実行した挙句、日本はどうなったであろうか。80年代のアメリカのベンチャー企業支援制度を真似て導入した中小企業技術革新制度((UBIR)は日本に多数のベンチャー企業を生み出したであろうか。そうした事態が発生したのは、まさにこれまでの思考様式や社会システムが間違っていたからだといわざるをえない。つまり、日本が持つ潜在的な能力や欠陥を意識し、それをどうアメリカ型と調和させるかである。それを無視すれば、規制緩和後の農村のように疲弊するだけである。規制緩和が不足するから疲弊したのではないのである。
  そろそろ欧米に依存し模倣する姿勢を転換し、まずアジアを知り、日本もアジアの一員であることを正しく認識することではないか。たとえば国際競争ランキング(2010年)で上位10位内にシンガポール(1位)、香港(2位)、台湾(8位)が入り、日本がかつての1位から27位(経済だけでは39位)へと大きく転落したが、その理由を理解し、学べば、日本からもアジア型ベンチャー企業が多数生まれ、おのずから日本再生への手がかりをつかむことができると考える。アジアを知ることこそが日本復活への近道なのである。

毛沢東は高層ビルを見上げるーわたしの延安紀行(印刷用pdf) 

田口 佐紀子

アジア近代化研究所・研究員翻訳家・エッセイスト

1.なぜ延安に行ったのか

陝西省延安は、北から内蒙古の砂漠が迫る黄土高原の貧しい町である。中国共産党は政権を取る前の10年間、この小さな町を根拠地としていた。1934年、国民党軍によって江西省の中央根拠地を追われた共産党は、北に向かって大敗走する。それは‘長征’と呼ばれて、中華人民共和国の成立以来、映画や芝居で伝説のように喧伝されてきた。実際には1年後に陝西省にたどりついた時、出発時に10万だった共産党軍は10分の1に減少し、全員がやせ細り乞食のような姿であったという。
 2007年、北京五輪の前の年、わたしは中国の友人、孫瑾とこの延安へ出かけていった。中国でも‘長征’を知らない大学生が増え、すでに歴史の仲間入りをしている延安になんで今さら行ったのかと言えば、当時、わたしは孫瑾を通して中国の生きた現代史を書きたいと考えていたからだった。
 孫瑾は、1980年代の半ばに、わたしが北京外文出版社日本語組に2年間勤めた時の同僚だった。中国の国家機関であるこの出版社で、彼女が他の同僚たちと違っていた点は、彼女の両親が‘老革命’といわれる共産党幹部だったことで、彼女はそれをとても誇りにしていた。当時、‘老革命’と呼ばれる古い共産党の幹部は、いつ革命に参加したかにより4つの等級に分かれていた。一等級というのは蒋介石による上海クーデター以前に革命に参加した、つまり毛沢東や周恩来と同世代の、もっとも初期の共産党幹部で、これを「大革命期の幹部」と呼んだ。二等級は「長征期の幹部」と呼ばれ、上海クーデターから1937年の盧溝橋事件までに革命に参加した者。この盧溝橋事件で中国と日本は全面戦争に突入したから、三等級というのは、盧溝橋事件から日本の降伏までに参加した「抗日戦争期の幹部」である。そして最後の四等級は、日本の敗戦から1949年の中華人民共和国成立までに革命に参加した「解放戦争期の幹部」だった。
 孫瑾の父は「長征期の幹部」であり、母親は「抗日戦争期の幹部」だった。等級は当然、給料や待遇に関係してくるから、孫瑾はいわば当時の中国におけるエリート家庭の‘お嬢さま’ということになる。ともに山西省出身で抗日運動に参加した孫瑾の両親は、父が1939年に、母がその翌年延安に入り、そこで結婚して孫瑾が生まれた。それは日本が敗戦した1945年8月15日の5日後のことで、孫瑾とわたしはだいたい同世代ということになる。
 任期が終わってわたしが日本に戻ってからも、孫瑾とわたしの間には手紙のやりとりがあり、その間に孫瑾の上の娘、嵐嵐が日本に留学した。2000年に入り、中国がますます経済的に力をつけてきたころ、わたしは自分と同世代の孫瑾の話を書くことを思い立った。

2.個人タクシーの運転手

毎年、10月初めの国慶節の休暇は、観光地はどこも人でいっぱいになる。いわゆる革命の聖地を訪ねる旅行は‘紅色旅游’と呼ばれて人気だったから、わたしたちの旅行はその時期をはずし10月の末になった。日本商社の北京支店に勤める嵐嵐が旅の前半だけ同行することになった。嵐嵐という名前は、文字通り、嵐のような文化大革命の中で生まれたことに由来する。
 旅行は最初からつまづいた。全部で30席という小さな飛行機が延安の飛行場につくと、満席だった客はあっという間に霧散してしまい、わたしたちだけが飛行場と外を仕切った柵の所に取り残された。飛行場には当然タクシーがあると踏んでいた嵐嵐の思惑は外れ、これがわたしたちの延安に対する最初の不満因子となった。
 結局、わたしたちはそこにいた体格の良い、革ジャンを着た50代とおぼしき男の「個人タクシー」を雇うことになった。フォルクスワーゲン社と合弁の車だ、と男が自慢するまだ新しい車に乗り込むと、黙りがちな乗客と反対に、男は山の上から谷底の人間に話すような大声で、何泊するつもりだ、と聞いてきた。3泊、と嵐嵐が答えると、滞在中ガソリン代込で1000元で自分を雇わないかと言う。考えさせてくれ、とわたしたちは答えた。
  延安は陝西省で物価が一番高い、と運転手は言う。石油が採れるから市民は金を持っている。90年代には政府が個人の採掘を奨励し、4000以上の石油採掘場があった。掘りあてた者は金が入って市内の高級アパートを買った。高級アパートは現在もどしどし建っていて、1平米が5000元するが、出来あがる前に完売する。自分が買った5年前は平米1100元だったーーと車を走らせながら運転手はとうとうとしゃべった。
あなたも石油であてたのか、と嵐嵐が聞くと、自分は軍を除隊して市内のたばこ工場で働いていたが、そこを退職し今は月に1000元の退職金しかない。でも60歳になれば保険も入れて月2000元はもらえる。女房は工場が不景気でクビになり、月にわずか180元の退職金だ。しかしこれも50歳になれば600から800元もらえる。だから今自分はタクシーをやって稼いでいるが、車を買った借金もあって生活は大変だ、と運転手は言った。あなたも石油を掘りあてればいいじゃない、と嵐嵐が言うと、「今じゃ政府は個人の採掘を禁止している。石油会社と国だけが儲けてるんだ」と答えた。
 後の話になるが、この延安の石油についてわたしは面白い発見をした。孫瑾は延安の石油の第一発見者はソ連から来た専門家だと信じていたが、実際の採掘が開始されたのは清代の光緒帝の時代だった。1907年、日本から佐藤弥市郎という技師が招聘され、実地調査の結果油田を掘り当てた。それが中国で最初の油田であるーーという記事を、わたしは陝西旅游出版社の「歴史文化名城延安」という本の中に見つけたのである。延安に入った共産党はこの石油を軍事物資との交換に用い、石油は共産党を大いに潤した。
 孫瑾親子が予約したホテルは延河に近い街の中心部にあった。以前はここが唯一の近代化されたホテルで、延安に来る指導者や幹部の宿泊所だったため、三階建ての暗い建物であるにもかかわらず、等級は四つ星だった。ホテルの背後には運転手言うところの高級アパートだろうか、クレーンをつきだした建設中の高層ビルが幾棟もそびえていた。
 チェックインをすませ部屋に入ると、わたしたちはすぐに‘開会’(会議の開催)を始めた。80年代、中国の硬直した官僚制度を揶揄する言葉に「文山会海」という言葉があった。山のような文書と海のような会議、という意味である。わたしたちは、延安滞在中1000元であの運転手を雇うか否か‘開会’し、運転者はその結論をロビーで待っていた。彼は声が大きすぎてうるさい、とわたしが言うと、黄土高原の会話は、昔から、こちらの山と向こうの山の間で行われてきたのだから、声が大きいのは自然だ。あの運転手は軍隊の出身で、軍隊出には悪い人間はいないはずだ、と孫瑾が弁護した。何を隠そう孫瑾の夫は軍隊出身である。別の運転手を探すのも大変だし、観光シーズンが過ぎた今では見つかるかどうかわからない、と嵐嵐。この結論をもって彼の雇用が決定した。

3.宝塔山

中国共産党は、1947年に再び国民党軍に攻められて撤退するまでの10年間、延安の中で4回、その司令部を移していた。最初の司令部、鳳凰山はわたしたちのホテルの近く、市街地にあった。そこが38年に日本軍の空爆を受けると、司令部は今度は街の西北2.5キロの楊家嶺に移る。楊家嶺は両側を山に挟まれ、樹木も多く、攻撃を受けにくい要所にあったが、共産党はここに中央大礼堂を建設することになり、その工事の騒音があまりにうるさかったため、指導者たちは楊家嶺からさらに西の棗園に移った。これが三番目の司令部である。完成した中央大礼堂では、1945年、この時新中国の青地図ができあがったと歴史家たちが位置づける中国共産党第七次全国代表大会が開かれた。この大会で、毛沢東思想が中国共産党の指導思想として確立したのである。そして最後の司令部、王家坪は楊家嶺よりずっと市街地に近い、延河が北から市内に流れ込む入口にあった。
 延安の地形を頭に入れるには宝塔山に登るのが一番である。宝塔山というのは、延安の写真に必ず登場する八角形九層の仏舎利塔が建ったあの山である。延安を象徴するこの塔のオリジナルは唐代の建設だったが、現在の塔、すなわち毛沢東や孫瑾の両親たちが見ていたのは明代に再建されたものである。
 宝塔山の登り口は遮断機で塞がれていた。山へ登るには登り代として一人41元が必要だ、と運転手が手を出した。わたしが3人分の料金を渡すと、運転手は料金小屋の窓口にはいかず、文字通り‘走後門’(裏口から入る)して、やがて切符を手に戻って来た。幾分かは自分の収入になったに相違ない、とわたしたちは感じた。車が山頂につくと、彼は今度は駐車場代の5元を要求し、さらに仏舎利塔の入口には屈強なお姉さんが座っていて、中に入るには10元出せと言う。なんでそんなに金ばかり取るのだ、と嵐嵐が抗議すると、延安市は今や観光で年間20億元稼いでいる、と運転手が説明した。
 宝塔山の上からは西北から流れてくる延河と南から流れてくる南川河が見渡せ、南川河は宝塔山の真下で延河と合流した後、東北に流れて黄河に合流していた。若き日の孫瑾の母は夏の暑い日に延河で泳ぎ、危うく溺れそうになったという。それほど昔は水量があったのに、現在の延河は露呈した川床の真ん中を黄色い水が細く流れているだけであった。
 延河をはさんで宝塔山の真向かいには清涼山があり、そこには宋、明代に掘られたたくさんの仏教石窟がある。延安時代の共産党はそれらの石窟を新聞社、放送局、印刷局、通信社として利用していた。
 高層ビルが立ち並ぶ南川河沿いの街をぼんやり眺めていると、「昔あそこに日本人の捕虜が300人くらい暮らしていた」と運転手がわたしに南側の斜面を指さした。斜面には土に埋もれたようないくつかのヤオトンが半円形の口を開いている。共産党は延安にたくさんの学校を作ったが、日本人捕虜の思想教育のための学校もあった。校長は野坂参三で、インターナショナルの日本代表で執行委員会委員だった野坂は、1940年にモスクワから延安に入り、八路軍政治部の指導の下で日本人捕虜を思想改造する工農学校を作った。

4.ヤオトン

ヤオトンは黄土高原特有の洞窟住居である。陝北高原の黄土は層が厚いうえ土質が固くしまって崩れにくい。そのため昔からこの地方の人たちは山の斜面に掘った洞窟住居で暮らしてきた。その作り方は以下のようであるーー日当たりの良い山の斜面を選び、その斜面を平らに削る。それから山の中に向かって1~2メートルの横穴を掘り、その横穴から四方に向かって掘り進んで、幅6~7メートル、奥行き10メートルほどの空間を作る。この空間の壁をさらに平らに削り、内側にきめの細かいセメントを塗り、乾いたところで入口に窓や戸をつければ出来上がりである。 運転手に案内されて訪れたかつての共産党の司令部もすべてがヤオトンで、その作りは後期の司令部ほど洗練されていた。旧蹟は指導者たちの住居を中心に公園のように整備され、敷地内に入る時は必ず入園料を取られた。司令部はいずれも丘陵地にあって、指導者たちのヤオトンは入口のドアの上に装飾的な木枠の明り採りの窓があり、床は土ではなくレンガか石でなかなか立派であった。部屋数は‘(コン)’で表され、たとえば棗園の毛沢東の住まいは寝室、会議室、執務室、服務員室などの5孔であった。5つの部屋にはそれぞれ外からの入り口があったが、内部も分厚い壁にうがたれた狭い穴で通じていた。棗園の場合、暖房はオンドルではなく床暖房で、ヤオトンの前の石の蓋のついた細い溝で炭を焚き、その熱気がパイプを通して部屋のレンガの床を暖める仕組みになっていた。 毛のベッドは粗末な木製で、真っ白な荒い木綿のシーツがかけられ、その上にたたまれた布団が置かれてあった。それらは毛が使用したものではなく観光用に整えられたものだ、と説明員が言った。壁に、額がたいぶ禿げた毛と江青夫人に挟まれて、娘の李訥の写真が飾られてあった。李訥は男の子のように坊主頭だったが、当時の延安ではシラミの巣にならないよう女の子はみんな坊主頭だった、と孫瑾が解説した。共産党が天下を取ってから北京に開設された幹部の子女用小学校で、孫瑾は李訥と一緒だった時期がある。 
 毛の住まいの西側には周恩来の4孔のヤオトンがあり、ベッドのそばには当時延安で展開された大生産運動の糸撚り競争で周が一等をとったという糸紡ぎ車が置かれていた。朱徳の住居は毛のヤオトンの東で、そこの庭には毛の部屋から掘られた防空壕が通じていた。
 棗園の見学を終え入口に下りていく途中で、わたしたちは思いがけない光景を目にした。美しく手入れされた緑の芝生の上に、紅葉した木の葉を透かして午後の日差しが落ちている。その芝生の上に純白のウエディングドレスをまとった花嫁が長いヴェールを引きずって立っていた。花嫁の傍らにはこれも白い礼服姿の花婿が寄り添い、カメラマンらしい男たちがポーズをつけている。気がつくと純白のカップルは彼らだけではなく、芝生のあちこちにカメラマンを従えた数組がいた。男がひざまづいて女の手に口づけしている組もあれば、大きな帽子をかぶった花嫁が芝生の上に斜めに座っている組もある。それは本当に絵のように美しく平和な光景だった。彼らと革命旧蹟はどう結びつくの、なんか違う国の違う民族のようだ、とわたしが違和感を示すと、今の若い人たちは新しいことなら何でもやりたがるから、と孫瑾はあきらめたように答えた。
 わたしたちは現在の庶民が暮らすヤオトンをも見ることができた。嵐嵐が2泊して北京に帰った翌日、孫瑾とわたしは延安最後の司令部があった王家坪に行った。王家坪は楊家嶺よりさらに市街地に近く、毛や周が短期間住んだ住居が保存されている。指導者たちの旧居はどこも似たり寄ったりだから、どこかで普通の農民のヤオトンを見れないか、とわたしは孫瑾に申し入れた。そもそもわたしは当初からその希望を伝えていたのだが、運転手は承諾の返事をするだけでいっこうに連れて行こうとしない。孫瑾が改めてわたしの希望を告げると、「ヤオトンならこの上はみんなそうだよ」と運転手はぶっきらぼうに言って、王家坪旧蹟の真上の山を顎で示した。
 孫瑾は気が進まない様子だったが、わたしは勇んで運転手の後から斜面を登った。勾配はかなりきつくてすぐに息が切れた。山の中腹に横穴に入口をつけただけのようなヤオトンが4つ並んでいる。入口は粗く削った赤土で、その上を電線らしい針金が這っている。入口の暖簾は汚れたビニールで、明り採りの窓は板きれに紙を貼っただけだった。壁から突き出た短い煙突が赤土をすすけさせているそのヤオトンから、10代に見える女の子と小さい男の子が二人出てきた。姉弟のようだった。運転手が女の子に何か言うと女の子がうなづき、「中を見てもいいよ」と運転手は自分の家であるかのようにわたしたちに言った。
 女の子のヤオトンは今まで見てきた指導者たちのヤオトンよりはるかに狭く、短いトンネルのようだった。壁は奥の正面にだけ白い石灰が塗られていて、残りの部分はセメントでこすったように黒く、一面に新聞紙が張りつけてあった。入口に大きなオンドルがあり、一家の寝具がきちんとたたまれて置かれている。夜はこの上が寝床になるのだ。オンドルの前には小さなテレビがあり、オンドルと連結した煮炊き用の竈には粗末な鍋とヤカンが乗っていた。燃料は石炭だ、と女の子が言った。女の子は姉ではなく男の子たちの母親だった。
 ヤオトン前の小さな空き地に、綿入れの上着を着て頭に白い手ぬぐいを巻いた老婆が現れた。老婆は隣の住人で、息子が3人いるがみんな外に住んでいる、彼らからの仕送りでここで一人で暮らしているのだ、と言った。老婆のヤオトンにはボール紙で蓋をした大きな水甕があり、そうだ、水はどうするの、とわたしが聞くと、運転手が外の空き地の四角い箱のようなものを指さした。箱からは長い棒とビニールのパイプが突き出ていて、それが電気で下から水をくみ上げる装置だった。水代は月に10元、ヤオトンの家賃は月に50元だという。風呂はなく身体はお湯で拭くだけ、トイレは少し離れた斜面にトタン屋根のついた穴があった。「(チヨン)(貧しい)」――山を降りる時、孫瑾はなんども繰り返した。

5.二人とも党員

ホテルの駐車場に戻った時、運転手が“造反”を起こした。4日間で1000元の料金の内、最初の日にガソリン代として200元を渡し、残り800元は帰りの飛行場で渡すという約束だったのだが、700元を今日中に支払えと言う。「もし、今晩あんたたちが逃げちゃったら残りの金はもらえなくなる。今日中にもらっておけ、と女房が言うんだ」。「逃げるって、じゃ、もし、明日あんたが来なかったらわたしたちはどうやって飛行場にいくの」と孫瑾が大声を出した。「その場合でもあんたたちの損害は100元ですむ。しかしあんたたちが逃げちゃったら、俺の損害は700元だ」。声の大きさではとても運転手にかなわない。「逃げるってどこへ逃げるの。飛行機に乗らなきゃここから出られないじゃない。わたしたちが逃げるわけがないじゃない。心配ならホテルのフロントへ行って、ホテルの人たちの前で約束するわよ」。孫瑾が言うと運転手は笑って首を振り、明日俺が来なくてもあんたたちは100元の損だが、俺は700元の損だ。女房が心配してる、と同じことを繰り返した。
 「信用しなさい、わたしたちが騙すはずがない」と、孫瑾はバッグから身分証明書を取り出して運転手にかざして見せた。中華人民共和国発行の顔写真入りの退職証明書で、退職前の単位名、職称、勤務年数が書き込まれている。運転手は証明書にちらりと目をやり、それがなんだ、という顔をした。やれやれ、今の中国じゃパスポートの偽造だってあるのに、とわたしが思っていると、「わたしは党員よ」と孫瑾が最後の切り札であるかのように胸をはった。すると運転手が「俺だって党員だ」と胸をはる。ここにいたって不謹慎ながらわたしは噴き出し、‘主意(知恵)’を出した。「今日、800の内400元を払う。残り400は明日飛行場に着いた時に払う。こうすれば400と400で公平でしょ」。運転手がなおも言い募ろうとして息を吸い込んだので、わたしは彼に400元を押しつけて車の外に出た。「今晩は心配で寝られないよ」。車から離れていく孫瑾とわたしの背中に、黄土高原で鍛えた運転手の大声がかぶさった。
 この一件がなくても、出生地を訪ねるという孫瑾のセンチメンタルジャーニーは、至る所で取られる‘お金’でかなり損なわれていた。延安は両親が参加した中国革命の聖地である。聖地ならすべての史蹟の入場料は無料であるべきだ、と何回となく彼女は憤っていたが、「あんたたちが逃げたら・・」という運転手の発言は彼女のプライドにとどめをさした。中央の指導者は延安がこんなにお金を取っていることを知らないのだ、北京に戻ったら誰か人を通じて中央の人に話してもらう、と延安最初の司令部だった鳳凰山に向かって歩きながら、彼女は元気なくぶつぶつ言った。
 鳳凰山旧蹟入口前の広場には、若き日の毛沢東の大きな立像がそびえていた。街中であるため史蹟のすぐそばまで高層ビルが迫り、腰に手をあてた毛の立像は、すぐ目の前の白とブルーの瀟洒なマンションを見上げていた。延安から北京に入って以降も、共産主義を夢見て数々の政治運動を起こした毛の生涯を考えれば、それは絶妙なコントラストで、わたしたちはしばらくその光景に見とれていた。「中国ではこういうのを‘滑稽(ホアジ)’というのよ」と孫瑾が言い、歴史というのはしばしば‘滑稽(ホアジ)’になり、ブラックユーモア にもなる、とわたしは思った。

Ⅲ 朝鮮半島西南端の港・木浦市と日本との関係(中(印刷用pdf) 

永野慎一郎(Ph.D.

アジア近代化研究所理事、大東文化大学名誉教授、

東アジア政経アカデミー代表

4.開港後の木浦港の経済状況

(1)人口増加

開港当時の木浦は、約40世帯が居住している小さな漁村にすぎなかった。1897101日開港以来、新しい潮流に乗ってビジネスチャンスをつかもうと全国各地から集まってきた商人たちが年々増加し、1910年代には6,400世帯のおよそ3万人の人口に達した。また、日本人の増加も顕著であった。
〈表2〉は、開港後の木浦に移住してきた外国人の増加の推移である。日本人が圧倒的に多く、1912年の時点では外国人全体の97%を占めている。中国人は2.7%であり、欧米人は0.3%にすぎない。欧米人の大部分は宣教師たちであった。日本人の増加は、1897年の開港直後の3ヶ月間に約200名増加し、その翌年には700名が増加し、その後、漸進的に増加を見せ、1910年の日韓併合後さらに増加傾向になり、1912年には5,000人を超えた。

〈表2〉開港後の日本人及び外国人の人口推移

年 度 

 日 本 人

中 国 人

欧 米 人

  合  計

人 口

1897

1898

1899

1900

1901

1902

1903

1904

1905

1906

1907

1908

1909

1910

1911

1912

  45

 242

230

 218

 251

 266

 332

 329

 367

 556

 733

 764

 838

 871

1,168

1,350

  206

  907

  872

  894

  940

 1,045

 1,417

 1,442

 2,020

 2,364

 2,851

 2,863

 3,097

 3,494

 4,726

 5,323

 -

   3

  10

  12

  18

  22

  16

  16

  22

  26

  26

  28

  30

  27

  39

  41

   -

  14

  42

  39

  53

  45

  50

  47

  67

  92

  77

  69

  71

  75

 111

 150

  -

  3

  3

  3

  4

  5

  5

  4

  4

  8

  3

  3

  4

  4

  5

  5

  -

   3

   6

   6

   8

  10

  11

  10 

12

  10

   6

   9

  10

  10

  15

  10

   45

  248

  243

  232

  273

  293

  353

  349

  393

  585

  760

  794

  872

  902

 1,212 

1,396

  206

  924

  920

  939

 1,001

 1,100

 1,478

 1,499

 2,099

 2,466

 2,934

 2,941

 3,178

 3,579

 4,852 

 5,483

  裵鍾茂『木浦開港史研究』1994年、p.59

〈表3〉が示しているように、木浦に移住した日本人の職業は、商業、交通運輸業、工業、農業、牧畜業、漁業、林業、自由業など多様である。その他の職業は、質屋または高利貸金融業など明らかにしたくない業種に属している人たちとみられる。

〈表3〉木浦居住日本人職業別人口(1913年)

       

世帯

    人    口

  計

 本  業

 家  族

農業牧畜林業漁業等
工       業
公務及び自由業
その他の職業
商業及び交通運輸業
無職及び無申告者

 123 
266

 
247

 
370

 407
 
49

 140
 292 
328
 
435

 
448
 
38

  24 
57

 
65

 
193

 
144
 
14

 144  187
 
181
 
 214

 477
  27

 188
 
268

 
381
 459
 
660

  63

   466 
 
822

   955 
1,301 

1,729

   142

合    計

1,422

1,681

 497

1,200

2,037

  5,415

 裵鍾茂『木浦開港史研究』1994年、p.61

(2)産業化の始まり

1910年代の木浦港における商業の状況は、開港に伴って、木浦港に移住してきた現地人相手の商品売買だけでなく、日本の韓国併合によって朝鮮半島への日本人移住者が急増し、植民地政策の推進によって、地域経済が活性化し、商取引も活発になってきた。従来の小規模の市場で小売りしか行えなかった時代から、大量販売時代に移行したことで、市場の規模も拡大し、輸出品だけでなく、輸入品も増加し、市場が活気を浴びるようになった。市場の拡大によって、貨物輸送業、運輸通信業、銀行業、製造業、倉庫業など様々な業種へと広がりを見せた。木浦港は物流の中心地となった。
 1902年には、朝鮮における日本人最初の営農団体である木浦興農協会が設立された。浦興農協会は農業振興のための農事改良などを通じて多大な成果を上げたが、1912年に払込金の約3倍の額で所有地すべてを東洋拓殖株式会社に売却し、木浦興農協会は解散した。東洋拓殖株式会社は植民地支配の先兵として豊富な資金を武器に土地買収を展開した。
 1904年には朝鮮興業株式会社木浦管理所が置かれ、農業経営に乗り出し、1905年に朝鮮実業株式会社、1906年に木浦殖産株式会社が設立され、1920年には福田農事株式会社、1922年に合名会社国武農場、1929年には祥星合名会社と山野合名会社、1933年には合名会社松永農場と米沢合名会社、1934年には合名会社武日農場、1935年には合資会社徳田農場と鮮一合名会社が設立され、それぞれ営農活動を開始した。 全羅南道は気候や風土が農業に適していることから、米、綿花、かいこが盛んであった。この3種は全羅南道の‘3白’と言われるほど、生産量が多い主要農産物であった。また、開拓できる有望な干拓地が方々にあったため日本人地主にとっては魅力の地域であった。全羅南道は朝鮮半島第一の米産地であり、木浦港は要港としての役割を果たしていた。1928年度の全国米生産量は1,350万石であったが、そのうちの18%250万石を全羅南道で生産され、その多くは日本に輸出された。 
 
1928年の木浦地区における農業従事者は96世帯であったが、そのうち朝鮮人67世帯、日本人25世帯、中国人4世帯であった。地主が40世帯、自作または小作が56世帯であった。朝鮮人の中にも地主はあったが、大部分は小規模自作か小作であった。当時、木浦では多数の日本企業及び日本人が土地を買い占め、地主として営農活動を展開していた。木浦駐在地主の土地所有は、木浦を中心に務安、霊岩、羅州、霊光、長城、海南、珍島などの近隣地域にまで及んだ。彼らが所有する土地の総面積は3町歩を超過したと記録されている。主要会社の所有土地面積は以下の通りである。

①東洋拓殖株式会社木浦支店:水田7,073町歩、畑1,013町歩、その他917町歩

②朝鮮実業株式会社木浦支店:水田3,085町歩、畑186町歩、その他175町歩

③鎌田産業株式会社木浦支店:水田1,000町歩、畑198町歩、その他7町歩

朝鮮興業株式会社木浦支店:水田1,069町歩、畑2,048町歩、その他44町歩

⑤福田農業株式会社木浦支店:水田600町歩、畑200町歩、その他200町歩

⑥合名会社国武農場:水田442町歩、畑371町歩、その他6町歩

⑦浦殖産株式会社:水田159町歩、畑24町歩、その他10町歩

⑧徳田洋行木浦支店:水田676町歩、畑756町歩、その他28町歩

また、日本人個人地主が所有していた土地所有面積は次の通りである。

①中道清太郎1945,136坪  ②内谷萬平1325,563

③森田泰吉1027,553坪、  ④森酒井93444     田中信蔵697,710⑥藤森利兵衛366304

⑦中村義助357510坪    ⑧守田千助356,539

⑨松井邑次郎348,401

〈表4〉木浦に本社を設立した企業  

   企 業 名

設立年代

資本金

木浦水産株式会社

木浦鉄工株式会社

木浦印刷株式会社

木浦綿業株式会社

天平綿業株式会社

木浦新興鉄工株式会社
木浦電燈株式会社

 1906

 1905

 1907

 1913

 1906

 1910

 1911

 100,000

 10,000

 200,000

 150,000 

  250,000

  6,000 

 200,000

  出所:『木浦市史(社会・産業編)』p.952

この頃、木浦において多くの商事会社が設立された。また、支店や出張所を設置する日系企業も多い。木浦に本社を設立した企業は〈表4〉の通りである。木浦に支店または出張所を設置した日本企業は数多くある。主要な会社を上げると〈表5〉の通りである。〈表5〉木浦に支店及び出張所を設置した企業     

   企 業 名

設立年代

本社資本金

本社所在地

朝鮮銀行木浦出張所

 十八銀行木浦支店

 大阪商船株式会社木浦支店

 朝鮮郵船株式会社木浦支店

 韓国興業株式会社木浦出張所

 朝鮮実業株式会社木浦支店

 朝鮮綿業株式会社木浦支店

 鎌田産業株式会社木浦支店

1911

1906

1905

1912

1906

1907

1911

1913

1,000万圓

  300万圓

1,650万圓

  300万圓

  150万圓

   50万圓

   20万圓

   20万圓

 京城

 長崎

 大阪

 京城 

 東京

 香川県

 大阪

 香川県

 出所:『木浦市史(社会・産業編)』p.952

(3)貿易港となった木浦港

 開港直後の1897年から日韓併合の1910年までの木浦港の貿易趨勢をみると〈表6〉の通りである。この表を見ると、開港期の木浦港の貿易構造は、1897年から1906年までは対外貿易よりも沿岸貿易が優勢である。しかし、1907年から対外貿易優勢へと変わってくる。

〈表6〉開港以来の貿易実績(18971910年)          単位:圓

 年度

   対  外  貿  易

  沿  岸  貿  易

 輸 出

 輸 入

  計

 移 出

 移 入

  計

  1897

  1898

  1899

  1900

  1901

  1902

  1903

  1904

  1905

  1906

  1907

  1908 

 1909

  1910

    7,256

  246,001

  412,805

  575,826

  732,548

  731,868

 1,030,542

  664,747

  480,089

  425,881

 1,311,333

  860,732

 1,203,186

 1,334,625

    7,351

  142,882

  241,184

  315,825

  257,521

  212,141

  312,586

  201,422

  320,060

  413,582

  668,299

  659,102

  724,440

  963,877

   14,607

  388,893

  653,989

  891,651

  990,069

  944,009

 1,343,128

  866,169

  800,149

  839,463

 1,979,632

 1,519,834

 1,927,626

 2,298,502

   29,351

  248,103

  236,350

  573,670

  371,923

  817,359

  790,549 

1,072,411

 1,161,702

 1,117,839

  213,715

  292,746

  536,845

 1,419,859

   37,617

  278,465

  391,674

  387,000

  395,095

  353,246

  350,399

  378,031,

  481,056

  556,975

  796,514

  833,543

 1,321,827

 1,653,020

   66,968

  526,568

  628,024

  960,670

  767,018

 1,170,605

 1,140,948

 1,450,442

 1,642,758

 1,674,814

 1,010,229

 1,126,289

 1,858,672

2,072,879

  出所:木浦開港百年史編纂委員会編『木浦開港百年史』p.134

これは第2次日韓協約締結以後、日本との交易量が増加したからであろう。沿岸貿易の場合は、1901年までは移出より移入が多く、1902年から1906年までは移入より移出が多く、1907年からは移出より移入が多い現象であり、時期によって比重が変わっている。しかし、対外貿易においては、常に輸入より輸出が多い。この傾向は1910年以降も継続している。輸出の増加率は1898年から1910年までの年平均15.5%である。木浦港の主要輸出品目は米、綿花、麻、牛皮、大豆、海藻などであり、日本との貿易が圧倒的に多く、仁川、釜山、郡山などとの国内貿易も盛んに行われた。釜山からは輸入が多いが、釜山港が対日貿易の主要港であったので、釜山経由もある。1901年~1910年の間、米が移出で占める比重は約60%であり、年平均増加率8.9%であった。大部分は日本への輸出であった。木浦から直接日本向け船積みもあれば、釜山経由日本向けもあった。開港初期において木浦港の米中心の貿易の急増は、この地域の地主階級の成長の有利な条件でもあった。この時期に木浦付近において多数の大地主が台頭し、資本家として成長した。この時期、木浦地域においても商人および地主を中心とする資本主義が芽生えてきたとみられる。このことは都市および農村の貧民層の犠牲を前提とするものであった。米の輸出は、米価格の急騰を招き、庶民生活は一層困難となった。
 開港後、木浦港は輸出超過現象であった。1911年から1913年までの3年間は輸入超過であったが、これは当時湖南線鉄道工事との関連で原資材の輸入が多かったからである。1910年の日韓併合以後、貿易量は急増した。1897年の14,607圓から1910年に2,298,502圓に増加し、1918年には1,000万圓を突破し、さらに1929年には3,700万圓を超えた。

719101929年の木浦港の対外貿易趨勢             単位:圓

輸 出

輸 入

  計

 輸 出

 輸 入

  計

1910

1911

1912

1913

1914

1915

1916

1917

1918

1919

1,334,625

 1,151,958

 1,075,131

 1,953,578

 2,429,012

 2,967,853

 3,093,035

 5,495,150

 7,144,489

16,447,295

  963,877

1,460,390

2,138,143

2,812,532

1,877,850

1,558,234

1,808,264

2,244,086

3,217,279

4,756,254

2,298,502

 2,612,348

 3,213,274

 4,766,110

 4,306,862

 4,526,087

 4,901,299

 7,739,236

10,361,768

21,203,549

1920

1921

1922

1923

1924

1925

1926

1927

1928

1929

12,033,849

 9,870,355

11,017,297

15,550,982

20,355,223

21,676,593

23,769,495

21,132,772

21,693,437

22,873,027

 4,452,267

3,911,194

 5,170,273

 5,726,844

 8,736,990

11,896,005

12,519,452

11,232,342

11,046,084

14,226,263

16,486,116

13,781,549

16,187,570

21,277,826

29,092,213

33,572,598

36,288,947

32,365,114

32,739,521

37,099,290

  出所:木浦開港百年史編纂委員会編『木浦開港百年史』p.186

対外貿易の大部分は対日貿易である。1928年の場合、貿易総額の92.57%が対日貿易であった。輸出総額21,693,437圓のうち、21,571,486圓が日本向けであり、他は中国向けの121,951圓であった。99.4%が日本への輸出であった。日本との関係がいかに深かったかが理解できる。

(4)日本の農業資本の進出

 木浦近辺には平野が多く、この地域で生産された農産物、特に穀物は木浦港に集積され、日本に輸送された。そのために木浦は日本人および朝鮮人地主たち、農業関係会社の根拠地となっていた。
 日本の農業資本が木浦に本格的な進出を始めたのは、日露戦争が勃発する1904年以後であった。19049に朝鮮興業株式会社木浦管理所が設立され、木浦近辺で3,132町歩の土地を取得した。1907年には朝鮮実業株式会社木浦支店が開設され、4,025町歩を買収し、1913年には鎌田産業株式会社木浦支店が開設され、1,197町歩を買収した。1920年には東洋拓殖株式会社木浦支店が開設され、9,131町歩の土地を取得した。当時、木浦駐在の日本の農業会社が所有していた土地は約2万町歩であった。1930年まで木浦に事務所を設置して木浦付近で30町歩以上の土地を所有していた日本人は21人いた。彼らが所有していた土地の総面積は2,480町歩に達した。一方、50町歩以上所有していた朝鮮人も9人いたが、彼らの所有土地は1,721町歩であった。このような木浦駐在の日本人会社及び日本人地主と朝鮮人大手地主が所有していた土地は約3万町歩であった。全羅南道地域の水田と畑の総面積は約41万町歩であったので、その7.5%を大地主が占めていたことになる。
 開港直後の外国人の商業活動は租界地のみ認められたが、次第に営業活動範囲が拡大されていた。日本人商人は行商から始め、貿易商、雑貨商、小売商などに広かった。商人たちは自らの利害関係を調整するために1898年頃から業種団体を作った。輸出貿易商たちは木浦商話会、輸入貿易商たちは雑貨商組合、日用品販売業者たちは小売商組合等をつくった。通商貿易が活発化するにつれ、1900年に木浦商工会議所が設立された。また、朝鮮海漁業協会や木浦興農組合もできた。
  開港後の木浦港の工業は初歩的な段階ではあったが、商業の発達と共に工業にも徐々に波及した。
1910年の日韓併合までに精米業、綿工業、醸造業、鋳物業、製菓業、印刷業等が主として日本人によって機械化が始まった。 
 1905年以後、米穀の輸出が増加し、精米業も発達した。それまでは手作業でやっていた精米作業を動力によって精米する機械化が始まった。1899年に井出精米所が石油発動機を設置したのが始まりである。1905年には武内精米所に蒸気機関が設置された。
 また、綿花栽培が増加し、綿花の日本への輸出が本格的になると、繰綿(綿花から種を取り除く作業)業が必要となった。
1906年に韓国綿花会社が日本人によって設立された。同社は大阪に本社を置き、木浦に支店を設置した。当時30台の繰綿機が導入された。日韓併合後の1910年には朝鮮綿業株式会社に社名変更した。    1898年には木浦において日本酒醸造業も始まった。良質の井戸水を発見した日本人によって始まったが、朝鮮人による醸造業も早い段階から始まり、戦後もさらなる発展を遂げている。木浦から韓国有数の銘酒が生産されている。

(5)木浦の金融機関

 木浦における近代的な金融機関は、1898年に日本人による株式会社第一銀行木浦出張所設置が最初であった。1906年に朝鮮銀行木浦支店が設置され、同年光州農工銀行が開業した。また、1906年には株式会社十八銀行木浦支店が開業され、株式会社長崎貯蓄銀行代理店が開設された。1918年には朝鮮殖産銀行木浦支店が設置され、光州農工銀行は朝鮮殖産銀行に合併された。1920年には民族銀行として湖南銀行木浦支店が設置された。湖南銀行は明治大学に留学した全南霊岩出身の玄俊鎬が帰国後、地方銀行の必要性を痛感し、民族資本を集め、1919年に設立した。同行は1930年代末まで湖南地方のみならず、嶺南地方(慶尚南・北道)にも営業網を拡大し、民族銀行として目覚ましい発展を成し遂げたが、民族主義的傾向が強かったため、朝鮮総督府の命令によって1942年に東一銀行に強制合併させられた。湖南銀行に対する特別監査が実施され、監査報告書には、「日本語を使用してない点、日本人を採用してない点、日本人および日本人団体には一切融資してない点などからみて、排日機関としてみなさざるを得ない」と記録されている。
 他に、金融関係機関として東洋拓殖会社木浦支店と木浦無尽株式会社が開業し、木浦倉庫金融株式会社、木浦信託会社、全南信託株式会社、株式会社木浦殖産倶楽部などが金融業を営んでいた。また、金融組合として木浦金融組合と務安金融組合があった。 このように、木浦港において商工業が活発化するにつれ、金融業も活発になった。金融機関の運営は日本人中心に行われた。(続)

参考文献

木浦開港百年史編纂委員会編『木浦港百年史』社団法人木浦百年会、1997年。

永野慎一郎『相互依存の日韓経済関係』勁草書房、2008年。

木浦市『木浦市史』(社会・産業編)、1990

裵鍾茂『木浦開港史研究』1994


 胡錦濤訪米後の中米関係(印刷用pdf) 

梁雲祥(政治学博士)

アジア近代化研究所研究員、北京大学国際関係学院准教授

はじめに

 国際関係の中ではずっと大国が主導的な役割を果たしている。しかし、重要な役割を果たす大国は時代によってしばしば変わる。例えば、近代の歴史から見るだけでも、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、フランス、ドイツ、日本、ロシア、そしてアメリカなどがあり、それらの国々は世界の中心的となる国になったことはあるが、時代に応じて果たした役割も期間も大きく異なっていた。今日の状況から見れば、アメリカはやはり世界一の超大国であるが、中国も新たな新興の大国としてますます国際関係に影響力を与えることが想定される。だから、中米関係はある程度、これからの国際関係を左右することになるであろうから、中米関係を検討してみることには十分な意義があるに違いない。そこで、今年1月の胡錦濤国家主席の訪米が中米関係にとって何を意味するのか、今後の中米関係はどうなるか、などを中心に考えてみよう。

1)中米関係が意味するもの

中米関係は第二次世界大戦後から今までずっとアジア太平洋地域の重要な両国間関係であり、これまでさまざまな経緯を経て今日に至っている。1950年代の朝鮮戦争による敵対関係から1960年代の冷戦による対立、1970年代の正常化、改革開放以後の1980年代の正式な外交関係の締結、1990年代には冷戦の終焉以来生まれた中米間の協力と摩擦の共存などを経ていろいろな局面を表してきた。周知のように、アメリカが戦後の一番実力のある超大国であって、アジア太平洋地域ないし世界にとって重要な存在であることはいうまでもないが、近年の中国の台頭によって、中国もだんだんこの地域ないし世界に対する影響力を増加させている。この状況がアメリカにとっても、中国にとっても、さらにはアジア太平洋地域ないし世界にとっても、いったい何を意味するであろうか。つまり、中国とアメリカがこれからどのように付き合うべきか、中米関係がこれからどう発展するかといった問題は、アジア太平洋地域ないし世界にとって大きな問題の一つであろう。
現在の中米関係の実態は新たに登場した大国と既存の大国との間でどう共存していくか、特に社会制度やイデオロギーの違った大国の間でどう共存していくかという問題である。中国が台頭し、その国際的な地位を高めたことによって、中米関係の重要性も増大しているし、中米の間の不信感も増してきた。歴史的に見れば、新顔の大国の台頭が一般に既存の大国の地位にチャレンジし、特にイデオロギーの違った新顔の大国と既存の大国との間での衝突を回避することはなかなか難しいことであり、中国とアメリカがどうやって相互関係を維持するのかが国際関係の最大の問題であろう。特に歴史上見られる大国の交代という面から見れば、全部戦争で完成することが普通であるが、現在の状況から見れば、中国は本当にアメリカのような大国として平和的に台頭できるかどうか、そして、中国の台頭に対してアメリカの容認度がどこまであるかが中米関係の肝心な点であろう。

2)胡錦濤主席の訪米とその意味

2009年、アメリカのオバマ大統領が登場して以来、中国とアメリカとの関係にはいろいろな摩擦があった。例えば、アメリカが台湾に大規模な兵器を売ったことで中国側の強い反発が起き、両国の軍事交流を中断させた。また、両国の間の貿易額の格差でアメリカが人民元との為替レートを変更させた。オバマがチベットの精神的なリーダであるダライ・ラマとの会見の中で、中米の間で人権問題をめぐる論争や外交紛争などが生じた。こうして、ちょっと上げるだけでも中国とアメリカの間には何回もの摩擦があった。しかし、中国とアメリカの間では、相互にいろいろな求め合う点があるため、一時的に摩擦があっても、少し時間をかけてもその関係を修復するというやり方が両国関係の一般的な方式である。例えば、中国の胡錦濤国家主席がアメリカを訪問した主たる目的もその1つであろう。
 つまり、2011年1月18日から21日までの三日間,中国の指導者のトップとして、胡錦濤主席がアメリカを訪問し、アメリカのオバマ大統領を初め、主としてアメリカの各界の人々に会っていろいろに議論したり、交渉したり、さまざまな交流もした。その訪問の結果として、両国は「中米共同声明」を発表したが、その内容は両国の関係や存在している問題やこれからの協力分野などに関するものであった。つまり、両国は高いレベルでの相互訪問や、国会と民間との交流、経済協力、地球規模での問題と地域的な問題などに関して、共同で対応したりテロに反対するという点で、両者が協力し軍事交流を行うことなどについての共通の認識を持つと同時に、台湾や人権や貿易摩擦などの問題についても触れた。
  今回の訪問を通じてよりいっそう相互理解を深めることができたし、そのことが両国関係にとって有効であることは明白であるが、中米関係は首脳がただ一回訪問したくらいで改善され、よい関係になると考えるのは非現実的であろう。つまり、今の中米関係はいい面もあれば悪い面もあって、非常に微妙な状況にある。例えば、経済の結びつきや相互依存、地域安全での協力問題、朝鮮の核兵器問題やイランの核疑惑など、さらに地球規模の問題での協力や地球的な気候暖房化や世界経済の回復などについては、確かに中国とアメリカの間に協力関係が存在する。だが、イデオロギーの違い、安全保障のジレンマ、台湾問題とかチベット問題、中国の軍事発展の透明化問題と政治改革問題などの潜在的な衝突要素も存在する。それでも、長期的に見れば、中国とアメリカとの関係は両国の各自の実力とイデオロギーによって決定されるものと思う。特に、中国側がこの二つの面によって決めた対米政策はこれからの中米関係の重要な要素の一つとなろう。

3)中国の対米政策

中国の対米政策はいろいろな面を考慮して決められるが、筆者は主として両国の実力の比較とイデオロギーの違いの面から決められると考える。
 実力の比較という点から見れば、一般に中国の経済力や軍事力の方がより早く増加しているし、これからも引き続き増加していって、ますますアメリカに追ってくると思われる。しかし、中国の経済はすでに30年間も高い経済成長を続けてきたが、それは主として安い労働力や安い商品の国際市場への進出や外国の直接投資とか環境破壊などを通じて、この高い成長率を達成したものである。これからはこれらの状況は変化せざるをえないため、中国経済はいろいろな困難の状態に陥り、高度成長を継続することはますます困難になるであろう。そして、一つの国の実力は経済力と軍事力だけではなくて、国内の安定度や文化と生活様式の対外的影響力など、いわゆる「ソフトパワー」を含む「総合国力」が重要であろう。しかし、中国の「ソフトパワー」はやはり乏しくて、「総合国力」がまだ強いとはいえないであろう。つまり、中国国内の問題があまりにも多い。たとえば、腐敗の問題、貧富の格差の問題、民族問題、それに政治改革の問題などの問題も存在しているから、中国が全面的にアメリカを超える可能性は現在のところないであろう。
 だから、中国政府はやはりいわゆる「韬光养晦」(自分の才能を隠して、外に表さないこと)の政策で、直接アメリカのような超大国の地位にチャレンジすることではなくて、出来る限りアメリカとの協力関係を維持し、少なくともアメリカとの全面的な衝突は避けて、自分の利益の増加を図り、国力を引き上げるといった、いわゆる平和的な態度を維持しながら、さまざまな政策を実行していくに違いないと思う。勿論、中国がこの利益と国力を増加する過程で、アメリカとの摩擦がまったく生じないと言うことはありえないことである。だが、中国の発展に対するアメリカの寛容度とも関係してくるとはいえ、中国側が必要に応じて譲歩することで中米間に大きな衝突は生じないであろう。
 こうした過去の例はいくつも指摘できる。例えば、
1999年のユーゴスラビア駐在の中国大使館の被爆事件や2001年の南シナ海における、中国とアメリカの軍機の衝突事件などがそれである。この事件に対し、中国側は強く反発して抗議し、国民も中国駐在のアメリカ大使館の前で抗議デモを行ったが、結局中国政府は我慢して、すぐそのことを脇において、賠償とお詫びを要求だけでアメリカの軍人を釈放し、中米関係はまた正常状態に戻ったと言う例がある。
 イデオロギー面から見れば、この面が中国とアメリカの間の根本的な違いだと考えられるため、これからも両国の間にイデオロギーをめぐって衝突する可能性が多いと思われる。特に世界と中国国内の民主化や人権問題などに関連して、中国とアメリカはこれからもしばしば対立することであろう。例えば、アメリカが中国のチベットと新疆の独立問題や中国の民主改革問題などに強い関心を持っており、その独立派や民主派を支持することで、または少なくとも同情することで、中国政府との間に摩擦が生まれる。

 しかし、イデオロギーの問題は根本的な価値観の問題で解消する可能性はまったくないし、両方の摩擦も避けられないが、一般的に言えばこのような問題が当面の利益ではないから、通常は大きな衝突も起きないであろう。中国政府は自らの政治支配を続けるためにイデオロギー面の譲歩はとうてい出来ないが、アメリカからの圧力を回避するために、このような問題についての対話を認めてきた。例えば、中国とアメリカの間でよく人権問題をめぐる対話が行われるのはその1つである。

4)中米衝突の可能性は?

前に述べたように、中国は自国の利益のために出来る限りアメリカと協力して、両国の直接的な衝突を避ける政策を実行することで、ある程度、中米の衝突を回避してきたが、ほかにも中米の衝突を抑制する要素はありうると思う。
 まず、今の世界状況から見れば、総体的な緩和の雰囲気がある中で、大国間の衝突はとうてい想像できないであろう。大国間でかりに何か矛盾や摩擦が生じれば、国際社会の方が心配してその衝突に直ちに反対するに違いないし、衝突する大国自身も衝突の代価が大きすぎるから非常に慎重になり、衝突は制約されるため容易には勃発しにくい。中国とアメリカはいずれも世界的な大国だから、そのような制約の中におかれているであろう。勿論、中国とアメリカを比較すると、前に指摘したように全体として見れば、中国の実力はアメリカの実力に比べてやはり劣っているが、何といっても中国も核大国であるから、本当に衝突が起きれば大変な事態に至ることであろう。
 次に、アメリカの利益から言っても、出来る限り中国との衝突は避け、中国を国際的な責任ある国へと誘導していくことであろう。つまり、中国の実力の増大を抑えるだけではなくて、中国に国際的な役割を果たさせ、国際的な責任を負担させる国に誘導することはアメリカにとっても最大の利益になるであろう。勿論、前にも指摘したように、アメリカの立場から見れば中国には人権問題や国際責任などいろいろな原因で満足できない点があり、中国に圧力をかける必要があるが、アメリカは自国の現実的な利益を考えると、また世界経済とアメリカ経済の回復や地域安全の維持や地球環境の保護などの面で、すべて中国の協力を必要とすることであろう。ましてや、アメリカとソ連とのかつての冷戦からの教訓を考えると、両者が衝突すれば何の問題も解決できないばかりか、緊張状態と損失ばかりが生じ、アメリカにとっても中国との関係は衝突より対話を通じて接触する方が中国を変えさせる上でも、いっそう有利となるであろう。

おわりに

要するに、これまで見たように、新興大国の中国と既存の大国アメリカとの関係は重大な意味を持っているため、それはこれからの国際関係に決定的な影響力を及ぼす可能性があると考えられる。今回の胡錦濤の訪米により、ある程度、中国とアメリカの関係は改善できたが、根本的な点では大きな変化はないであろう。つまり、実力の競争とイデオロギーの違いから見て、今後も両国の間にはやはりいろいろな摩擦が生じるに違いない。しかし、中米の実力の差と中国国内の状況が、中国政府をしてアメリカと出来るだけ衝突を避けさせる政策を実行させてきた。そして、国際状況の緩和、大国同士が衝突することで支払わねばならない高いコスト、それに中米の一部の共同利益などが中米の対立を抑え、少なくとも大規模な衝突が起き得ないことを示した。その意味で、国際状況が安定し、大きな紛争がなければ、予測可能な期間に中米関係が直接、衝突する敵対的な関係でもなければ、あらゆる領域で協力する親密な友人関係でもない状態であると考えることができよう。

 ニュースの裏を読む(10(印刷用pdf) 

長谷川 啓之(経済学博士)

アジア近代化研究所代表

今回の「ニュースの裏を読む」は10回目になる。これまでアジアの多くの国のニュースの裏を読んできたが、今回は主として、これまであまり取り上げなかった国を中心に取り上げてみようと思う。

1)アキノ新政権の経済政策と経済成果

最初は、20106月末に多くの支持を得て誕生した、フィリピンのベニグノ・ノイノイ・アキノ新政権の経済政策について考えて見たい。アキノ氏はフィリピン民主政治の象徴ともいわれたコリーことアキノ元大統領の息子であり、父親もベニグノ・アキノ上院議員で、マルコス大統領にマニラ空港で暗殺されたことで知られる。もうすぐ就任1年になるが、依然として当選当時の高い支持は衰えていない。その理由の1つは順調に推移している経済、それに真摯で公正な態度にあるようだ。アロヨ前大統領時代のフィリピン経済は決して順調とは言えず、最大の目標であった貧困の解消にも成功しなかった。
 そこで、アキノ政権が直面する最大の課題の1つはこの貧困をどれだけ解消し、経済発展できるかにかかっている。アキノが政権を握ってからの経済は一応順調といってよい。つまり07~09年の成長率は年平均で4.0%であったが、10年は7.3%となり、目標の5~6%を上回った。中央銀行のテタンコ総裁はこれを飛躍的な成長と強調している。確かに、外貨準備高も680~700億ドルへと過去最高となった。昨年107日には就任「100日記念演説」が行われたが、上記指標の他にもアセアン内で最良の株価を示し、アロヨ政権時代の腐敗や汚職にも大きな成果を上げ、国営企業や公的機関の経営陣への法外な手当てなども停止した。こうして経済指標の多くが良好なため、演説内容も実績と評価を誇るものとなった。今や、貧困(絶対的貧困)だけでなく、分配の平等(相対的貧困)も実現するとして、貧困世帯への現金給付の増額なども実施している。こうした政策が好感されて、アキノ大統領の当選後の支持率は依然として非常に高く、安定している。
  新政権の経済政策には脱税者の摘発、税金の効果的な徴収、などの不正・腐敗の撤廃といった社会正義の回復とともに、国家競争力の強化のため企業式農業、独創的産業、製造業、観光業、産業社会基盤施設への支援、交通の改善、住宅基盤施設の拡充、育児・教育への投資、などの発展政策を掲げられている。その中の目玉の1つに、最近注目されている官民パートナーシップ(Public-Private partnership, PPP)プロジェクトがある。これは「経済成長の源泉として、「市場」と「競争」を通じ、行政サービスの効率性を向上させるとともに、新たな雇用を創出し、新たなサービス産業を創出する行政サービスの民間開放のこと」と規定されている(www.pppweb.jp/event/seminar/06_2/2.pdf)。つまり、内外の民間と行政が一緒になって、本来は政府が行ってきたインフラなどの経済基盤を作り、民間の経済活動を助け、経済発展を促進しようとするもので、いまやアジア全体に広がりつつある。こうした考え方は、インフラ建設などの政府の支援がないと民間企業の参入が難しい分野に対して、主として適用されるものである。近年、どの国もインフラ整備が貧困削減に重要な役割を果たすとの見方が強く、アキノ政権もインフラ不足に悩むフィリピンに、PPPを看板政策に掲げ、PPPプロジェクトへの国内・海外の企業の参加を呼びかけている。日系企業への参加も強力に行われている。
 本年9月までに入札が予定されている優先的なプロジェクトは、軽量高架道路(LRT1号線、高架道路(MRT3号線の運営・管理の民営化事業、ミンダナオ地方ミサミスオリエンタル州ラギンディンガン空港の民営化、マニラ首都圏ニノイ・アキノ空港とカビテ経済区のアクセスを改善する高速道路の実施、など4件である。これらのプロジェクトに対し、国内からはアラヤ・コーポレーションやサン・ミグエル系の数社と、丸紅、三菱商事、住友商事などの日系企業など、合計44社が関心表明書(EOI)を提出したと報じられている。フィリピン政府は過去にもすでにPPPプロジェクトを実施しており、今後も随時入札を行うものと思われる。PPPプロジェクトはフィリピンに限らず、マレーシア、タイ、インドネシアなど、多くのアジア諸国で実施されており、それら諸国の経済発展にとって重要な役割を果たすと同時に、日系企業にとっても大きな関心事となっている。
 ところで、こうした新政権の経済政策によって、フィリピンの経済発展が実現し、貧困解消に成功するか、となると、筆者にはやや物足りない感じがする。なぜならこれまでなぜフィリピン経済がうまく機能してこなかったのか、なぜ工業化が進まなかったのか、など、フィリピン国内の伝統的な社会・文化的要因を無視して、ごく一般的な工業化政策を行うだけで、経済が順調に発展すると見ていいのか、が疑問だからである。確かに、政治的・社会的不正の摘発などは進んでいるが、法の遵守などをもっと教育を通じて徹底するなど、教育に力を入れる必要がある。政治家もアキノ大統領の個人的な資質だけに依存するのではなく、根絶やしにする法制度などの整備が必要である。これまでのフィリピン経済を見ると、1年や2年経済が成長したからといって、それが持続すると考えることはやや単純すぎると言わざるを得ない。アキノ大統領が高潔で、有能な人物であることは疑う余地が無い。それにもかかわらず、解決すべき課題はあまりにも多く、中長期的な経済動向を見なければ、にわかにフィリピン経済の持続的発展を信じることは難しい。アキノ大統領の手腕を見守りたい。

2)ラオスの政治・経済情勢

向を知る機会は極めて少ない。そこで、今回はラオスの政治・経済の動向について簡単に紹介してみよう。まずラオスに関する基礎的な情報を記しておこう。ラオスの首都はビエンチャンであるが、ラオスは2008年にニューヨーク・タイムスによって「今、行くべき場所」の第1位に選ばれた。中でも北部の町ルアンパバーンは町全体が世界遺産に登録されたこともあって、欧米人が多数押しかけ、小乗(上座部)仏教の国だけあって、早朝の托鉢僧の姿や多くの美しい寺院が数世紀にわたって変わらぬ風景を見せている。朝の托鉢風景は観光客をおおいに楽しませており、最近では、托鉢を経験しようと朝6時から現地の人たちに並んで旅行者が町にあふれる。こうした風景は政治・社会が安定する最近まで想像もできないことであった。だが、残念ながら政治的には安定しているものの、経済は決して順調とはいえない状態が続いている。
 簡単に過去を振り返って見よう(詳細は、長谷川啓之監修『現代アジア事典』文眞堂刊、を参照)。53年のフランスからの独立以後、政治的混乱が生じたが、75年にベトナム戦争の終結に伴って、ラオス人民共和国が成立し、97年には他のインドシナ諸国とともにアセアンに加盟し、徐々にではあるが近代化へと歩き出した。面積は日本の本州とほぼ同じである(約24km2)。そこに、わずか600万人程度の人々が住む。民族はラオ族を中心に、49の民族があり、言語はラオス語、宗教は仏教である。
 また政治面の特徴をいくつか上げておこう。まずラオスは海に囲まれた内陸国であるため、大きな恵みをもたらすのは川である。周辺は中国、タイ、ミャンマー、カンボジア、ベトナムの5カ国に囲まれ、それら諸国にも関係の深い川がメコン川である。政治体制は75年以来、ラオス人民革命党の一党指導体制であり、5年に一度の選挙で選ばれる一院制を敷いている。20103月に第9回の党大会(5年毎)が開催され、86年の改革路線が継続されることとなった。
 経済面を見ると、ラオス政府によれば、一人当たり国内総生産(GDP)は916ドル(09年)であり、1日に直すと3ドルにも満たない。依然として貧困国に変わりは無い。このように貧しい国である理由はなんと言っても工業化が進んでいないことである。統計がほとんど無いので、正確なところはわからない。だが、輸出品目を見ると、銅、縫製品、電力、金、農産・林産物となっており、輸入品目は投資プロジェクト用建材、燃料、消費財、工業・縫製原料となっている。これを見ると、ラオスが電力と一次産品を中心に輸出し、工業製品を輸入していることがわかる。典型的な後進国である。それでは将来性は無いのかといえば、必ずしもそうではない。第1にラオスには豊富な森林資源があり、観光、石灰岩、石炭、錫鉱石、鉄鉱石、タングステンなどの地下資源がある。これらをどう活用するかで、大きな経済効果を生む可能性はある。さらに後に触れるように、内陸国だけに近隣諸国との協力関係が重要であり、その構築如何で大きな変化が生まれる余地がある。
 ラオスは1975年以後、経済が混乱したが、78年~80年度に関する経済開発計画の実施を発表し、農林業を基礎とした産業開発の推進などを掲げた計画経済を採用した。さらに8185年にも「経済・社会開発5カ年計画」を発表し、その目標をGDP30~40%成長を掲げ、そのために工業分野の伸びを200~300%、農林業分野では23~24%、重点施策項目には食糧自給の実現、農業・工業分野での合作社設置の促進、運輸・通信分野や流通分野の整備、などを上げた。それらを実現するには当然資本、人材、技術が不可欠であるが、それらはラオスにはまったく欠けていた。この間、ラオスはベトナムとソ連への依存を高めたが、結果的には失敗した。
 そこで、8611月に開催された第4回共産党大会でカイソーン党書記長はラオスの発展には新思考しかない、として新経済メカニズムと呼ばれる開放経済化政策を打ち出した。そこでは経済改革と対外開放政策が掲げられており、その実現には内陸国のラオスにとって近隣諸国との協力関係が決定的な影響力を持つ。中でも、隣り合うタイ、中国、ベトナムとの関係は重要であり、「ラオス・タイ友好橋」(944月竣工)は1つの象徴的意味を表している。
 またアジア開発銀行が構想する「大メコン圏開発」構想などはラオスの発展にとって決定的に重要である。それはメコン川流域のタイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの4カ国が協力して開発しようと言うもので、57年に開始した後、紆余曲折を経ながらも徐々に進展しつつある。開発の対象はアジア開発銀行の計画では、交通、エネルギー、環境、人材育成、貿易と投資、観光、通信の7分野である。この中で特に重視されるのは架橋建設などを含む道路整備とダム建設である。前者の中に「東西回廊計画」がある。これはインドシナ半島を東西に横断する計画であるが、西のミャンマーから始まり、タイ、ラオスを通ってベトナムのダナン港を終点とする道路補修計画である。さらに、「南北縦断道路計画」もタイのバンコクを起点にしてタイの北端に至る路線と、ラオスから昆明へと向かう路線がある。また06年末にはタイ(ムクダハン)とラオス(サバナケット)を結ぶ国際橋が、07年中国とタイ北部、ラオスを結ぶ第3国際橋建設で合意し、09年に着工し、11年完成を目指す。いずれもラオスの経済・社会開発に大きなインパクトを与えることが期待される。97年のアセアン加盟は加盟諸国の協力も徐々に強化されつつあり、ラオスの将来を明るくするものである。また資本、技術、貿易などの面では、特に日本を初めとする西側との関係改善は言うまでも無く重要である。
 06年の第8回党大会では、2020年までに後進国から脱却することを目標とし、外国投資を呼び込むことで、さらなる経済・社会の発展を目指している。むろん、ラオスの資本不足を補うために、各国が援助を行っているが、最も多い援助国は日本であり、日本とラオスの関係は極めて緊密である。
 開放経済化がラオスにいい結果をもたらすことは十分考えられるが、ただちに経済発展に結びつくかといえば、必ずしもそうではない。たとえば、経済は外国から資金や技術が入り、また外国の民間投資が拡大して、活性化しある程度の成長は実現したが、物価は急騰し所得格差も広がった。技術者や科学者、企業家・経営者などの人材不足や一般教育の普及も十分とは言いがたい。これらの分野の改革や発展が進むためには、時間も資金も必要であるため、当面持てる資源を生かしながら、外部との関係を維持し、中長期的観点からの発展を考えていくことが求められる。

3)台湾の次の総統は誰か

 北東アジアの政治情勢は日本を除けば比較的安定している。その中で、注目されるのは来年1月に迫った台湾の総統選挙である。国民党が勝つか民進党が勝つか、は台湾の将来にとっても大きな問題である。それだけに、総統選挙はいつも台湾の世論を二分する選挙戦となる。それが来年およそ8ヶ月後に迫ったことから、早くも427日、両党とも公認候補を正式に決めたため、事実上選挙戦が始まろうとしている。民進党は初の女性候補者蔡英文氏を立て、国民党は原色の馬英九氏が立候補することとなった。
 台湾の戦後の政治は1949年に国民党の蒋介石が台湾を支配したことから始まるといってよい。蒋介石が政権を握って以後、戒厳令がしかれ、その間、蒋介石から息子の蒋経国へとバトン・タッチが行われ、新たな政党は生まれなかった。だが、2000年の総統選挙で初めて国民党以外の政党の結成が認められ、総統選挙が大きくクローズアップされることとなった。中でも注目されたのは、20005月、総統選挙で初めて台湾独立を目指す民進党の陳水扁氏が選出されたことであろう。この政権交代で台湾政治の第2幕が切って落とされた。
 ところが、総統を2期勤めた陳氏が、08520日、スキャンダルを起こして退任した。そのこともあって、民進党の支持は減退し、08年の総統選で民進党候補者は国民党の馬英九氏に敗れた。馬英九氏は香港生まれ(外省人)で1950年に台湾に移住し、台北で育った。行政の仕事をした後の91年国民大会代表全国区に国民党候補として選出されている。98には台北市長に立候補し、陳水扁氏と戦って勝利した。057月に行われた国民党主席選挙に出馬し、第4代主席に選出された。そして083月の総統選で民進党候補を破って、馬英九氏が勝利し、8年ぶりに国民党が圧倒的な支持を得て政権を奪還した。今回の選挙はいわば台湾に2大政党制が定着するか否かを決する重要な選挙となる。まず民進党の候補者蔡英文氏は19568月、台湾出身で客家の生まれ(内省人)といわれる。馬氏もアメリカのニューヨーク大学とハーバード大学で学んだが,蔡氏も台湾大学を出た後、コーネル大学、ロンドン大学で学んだ。いずれも法律を勉強した。蔡氏の政界への登場は20005月に行われた行政院大陸委員会主任委員に就任したのを初め、04年には民進党から立法委員選挙に出て当選した。061月から075月までは行政院副院長(副首相)を務め、085月民進党主席に選出されている。
 今回の選挙で誰が選出されるかが重要な意味を持つのは、以下の点ではないかと考える。第1の理由はもし蔡氏が当選すれば少なからず前総統・陳水扁氏の影響を受けると同時に、機密費横領などの罪で09年、台北地方法院で無期懲役、罰金2億元、終身公民権剥奪の判決を受け、現在公判中の陳氏の判決に何らかの影響を与える可能性があることである。もっとも、陳水扁氏が推進しようとした台湾独立などの対中政策はかなり変化する可能性がある。
 他方、馬氏の対中政策は「統一せず、独立せず、武力行使はせず」、というもので、陳水扁氏の政策とは正反対ともいえる。それは明らかに中国寄りといってよい。かつて台湾人口のおよそ70%が何らかの意味で独立を望んでいるとされたが、現在はかなり減少しているとの意見も聞かれる。内外の諸事情が大きく変化しているだけに、複雑な心境なのであろう。中国の台頭以後、特に貿易や直接投資などの経済面で台湾は厳しい状況に置かれており、中国の関係は最近結ばれた、台湾にとって有利な経済協定締結が軸になり、また海外からの直接投資も中国との関係がよくなければ呼び込むことが難しい。こうした点は当然蔡氏も理解しており、中国との間で関係強化を図り、新たな枠組みを作ろうとしており、彼女は陳氏と違って現実路線を歩むほかはないものと思われる。報道によれば、蔡氏は「台湾と中国は歴史的記憶、価値観、政治制度、社会的アイデンティティがいずれも異なっているが、双方には平和的で安定した関係を追及し、繁栄と発展のチャンスをつかむという共通の責任と利益があると指摘した」との報道がなされている。
  国内政策としては馬氏の経済成長を優先する政策より、むしろ貧富の格差を縮小し、失業者を減らす政策を中心にすえている。いずれも重要な政策目標であるが、結局は経済がある程度成長しない限り、失業率を減らすことはできないだけに、経済動向が大きく作用することになろう。
 ところで、両者の支持率はどうなっているであろうか。台湾の主要メディアによれば、世論調査にはばらつきがあるが、33~43%の間で両者の間には1%程度の差しかなく、ほぼ互角だとの調査結果を発表している。だが、かつては蔡氏が大きくリードしていた時期もあり、まだ選挙は8ヶ月以上先のことであるだけに、予断は許さない。

編集後記(印刷用pdf) 

世界は相変わらず激動の時代を迎えています。その中でも、特に日本は福島県を中心にM9.0という未曾有の地震に見舞われ、原発事故も発生して、原発の恐ろしさを改めて認識させられました。今から10年ほど前の9.11を思い起こす事態だと思っていましたら、本日(52日)9.11の首謀者とされたオサマ・ビン・ラディンが殺されたというニュースが飛び込んできました。なんとも不思議な感情にとらわれた次第です。ニュースでも指摘していますように、これでテロ事件が終わるわけではないでしょう。これをある種のイスラム教徒とキリスト教徒との戦いとみれば、その根源は十字軍に始まるともいえるだけに、簡単に終結するとは思えませんが、こうした争いが一刻も早く終焉することを願わずにはいられません。
 さて、今回のニュースレターは第10回目になります。アジアを日本に紹介するという所期の目的を達成すべく、今回もさまざまなアジアの国々の変化や近代化への動きをお届けしたいと考えました。その結果、中国、韓国、フィリピン、ラオス、台湾などを取り上げてみました。翻訳家でエッセイストとして著名な田口佐紀子さんには得意の中国紀行を書いていただきました。大変すばらしいエッセイになっていますので、是非お読みください。
 また永野さんにはモッポ(木浦)と日本との関係を見事に考察していただきました。すでに前回も書いていただいており、今回が2回目です。これを読むと、戦前の日本と韓国との関係が実に良く理解できます。次回は第3回目を書いていただく予定です。日本政治と日中関係の第一人者で北京大学国際関係楽員准教授(現在新潟大学客員教授)の梁雲祥氏には忙しい中を、無理やり頼んで、湖錦濤国家主席の訪米が何を意味するのか、中米関係は今後どうなるのか、など日本人にとっても世界中の人々にとっても、大変興味ある問題について書いていただきました。梁雲祥氏の分析は高い学識に裏打ちされており、強い説得力を感じます。
 最後の「ニュースの裏を読む」はこれまであまり取り上げてこなかったフィリピンやラオスの政治・経済状況について考察してみました。紙数の関係上、あまり詳しい説明はできませんので、不十分なところは他の文献やインタネットで補足していただければ幸いであります。(文責:HH)


IAMトップページへ戻る IAMニュースレターのページへ戻る